祖母の花
祖母が認知症になった。
といっても、幸い祖母は穏やかなままだ。変化といえば前より家のなかで過ごすようになり、食事をした記憶をなくしたり、同じ話を繰り返したり、その程度。ボケる前と同じように日がな一日ペットの犬や猫たちの相手をしているので、家族の負担はそう大きくなかった。
「ちょっと、おばあちゃん知らない?」
「え?」
母が突然そう尋ねてきた。
「ちょっと前に庭でタローと遊んでたけど」
「見たけどタローもおばあちゃんもいないのよー。ちょっと探してくるからアンタ家にいなさい」
「わかった」
大丈夫なんだろうか、と思ったと同時に玄関のドアが開く音がした。二人で向かうと、祖母が玄関の花瓶に花を差していた。
「おばあちゃんどこ行ってたの?」
「タローの散歩」
「そうなの~。最近危ないから、外出るときは家の誰かに言ってからね」
「うん」
母が祖母を居間につれていく。タローは玄関前で尻尾を振っていた。そういえばそろそろおやつの時間だ。
「タロー、足拭いてやるからじっとしてな」
「わう」
タローの足を拭くタオルをとろうとして、ふと花瓶に目がいった。
(どこから持ってきたんだ。あれ……)
庭の花だろうか。庭には祖母が趣味で育てていた花がたくさんあるのだ。
*****
かたん、と音がした。
「…………」
まただ。
自分以外誰もいない部屋。そして当の自分はベッドの上でゲームをしているので物音なんてたてようがない。
かたん、と。
けれど、音がする。最近ずっとこうだ。自分の部屋だけじゃなくて、リビングでも、風呂でも、キッチンでも。他にも、妙に高い場所に引っ掻き傷があったり、棚の中の物が落ちていたり。まるで他にいるかのような違和感。それは、家族全員が感じていた。
「ネズミはいないって」
「そう……」
業者も呼んだが、正体不明のままだった。ただ物音がするだけだが、薄ら寒いなにかが家を包んでいるような感じがする。
「んー……」
「ばあちゃんどうした?」
「あたしはお昼ご飯たべたのかな?」
「食べたよ。ほら」
昼食を食べる祖母を撮影した画像を見せる。「そうか」と納得してまた猫を撫で始めた。ボケた祖母だけがのんきにしている。
「ばあちゃんはさ、変なのとか見てないの」
「変なの」
「そうそう。お化けとか」
それは気まぐれの質問だ。なにかを期待したわけじゃない。ただ意に反して、祖母は口を開いた。
「見たよ」
「…………え」
「ときどきなんか煙が廊下をうろうろしてるんだあ。タローは平気そうだけどミーコもサンも嫌がってる」
ミーコやサンは、飼い猫の名前だ。
「それは、何」
「わかんねえよお。なんだろうな」
それっきり、会話は終わり。祖母はまた「あたしはお昼を食べたっけ?」と問いかけてきた。
「煙かあ……」
「わう」
「吸えばいいのかなあ」
タローを伴いながら廊下に掃除機をかけつつ、祖母の言葉を思い出す。スイッチが入った掃除機を突きだして、正体不明の「煙」とやらを吸い込むイメージをする。昔そんなゲームがあった気がする。
「……ウゥ」
タローが急に警戒心を露にした。
「タロー?」
『嫌よ、それ……』
妙にハッキリした女の声が聞こえた。家族の誰でもない高い声。えっ、と動揺すると弾き飛ばされたように掃除機が手から離れて壁にぶつかった。
すう、と煙のようなものが一条、目の前を走る。
「え、なに」
『きっと汚いもの、その中……』
「ワンワンワンワン!!!」
けたたましくタローが吠えるが、対抗するかのように煙が何条も何条も部屋に走る。まるで火事のように廊下が煙に満ちて全ての逃げ道を塞がれたような気がした。
「た、タロー……」
「ワンワンワンワン!!!」
タローを抱いてへたりこむ。急になんなんだ。
『嫌よ……』
「わ、わかった! 吸い込まないから!」
『…………だめよ。何するか、わからないから……』
煙が形をとって、手のようなものを作り上げた。
『黙ってて……しばらく……』
「や、やだ! なにするの!」
『何もされたくなかったら……戻して……戻してよ……』
「戻してって、何を……」
「お花を」
玄関のドアがいつのまにか開いていた。開いた先にいるのは家族ではなく、近所で有名な霊感少女。手には回覧板を持っていた。
「このお花、三丁目の事故現場のお花だけど、知ってて飾ってます?」
*****
ボケた祖母が持ち帰った事故現場の花────花瓶に飾っていた花を元に戻したら、怪奇現象は起こらなくなった。
「タロー。ちょっと待ってて」
「わう」
タローの散歩の途中、自販機でジュースを買う。一息ついたところで思い出した。ここは例の花がある場所から近い。
空を見上げれば、近くの火葬場からもくもくと煙が上がっている。それは空高く空高く立ち上ぼり、やがて澄みわたる青の中に溶けて消えていった。
(煙か……)
あのお化けは、まるで煙のようだった。
「あの幽霊、いつか成仏できるのかな」
「わう!」
同意するかのように、タローが一声大きく鳴いた。
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