かつて流れなかった涙の話
赤い自販機を見ると、胸を締め付けられるような、酷く悲しい気持ちになる。それだというのに、決して涙を流すことはなかった。
小学生のときに好きな女の子がいた。
その日はその子と二人きりで遊べたので、とても良い日になると思っていた。
「ねえ日陰くん、喉乾いちゃったから自販機でジュース買わせて」
「おう」
その子、雪奈が近くの自販機でジュースを買おうとすると、手から百円玉がこぼれ落ちて、コロコロと転がっていった。雪奈は慌てて追いかけて、少し走った先でようやく百円玉を止めて拾った。
「ごめんごめん」
そしてこっちに向き直り、小走りでこちらに戻ろうとしたが、自分で自分の足に引っ掛かって転んでしまった。恥ずかしそうにすぐに起き上がろうとして、
ごっ
それを邪魔したのはトラックだった。
飲酒運転のそのトラックは、雪奈の下半身や何人かの通行人を道連れにブロック塀へと突進して、自らの車体すら固い石の塀にめり込ませていた。
さすがに頑丈な作りなのかトラックはバックを始め、塀とトラックの間にできた惨状が明かされる。ひしゃげた人間が幾人か、人としてあり得ない形のただの肉の塊となり、一瞬で血が溢れた。近くにいた人が何人も悲鳴をあげて、ときおりそれに嘔吐する音も混じった。
雪奈は、下半身がなくなっていた。スカートもどきの布切れと靴下が張り付いているからおそらくそれが元は雪奈の下半身だったんだろうなという肉が塀に貼り付いていた。
「……………?」
当の雪奈といえばまったく状況を把握せず、ただ困惑と驚きがまじった色の表情をしていた。
転んで立ち上がろうとしたところに急になにかがぶつかってきて、視界がぐるんぐるんと回転してようやく止まった、衝撃により、それぐらいの認識で止まっているのだ。
だって雪奈は、下半身がないのに立ち上がろうとしたのだ。
「あれ?」という顔をして、後ろを振り向こうとして、また、なぜか前進してきたトラックがやってきた。
「…………………………………………………………………」
今度は、雪奈の全てを巻き込んだ。
バックしたトラックと塀の間にあったのは、雪奈が身に付けていたものを変形させたものが刺さった、ただの肉の塊があった。
世間では飲酒運転により子供含む死者数名の事故として大きく報じられていたが、俺の家では別のことが問題だった。
「……日陰、あんた本当に夕飯ハンバーグでいいの?」
「うん」
泣いてもいいはずなのに、俺は結局一度も涙を流していないのだ。それどころか苦手になっていてもおかしくない挽き肉も余裕で食べられる。
「俺ってバカなのかな」
「日陰……」
「好きな子死んじゃったら泣くだろ普通」
「……………」
「泣かないなら普通じゃないし、俺の方が死んだほうがいいんじゃねえの」
「…………………………………」
カウンセラーの元へと連れていかれた。優しそうな女の人だ。
「こういう酷くショックを受ける体験をしたときはね、すぐに泣けないときがあるの」
「なんで?」
「あんまりにもショックで、それを全部一度に心が受け入れると、容量オーバーで心が疲れて動けなくなっちゃうの。心が動けなくなると体も動けなくなるから、そうならないように脳みそが命令を出すの」
「…………………」
「こうやって毎日暮らしていくなかで、悲しみを少しずつ少しずつ受け入れて、ようやくちゃんと受け入れても心も体も壊れないぞって脳みそが判断したらようやく泣くの。
よくある話だと、旦那さんが亡くなって、葬式が終わってからようやく泣く奥さんやお子さんとかね」
「……………………」
「君は全然間違ってない。今はまだ、君の負担にならないように体と心が調整してくれているんだよ」
「……………………」
一か月。二か月。三ヶ月。
半年経っても俺は泣けなかった。一年経っても泣けなかった。いくらお盆を迎えても、事故現場を見ても、泣くことはなかった。
「……俺って人でなしだな」
そんなことを呟きながら布団に入ると、次に目を開いたときには自室ではない暗い空間に雪奈がいた。明かりなんて一つもないのに雪奈と自分の体ははっきり見えた。
雪奈は生前の体をしていると思ったが、体にも顔にもあちこちに縫い目が走っている。そして、何か液体が入ったボトルのようなものを持っている。
『久しぶりだね』
「雪奈……お前、大丈夫か?」
『うん。もう体は痛くないよ。
……ごめんね、あんな姿見せて』
「お前は悪くねえよ! 悪いのはあの飲酒運転ヤローだ」
『そうだね……でも、やっぱり私があそこで百円を落とさなきゃとか、戻るとき転ばなきゃ、とか思うんだ』
「………………………」
『それでね、これなんだけど、この中に日陰くんの涙を入れてるの。だから涙が出ないんだよ』
「え、なんでそんな……」
『泣くと心も体も壊れちゃうんでしょ?
じゃあそんな危ないもの渡さない。私が死んだせいで、日陰くんがおかしくなっちゃうなんて絶対嫌。
………私だって好きだったもん、日陰くんのこと』
「へ、な!?」
『だから、これは私がずっと持ってるね』
そこで夢が覚めた。
朝になり明るくなった天井と、誰もいない部屋。
「……………………」
涙は当然、一滴もでなかった。
一年経っても二年経っても三年経ってもそのことで涙が出ることはなかった。御山が酷い目に遭ったときは怒りながら泣いていて、アイが転校していくときも寂しくて泣いたのに、雪奈のことだけはどこまで詳細に思い出しても、事故現場に行っても、泣くことはなかった。
「……というのを赤い自販機見るたびに思い出すんだよなあ。そのときの自販機が赤かったからさあ」
「………………」
何気なく、他意もなく、本当に雑談の一種として三島に振った。雑談にするには重すぎるかなあと思ったが、三島にはだいたい何を話しても淡々と受け入れてくれるからつい話題のアウトとセーフのラインを間違えてしまう。
ちら、と見てみたが三島はいつもの無表情のままだ。嫌な顔をしているわけではないからいいだろう。多分。
「あ、ちょっとトイレ」
「いってらっしゃい」
「すぐに戻ってくるからなハニー。愛してる!」
「なにそれ……」
近くのコンビニへ駆け込んでいく。気温は高い。さっさと済ませて、三島のところに戻らないと。
*****
私の隣に赤い自動販売機がある。だから彼はあんな話を急に話しだしたんだろうか。
それとも、無意識で感じ取っていたんだろうか。
「…………雪奈ちゃん?」
『……………………うん』
近くに、継ぎはぎだらけの女の子の幽霊がいた。水でいっぱいになった大きなボトルを何本も地面に置いている。
「それ、不動くんの涙?」
『……………………うん』
「返してあげなよ。それは不動くんのものだよ」
もう持つことすらできずに、何本も何本も地面に置かれた何本ものボトル。それは彼女を悼んだ気持ちが形に現れたもの。
『でも……』
「赤い自販機なんてそこら中にあるよ。そのたびに悲しい気持ちになるのに絶対泣けないってそれはそれで辛いんじゃないかな」
『……………………大丈夫なの?』
「…………大切な人が死んだら辛いけど、区切りが必要なの。その人はもう別の世界の人なんだって、その人はもう記憶の中だけの人なんだって。だから人はお葬式をしたり法事をしたりするの」
『………………』
「泣くのは、一番簡単で、一番大事な"区切り"だよ。泣いてようやく、悼む気持ちと悲しい気持ちを流し出して、気持ちを切り替えてその人がいない新しい世界で前を向いて歩いて行けるの。
涙を流せないと、いつまでも"あなたが死んでしまったとき"から進めないんだよ」
『………………』
「進めさせてあげようよ。不動くんは……まだ生きてるから」
『壊れない?』
「………………」
『私が死んでからずっとずっと涙が貯まっていくの。もう私には持ちきれないの。それを全部返して、日陰くんは壊れないの?』
「大丈夫だよ。私には霊感があるから。壊れないように、私とあなたで様子を見ながら返してあげるの」
『………………………』
ふぅ、と小さく息を吐くと、雪奈ちゃんは青空を仰いだ。雲一つない爽やかなそれは、死者には少し眩しすぎるかもしれない。
『……お母さんとお父さんはね、もう私に泣いてくれないの』
「………………………」
『犯人は捕まってるし、もう何年も経ってるし、妹や弟のためにしっかりしなきゃいけないし、お仕事とかもあるし、当然だよね』
「………………………」
『だから……日陰くんが泣きたい気持ちになってくれるのは、すごく嬉しいことなの』
「………………………」
『でも……ダメなんだろうね。もう私、死んでるから……それに』
今愛してるのはあなただもん、と小さく笑った。
*****
「いやー混んでてさあ」
「おかえり」
三島が財布を取り出して小銭を漁り始めた。
「ジュース買っていい?」
「おう……」
そして三島が百円玉を自販機に入れようとしたとき、百円玉がするりと手をすり抜けて歩道の上を転がっていった。
そしてそれを三島が追いかけようとする。
それはまるであのときのようで、心の中から何かが噴出した。
「……っ!」
「………………」
三島を後ろから抱き締める形で止めた。暑さとは違う汗がだらだらと出ていて、三島にも聞こえそうなほど心臓がバクバクいっている。
百円玉は、電柱にぶつかって止まった。
遠くで車が通る音が聞こえてくる。でもそれだけだ。こちらへ向かってくる車はいない。
「……………あ、わり……」
「いいよ」
ぼろり、と急に涙が流れ出した。ぬぐってもぬぐっても止まる気配はない。
「え、なに、意味わかんねえ」
「泣きたいなら泣いたら」
「いやほんとなに、わけわかんねえ、ごめん」
決壊したようにぼとぼとと涙が流れてくる。三島の肩口に顔を埋めて泣くのはあまりにもカッコ悪い。すぐに止めないのに、意思に反して涙は延々と止まらない。
「なにこれ……ほんとわかんねえ……」
「そう」
本当にいつも通りに淡々と、三島は泣いている俺を受け入れてあやすように背中を撫でる。わけもわからず延々と泣き続けて、水すら奢ってもらって、その日は本当にカッコ悪い日だった。
その日の夜、夢を見た。
雪奈が夢に出てきて、「ごめんね」と謝ったあとにどこかに消えていく夢だ。
その日以降、赤い自販機を見ても悲しい気持ちが湧きあがることはなくなった。
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