釣り
すっ、と音もなく釣り針を垂らす。
「ああ、いけません。いけませんよ」
「?」
釣りを始めてから数分もしないうちに、見知らぬ老いた男が声をかけてきた。
「あの看板をご覧なさい」
彼が指さす先には、『釣り禁止』と記された看板がある。
「ここで釣りをすると幼いものばかりがかかるのです。それはいけません。育たぬうちに釣ってしまっては、いずれいなくなってしまう」
「おや失敬。見逃していました」
釣りをする者としてお恥ずかしい、と頭を下げると、老いた男はいえいえ、と笑顔になる。
「分かってくだされば良いのです。どうです、あちらのほうに良い場所があるのですが、ご一緒しませんか」
「よろしいのですか?」
「ええ。一人で釣るのも良いですが、会話をする相手がいるのもまた別の良さがあります」
釣りの道具を持って、そちらへと移動する。今日は楽しい釣りになりそうだ。
*****
雲の切れ間から垂れる釣り針にかかってはならない。雲の上の釣り人のものだからだ。
「…………………」
青い青い遠くの空の中にぽつんと浮かんでいるのは、じたばたしている大人の誰か。きっと雲の上の釣り人に肉体ごと魂を釣られてしまったのだろう。その行く末を、私は知らない。雲の上に知り合いなんていないからだ。でもきっと、地上から川や海で行われるそれと同じなのではないかと、なんとなく思っている。
子供は滅多に釣られない。釣られるのはいつも大人ばかり。釣り針があるのはオフィス街や繁華街が多く、逆に幼稚園や小学校では見たことがない。向こうにも、こっちの世界にあるような釣りのマナーがあるんだろう。
釣り針にかかった人のことを、普通の人は視ることはできないし、声も届かなくなる。いくら叫んでも、あがいても、いずれは雲の向こう側へと姿を消す。
キャッチアンドリリースもするのか、たまに釣られた人がこっちの世界に戻されて、『神隠しからの生還』なんてニュースになったりする。もっとも、その人の精神がどうなってるかまでは分からないが。
「いらっしゃいいらっしゃい!」
今いるのは商店街。魚屋さんが呼び込みをしてる。
「旬の魚が安いよ! いいアジがはいってるよ! 刺身からフライまで、なんでもうまい!」
「少し買おうかしら」
「まいど!」
あのアジも、釣られたのだ。針ではなく網で捕らえられたのだろうが、同じことだ。結局、日常を生きる最中に突然本来いるべきではない世界につれてこられて、食べ物となる。
「お母さん、私、アジフライがいい!」
「じゃあ、夕飯はそうしましょうか」
きっと、雲の上でも同じような光景が繰り広げられているのだろう。
遠くの雲の切れ間から、また音もなく針と釣り針が一つ、垂らされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます