血と肉塊と初恋と
初恋は、小学生のときだった。
「日陰! アンタまた服の裏表逆で着てる!」
「んん? ほんとだ」
幼なじみの雫はしっかりもので、いつもその辺で木の棒を振り回しながら悪ガキ仲間とチャンバラごっこをしている俺の世話を焼いていた。
「擦り傷もあるし、ほら、絆創膏」
「ちゃんと洗ったって」
「ダメ」
遊び回っていた俺があんまり擦り傷切り傷をしょっちゅう作るものだから、雫はいつも絆創膏を持ち歩いていた。俺はそんな雫を、最初は真面目だなとだけ思っていた。
そんなある日だったか、日曜日に飼い犬の散歩をしているときに、雫の家の前を通ると庭から「ヤダヤダヤダ!」という雫の声が聞こえてきた。
「もう、そんなこと言わないの」
「お前も従姉妹のお姉さんの結婚式行くの、楽しみにしてただろ?」
雫の両親の困った声。覗いてみると、いつものTシャツジーパンとは全く違う、ピンク色のドレスをきた雫がいた。
「なに、今日えらくかわいいじゃん」
「!」
俺に気付いた雫が真っ赤になってうずくまる。「お世辞はいい!」と随分と怒ってしまった。
今思えば、たしかに雫は地味な顔立ちだった。その上、雫の姉二人はとびっきりの美人なのだ。その美人の姉二人と同じようなドレスを着て並んで移動するのは酷く恥ずかしかったのだと思う。
けどそのとき女の子よりも蝉の抜け殻集めのほうに夢中になるような幼い精神性のガキだった俺は「ドレスの女の子=かわいい」という頭の中の方程式に従い、かついつもは青や緑や黒い服ばかり着る雫がピンク色の服を着ているのが珍しくて、ついはしゃいでかわいいかわいいと連呼したのだ。
「えーいいじゃんかわいいじゃん。お前ピンクいいじゃん。普段なんで着ないんだよ。俺の姉ちゃんなんてピンクしか着ねえぞ」
「ほら、日陰くんもかわいいって言ってるよ!」
親もそれに乗っかってきた。雫はようやく立ち上がって、俺に小さい声で「……変じゃない?」と聞いてきた。
「何が?」
そう返すと、「そう」とだけ呟いて車に乗った。
「ありがとうねー。あの子ったらオシャレなんか嫌嫌ばっかりで」
「?」
オシャレに命をかけているような姉を見て育っていたせいか、雫はずいぶんお淑やかなんだなと思い始めた。
その頃からだろうか、雫がピンク色の小物を身に付けるようになってきたのは。服は相変わらず寒色系だけど、靴下や、文房具や、ブックカバーがピンク色なのだ。幼なじみなだけあって俺の母さんと向こうの母さんには全てが筒抜けで、「あらあら~」とえらく楽しそうに雫の変化について話していた。
「ねえちょっと! どきなさいよ! アタシのヘアゴム踏んづけてる! このバカ弟!」
「お~~~怖~~~。だから彼氏にフラれるんだ~~~」
「最っ低ー!」
この頃からだろうか。いつか結婚するとしたら、奥さんは大人しい子がいいなと思い始めたのは。別に恋に目覚めてたわけではない。年上の親戚が次々結婚式をあげて結婚というものを子供なりに意識したこと、そして身近にいる女である姉が、偉そうで口の悪い女王様みたいな女だったせいである。
ある日のことだ。友人とのカードゲーム大会を終えて、ぶらぶらと街中を探検していたときのことである。山の麓まで探索範囲を広げていると、怒ったような雫の声が聞こえてきた。
「弱い者いじめなんて最低! 弱い男がすることでしょ!」
「はあ? 膝震えてるくせに生意気言ってんじゃねえよ」
見ると、雫が見知った男子三人にすごまれている。雫のうしろには、大人しくてときどき男子にいじめられてる女の子が泣いていた。
「何してんのお前ら」
「日陰かよ、引っ込んでろ!」
「そうだそうだ! 今あっくんが遊んでるんだぞ!」
「ちょ、あんたは関係ないでしょ!」
「ま~た弱いものいじめだろお前ら。ほら散れ散れ」
しっしっ、と犬を追い払うような仕草をすると、三人組の中でも体格が大きい奴が「なんだとぉ?」とすごんできた。
「はあ? お前こそ俺より弱えくせに偉そうな口効いてんじゃねえぞ。またパンツ下ろしてミニミニチンチンのこと笑ってやろうか」
「え……? あっくん……?」
「て、テキトー言うんじゃねえよ! 行くぞ
!」
立ち去った三人組に向けて舌を出す。
「あ、ありがとう……」
「雫ぅ、オメー弱えくせに何してんだよ」
呆れた。雫は口は回るが、女の子だしそのの中でも小柄なほうだ。いじめっ子の男子なんかに立ち向かうべきではない。
「だってあいつらこの子のこと笑っていじめてたの! 片親だって! お父さんがいないことの何が悪いの!」
「いやそれは知らねえけど、ああいうのに関わったら、ほら、お前が怪我するかもしれねえし」
「そういうのじゃないの!」
ビシ、と指を突きつける。
「何にも悪くないのに、弱いってだけで泣かされてるところなんか、見過ごせるわけないでしょ!」
そのタンカは、真っ直ぐ俺を見据えていた。
「……言うね、ビビって膝震えてたくせに」
「こ、これから強くなるから!」
恥ずかしそうに俯く雫を見て、思った。ああ、いい女だと。
多分これが、初恋というものだと思う。そしてこのとき俺は、女の子に対する褒め言葉を一つしか知らなかった。
「あれだ、お前、かわいいな」
「なっ、何いきなり!?」
「今日もかわいいな雫」
「お世辞はいいから!」
「ピンクの服また着ろよ。かわいいから」
「冗談はいいから!」
「ニコッとしろよ。絶対かわいいって」
「からかってるでしょ!」
「おばさん、なんかかわいいって言っても雫が怒るんだけど」
日曜日。雫の母さんがうちにきてちょうどうちの母さんと雑談していたので、間に割り込んでそれを言うと、「あらあらあらあら」と顔を見合わせていた。
「なに、アンタ雫ちゃんのこと好きなの?」
「うん」
「あら~~~~やだ~~~~! 見る目あるわあアンタ。雫ちゃん、いい娘よねぇ」
「まぁ~! 日陰くんみたいな色男がお婿さんになるなんてあの子ったら~!」
母親二人はえらく盛り上がっている。このまま放置すると延々しゃべったままなので、無理矢理間に入り込んだ。
「で、雫にかわいいって言っても怒るんだけど」
「日陰くん、それ怒ってるんじゃなくて照れてるの。あの子ったら素直じゃないんだからもう」
「?」
「日陰、雫ちゃんのいいなーって思うところ、言ってみなさい」
「えー、真面目なとことかー、いつもきちっとしてるとかー、いつもテスト100点なとことかー」
「でしょ? 雫ちゃんの一番いいところってそういうところなの。だからみんな雫ちゃんを褒めるときは真面目だね、きちんとしてるねって褒めるの。雫ちゃんの一番いいところをすごいねって言ってあげるの」
「うん」
「だから、逆にかわいいねって言われ慣れてないの。雫ちゃんの一番の魅力はかわいさじゃなくてきちっとしてるところだから」
「あー」
なんとなく、分かった気がする。
「慣れたら、ちゃんとありがとうって言ってくれるようになるから。それまでちゃんとかわいいねって言いなさい。あと、ただかわいいじゃなくて、こういう仕草がかわいいって言いなさい」
「なんで」
「そのほうが女の子は嬉しいの」
母親の助言に従い、雫の細かいところを褒めるようにした。最初は前と同じように真っ赤な顔で喚いていた雫も、だんだんとそういうことがなくなって小さく「ありがとう」と言うようになってきた。
バレンタインの日。朝から寒い中、雫が母親連れでうちにやってきた。いつか見たピンク色のドレスを着て、髪もかわいく結ってある。ガチガチで緊張している雫が、無言でかわいくラッピングされた箱を突き出してきた。俺が受け取って礼を言う前に、雫は玄関から逃亡した。
「雫っ! ああもう! も~あの子ったら。あ、これ手作りよ日陰くん」
「おおー」
バレンタインチョコ。手作りのものは初めて貰った。ホワイトデーにはちゃんと告白して好きと言おうと、そのとき思った。
そうなる前に、家庭の事情とやらで雫は遠くに引っ越すことになった。
「……うぅ……」
「何泣いてんだよ……」
引っ越し前日、雫が行方不明という知らせが入って大人が大慌てで町中を探している中、なんとなくいつかの山の麓に行くと、雫が一人でうずくまっていた。
「だって……」
「よくわかんねえけど、親の事情はしょうがねえだろ」
自分でもあっさりしていると思う。おそらく、自分の恋は恋でもまだ本当に未熟なもので、別れが悲しくて泣き叫ぶような情緒がまだ育ってなかったのだ。
「やだ……引っ越したくない……」
「おばさんたち心配してるぞ。……お前だって分かってるだろ」
「…………」
俺は問答無用で雫の手を引いて歩く。太陽を隠す曇り空の下、しんしんと雪が積もる中で俺は雫の手を引いて川沿いの道を歩いていた。あれだけ長く雫と手を繋いでいたのはあのときくらいだろう。
「……………」
「……………」
家が近い。白いマンションの壁が見える。
「……あのさ」
「ん?」
「最後に一回だけ……かわいいって言って」
「ん。じゃあこっち向け。お前いっつもそっぽ向いてるよな」
手で雫の顔を無理矢理こちらに向ける。
「かわいい。一番かわいいぞ雫」
「………………っ」
雫はまたあっさりと顔を紅くして、走り出して自分の家へ向かっていった。
そんな雫が自殺したと聞いたのは、俺が高校生になってからだった。
*****
「神ゲー」
「どの辺が」
「内臓の質感」
「局所的すぎ」
三島が半眼になって俺を見ている。だってさあ、と俺はスマホの画面を三島に突きつけた。
「分からねえかこのぬるぬるテカテカが。今まさに体から出てきましたよーってかんじの生きてる内臓感が」
「ゲームシステムとかのことについて聞きたいんだけど。あとゾンビの内臓は死んでると思うよ」
三島は淡々とツッコミを入れてくる。かわいらしいカフェでの会話にはホラーゲームの新作の論評は相応しくないと思うが、数少ないお互い共通の趣味なんだからしょうがない。だって、俺が今好きなのは目の前にいる三島だから。
小学生の未熟な恋を引きずるわけもなく、美しい思い出として胸にしまって、今は三島に夢中だった。
「犬は?」
「いつも通りクソ強い」
「やっぱり……」
「いやでも今回はサブスキルあるからだいぶ楽になった。全裸脳みそ砲すげぇよ」
「こちらイチゴムースです」
「はい」
店員がきた。不穏な話題を中断して、届いたケーキを頬張る前に、三島はイチゴムースを撮影し始めた。
「うん、かわいく撮れた」
「三島もかわいいぞっ」
「知ってる」
「ひゅー、そういうとこ好きだぜ」
「はいはい」
ケーキを食べながら、三島は「かわいいカフェっていいよね」と言い始めた。
「明るくてかわいくて、こういうところにはお化けもいないから、写真を撮っても心霊写真にならないもん」
「……いや、撮れんの? 心霊写真」
「私が撮ると大体そうだよ」
三島はいわゆる“霊感少女“だ。痛い子だと名高いが俺は本物だと思っている。
「えー、ちょっと見せてくれよ」
「今画像ないもん」
「じゃあさー、ここ出たら外行ってどっかテキトーなとこで撮ってくれよ」
どうせ今日は予定も決めずにぶらぶらするつもりだったのだ。カフェを出たあと、アーケード街の中を進む。
「人多いところだとお化けと生きてる人の区別つけにくいんだよね」
日曜昼間の人でごった返しているアーケード街ではダメなようだ。そこを抜けて、人がいない方向に進む。
「この辺なら、いいかも」
「そっか、それじゃあ……んん? おっとこれ、俺が複雑な気持ちになる展開?」
「どういうこと」
ここは駅前から少し外れた通り。細い通りが多くて交通の便が悪いせいか、あまり活気がないところ。
「いやさあ、この間俺の幼なじみが飛び降りたらしくてな。初恋の子だったんだが」
「……へえ」
「確かこの辺なはずだ。撮ると写っちゃうんじゃねえの」
雫が引っ越し先の北海道からこちらに一家で戻ってきたのは半年前。だが、俺は雫と会うことはなかった。北海道にいる間に難病を発症した雫は、専門医がいるこの町の病院に転院してきたものの、先の見えない病との戦いに疲れ、病院から脱走して身を投げたという。
「……その子って、ショートカットの小柄な子?」
「おお。そうだけど……」
「いるよ」
指をさす。何もない、薄暗い裏路地を。
「そこに、倒れてるよ。うつぶせで」
そこは、まさしく雫が飛び降りたと親から聞いていた場所だった。
「……成仏してねえのかー」
自殺は成仏しにくいんだったか。たしかオカルト本でそんな風な記述を見たことがある。
「なんか言ってたりする?」
「ううん。ずっとうつぶせで倒れてるだけ。飛び降りて、地面にべちゃってなってそのままってかんじ」
俺には、何も視えない。
「俺にも視えたらな。なんか方法ない?」
「幽霊さんが視えるようになる方法?」
三島は、少し考えた。
「とりあえず、夜中とかに来てみたら?」
丑三つ時。俺は昼間と同じ場所に立っている。
「マジかい」
本当に、雫がいた。いや、最後に実物の雫を見たのは小学生のときで、成長した雫は葬式の遺影でしか知らない。その上この女はうつぶせだ。雫かそうでないかの判別はつかない。
「おーい、雫? 声変わりしたからわかんねーと思うけど、俺だぞ。不動日陰。覚えてるか?」
『やめて』
女が、いや雫が答える。うつぶせでのままで。
『帰って』
「いや、帰れはこっちのセリフだって。何こんなところでへばりついてんだよ。噛んだガムかよ。家に帰れ」
『触らないで!』
もし触れれるようならいっそ引きずって家に連れて行こうとしたら大声で叫ばれた。急にどうしたと思ったが、昼間の三島のセリフを思い出す。
────地面にべちゃってなってそのままってかんじ。
「あ、顔ぐっちゃーになってるから見られたくねーってか」
たしかにビルから飛び降りて、顔面から落ちればさぞ無惨なことになっただろう。
「いや俺知らんしそんなの」
『やめて! 引っ張らないで!』
「大丈夫だって俺平気だから」
『やめて!』
「ここにへばりつかれて地縛霊? 悪霊? とかになられたほうが嫌」
力尽くで雫を地面から引き剥がす。想像通り、顔面は崩壊していた。鼻も口も目も何もかもが平べったくなっていて、位置も形も歪になっている。血がだらだらと滴って、地面に新しく模様を描いた。
うん、なんというかこんなかんじのグロ画像見たことあるなってかんじ。ホラーゲームやホラー映画をジャブとしてスナッフビデオにまで手を出している俺には特にダメージはない。グロ耐性が高くて良かった。
「ほら帰るぞ」
『怖く……ないの……?』
「お前のことどう怖がれってんだよ」
地面に叩きつけられてぐずぐずになっている雫の手を引いて、夜の闇の中を歩いて行く。地下鉄数駅の距離は歩くとさすがに遠い。まあいいか、と割り切って歩く。駅から離れ、雲のない星光る夜空の下、カエルの鳴き声を聞きながら家を目指す。
「ほら、もーすぐお盆だし、あのナスとキュウリの……精霊馬? あれ乗って成仏しろ。かっけーやつ作ってやっから」
『……………』
「なんだっけ。三途の川って金必要なんだろ。六文。六文って何円だよ……ああもう面倒くせえから六百円やるよ」
『…………』
夏の夜を歩く。昼間はあんなに暑いのに、流れゆく空気は涼しい。そして空の奥が白んできた。
『……あのさ』
長々と黙っていた雫が、ようやく口を開く。
『あんた、私のこと本当にかわいいって思ってた?』
「思ってたから言ったんだろ」
『……変なの』
ふう、とため息。
『私のことかわいいって言ったの、あんただけだよ』
「周りの奴は見る目ねえな」
時間が経ち、どんどん空は光を取り戻す。もうそろそろ日の出の時間だろう。
しかし今更だが、この雫をどうしようか。俺はグロが平気だから大丈夫だが、雫の家族はそうではないだろう。お盆まで、家族の視界に入らない場所にいてもらうのがいいんだろうか。
そんなことを考えているうちに雫の家族がいるマンションが見えてきた。
「うーん、どうしようか……」
『ねえ』
雫が口をひらく。
『帰るから、最後にさ……かわいいって言ってよ』
「おお、そんなんでいいのか」
俺は雫から手を離し、代わりにしっかりと雫の顔を見据える。
「かわいい。雫はやっぱりかわいいな」
いよいよ持って本格的な日の出の時間となり、強い太陽光がざあと川を、土手を、道を、人を、一瞬で撫でたあと、それを追うように風が一陣過ぎ去っていった。
たしかに目の前にいたはずの雫の姿はもう視えない。まるで風に攫われたかのごとく。
『ありがとう』
風に乗って、小さな、けどはっきりした声が俺の耳の中に届いた。
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