困っている人
石井 至
第1話 置いていかれる
出勤してパソコンを立ち上げ、社内掲示板を見たときの俺の驚き。
どう言葉にしていいか分からない。
え…。
え?
どういうこと?
おそらくかなり不審に目を泳がせた後、俺が顔をあげて目線をやったのは、同じ職場の少し離れた先輩の席だった。
先輩はすでに着席して仕事をしていたが、おそらく俺の様子を気にしていたのだろう、視線に気付いてすぐに顔をあげた。
目があった。
いつもあまり表情が出ないその先輩が、珍しく少し気の毒そうな表情をしていた。
俺は口をパクパクさせた。
でも、言葉は思いつかなかった。
失礼かもしれないが、俺から先に視線を落とした。そういうことをしても許してくれる人だ。
あの表情は、何か知っていたのだろうか。それとも、今朝この情報を見て、既に驚いた後だったのか。
それは、石原さんの海外転勤を告げるニュースだった。
海外って。
石原さん、英語話せたっけ。
…俺、よく知らないや。
あの人のこと、よく分かってないや。
「こういうのって本人は事前に知っているものなんですか?」
俺を気の毒そうに見ていた先輩、佐々木さんに昼飯に誘われた俺の、社外に出て最初の質問はそれだった。
「こういうのって…異動のことか」
他に無いだろ、とイラつく俺に、佐々木さんはいつも通りのマイペースで応じた。
「社内異動だったらギリギリまで知らない可能性もあるけど、今回の石原みたいに海外ってなると、一か月前には上司から内示を出されているものだ。準備が必要だから」
やっぱり。
「佐々木さんは、知っていたんですね」
「先週本人から聞いた。お前にも言ってやれと言っておいたが、多分何も聞いていないだろうと思っていた」
「…ええ。何も」
ため息。
俺がめちゃくちゃ慕っている石原さんは、自分の同期の佐々木さんには何でも話すが、後輩の俺には何も話してくれない。
俺は石原さんが好きだ。男だと言うのにマジ惚れし、三つ指ついて告白をし、現在完全にスルーされている。
そして、石原さんはそんな情報まで、佐々木さんに話してしまっている。
石原さんは、何かあると佐々木さんを頼る。多分、イザというときにいつでも頼るため、普段から自分の身の周りに起こった出来事を、逐一報告しているのだと思う。そういうふうに、石原さんは他人を利用するところがあるのだ。
それは分かっている。
それでも好きだというか、そういうところも好きだというか、とにかく俺にとって石原さんは魅力が凄すぎて、些細な短所も全て長所に見えてしまう。
人は自分に無いものに惹かれるものだ。
一方の佐々木さんは、石原さんを必要以上に甘やかすでもなく、時に助けつつ、俺と石原さんとの間に発生しているこの状況を、少し距離を置いて観察している。
石原さんを追い求めていると、必ず佐々木さんの壁にぶち当たる。しかしそれは、佐々木さんが邪魔をしているからではなく、石原さんが佐々木さんを使うからなのだ。
それも分かっている。
分かっているんだ。
「はぁ」
ため息。
いや、深呼吸。
じゃないな、やっぱため息。
「……」
言葉を失くしていると、二人の前に牛丼が並んだ。
佐々木さんが、俺に箸を渡す。
「…ありがとうございます」
礼を言いながらも胃がきゅっと縮む感覚がある。食欲なんて無い。片付けが苦手な石原さんに頼まれて、合鍵をもらって毎週土曜日に部屋の掃除に行っていた。本当に嬉しく楽しく。先週も行った。石原さんの部屋は、これから海外へ行こうという人の部屋には思えなかった。きっとあの部屋も引き払うのだろう。俺は、何も知らずに掃除をしていた。部屋の奥のベッドマットに、石原さんは小さく丸まって眠っていたのだ。俺はその背中を、ただ微笑ましく見ていた。
俺が告白をしたので、石原さんは俺のことを警戒していた。しかし、害が無いと判断すると、俺に自分の部屋の片付けを任せるようになった。
害が無い、というのは、俺がめちゃくちゃ運動神経が鈍く、体力が全くなく、石原さんにとって「弱い」と判断されたためである。
当初は、告白なんかして失敗したなって思っていたけど、俺は石原さんとの距離を正常に回復させながら信頼を勝ち取り、できれば更に少しずつ近付きたいと思うようになっていた。
近付くのが関の山で、付き合ったり、そういうのは無理なんだって分かっていたけど。
「それ以上痩せたら、石原の見送りもできないぞ。食べなさい」
佐々木さんが言った。
「…はい」
佐々木さんは事あるごとに俺を「ガリガリ」呼ばわりする。
佐々木さんは背が高くて、身体がガッシリしていて、なんか絵に描いたような「大人」な人だ。マイペース。あの石原さんにも振り回されずにいられる人だ。
マイペース。
いや、鈍感?
鈍感だな。多分。この人。
鈍感だけど、それが大人っぽく余裕っぽく見えて悔しいのだ。
石原さんを挟んだ出会いでなかったら、少しの疑問も感じずに、良い先輩だと思っただろう。
いや、正直、良い先輩だと思っている。
姉貴とくっつけたい。あの石原さんをうまくあしらっているのだから、うちのドSの姉貴のこともなんとかしてくれるだろう。
しかしだ。
こちらはこちらで、問題が発生しているのだ。
「後藤。ちゃんと食べて、運動して、身体作って、大人になって…」
お母さんみたいに食べることを勧めてくる。
「もう大人ですよ」
「年齢は大人かも知れないが、たまに学生みたいにも見える」
シレっと失礼。
「放っておいてください。そのうちオッサンになります」
「オッサンまで何年かかるんだ」
「知りませんよ」
「お前が学生っぽいままだと…」
そこで佐々木さんは黙った。
「俺が学生っぽいままでも別にいいでしょう」
ふん。どうでもいいじゃん、そんな気持ちでノロノロと箸を握りなおす。
食べよう。少しでも。
そう思って、丼を持ち上げたとき、佐々木さんがボソッと言った。
「お前が学生のままだと俺はこれ以上進めない」
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