君の望みが叶うまで。
ありま氷炎
前
「君の望みが叶う時がやってきたね。随分、頑張ったと思うよ」
鏡台で髪を梳いていたリチアに、王太子のナムラから声がかけられた。
「どういう意味でしょうか。殿下?」
リチアは髪から手を放し、体ごとナムラに向ける。
彼はまっすぐ彼女を見ながら、口元には歪んだ笑みを浮かべていた。
出会ってから、こんな皮肉な表情を見たことがなく、リチアはひやりと背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
「ずっと我慢してきたんだろう。僕という男の妃になるなんて死んでも嫌だっただろうに」
「殿下!そのようなこと」
「リチア。僕は知っているんだよ。いや、知ってしまったんだよ。でも遅かった。知ってしまった時には、もう僕は君のことを愛していた。だから、知らないふりをして、君を妃に迎えた」
彼女の知られてはならない秘密。目的。
ごまかそうと言葉を探してみたが、彼の目を見れば、それが無駄だということがわかった。
リチアの秘密。
それは、今から十五年前のことだ。
カランティール王国の東側にヤンザム王国が存在していた。
民の暴動と隣国カランティールの侵略で、滅亡してしまった国。
それがヤンザムで、リチアは当時の宰相の娘だった。
宰相が処刑される前日、彼女は使用人に成り代わり、カランティールに入った。
同行する者の計らいで、彼女はカランティール王国の貴族ーーアルホフ家の当主の庶子として迎えられ、ある目的を達するため、努力を続けた。
アルホフ家は貴族とは名ばかりであったが、社交界に出る年齢に達するまで、彼女は貴婦人としての作法、一流の教養を身につけた。
カランティールに密かに流れついた同胞、その者たちの力を借り、彼女は己に磨きをかけ、社交界デビュー後には、王太子ナムラが出席するパーティにも参加した。
ナムラは王太子であったが、弟のザリトに比べると外見も地味の上、性格も陽気ではなかった。ナムラの妃になれば、のちのち王妃になれる、それを目的に若い娘が父親に背中を押され、しぶしぶ話しかけている。そんな存在であった。
事前にそれら事情を理解していたリチアは、美しく派手で、太陽のような輝きを持つ弟には一切目をむけず、一心に王太子のナムラを見つめた。
褐色の髪色に、丸い鼻、真ん丸い青い瞳。
愛嬌がある顔であるが、ハンサムにはほぼ遠い外見。
話す時も覇気がない口調で、淡々としている。
それが、王太子であった。
リチアは濃い緑色の瞳をただ彼に向け、淡々と語る彼の話に聞き入り、相槌を打つ。
女性らしさを見せるため、髪は垂らすことが流行りであったが、リチアはその美しい銀色の髪を編み込み、邪魔にならないようにしていた。
以前にナムラがダンスの最中に女性の髪がボタンに絡んでしまうことがあり、困らせる事があった。それ以来彼が髪を纏めない流行を好んでいないことを知り、リチアは髪をおろすことをしなかった。
そのように彼女とその同胞たちはナムラの好みを徹底的に調べ、彼女は「彼の好む女性」に成りきった。
リチアが王太子妃の最終候補に残るのは時間の問題であり、彼女は見事にその座を射止め、現在に至る。
そして明日、王太子ナムラが第十五代カランティール王に即位する。
「殿下。私をどうなさるつもりですか?」
自らが口にすべきことではない。だが、リチアは自然とそう問いかけていた。
すると、ナムラは皮肉な笑みを引っ込め、柔和な笑みを作る。
「どうもしないよ。君の望みを実行するがいい。僕は傾国の美女に騙された愚かな王になろう」
「殿下」
「どうしたんだい?妙な顔をして。それが君の望みだろう。カランティール王国を滅亡させる。君の祖国のように」
「殿下」
リチアは口の中がカラカラに乾くのを感じた。何か言葉にしようとするが、「殿下」と呼びかける以外、何も口にできなかった。
「さあ、明日は即位式だ。早く寝よう。もう、僕に付き合うことはないんだ。滅亡に向かう国に、跡取りはいらないからね」
ナムラはやっと彼女から視線を外すと、ベッドに横になる。
ベッドとは互いの愛を確かめ合う場所。実際に愛などそこにはなかったのだが。
彼は彼女の場所を作るために場所を空け、右側に体を寄せる。
結婚してから、王太子妃になり五年になるが、彼が先にベッドに横になるのは初めてで、リチアはしばらく呆然としていた。
寝息が聞こえるようになってから、我に返って、自身も寝支度を始める。
――計画に変更はないわ。殿下が事実を知っただけ。それが一番問題なのだけど。彼はなぜ容認する方向なの。なぜ?私が、私たちが王国の滅亡まで望んでいるというのに。
リチアは寝返りを打って、彼を見つめる。
ナムラはリチアに背中を向けたままで、その表情はわからなかった。
いつもはどんなに疲れていても、彼女が寝るまで優しい口調で、いろいろなことを聞かせてくれる。けれども今聞こえてくるのは彼の寝息だけ。
リチアは眠らなければと言い聞かせたが眠ることができず、明け方カーテンの隙間から朝日が微かに入ってきたころ、ようやく目を閉じた。
けれども、すぐに使用人の声によって目覚めさせられた。
「リチア様、今日は即位式なので眠れませんでしたか?珍しいですね」
にこやかな使用人。その言葉の裏には何もないのにリチアは顔を強張らせた。
「リチア様。大丈夫ですか?戯言を申し訳ありません」
王太子妃――王妃の予想外の反応に、使用人は慌てて頭を下げる。
「気にしないで。ちょっと緊張してるだけだから。こんな大事な日に寝坊するなんて、だめだわね」
「そんなこと!今までは、リチア様、私たちがお呼びする前に起きてらっしゃったじゃないですか。殿下……、陛下も疲れているのだから少し寝かせてあげなさいとおっしゃってましたよ」
「で、陛下が?」
「本当に仲睦まじくて、私どもはとても嬉しいです。このような素晴らしい王、王妃をお迎えできる日がとても喜ばしい」
使用人――カルカは、リチアが王太子妃として王宮に入ってからずっと仕えてくれている優しい女性だった。
その分、罪悪感も深くなっていくが、リチアはいつものように笑顔を貼り付ける。
「カルカ。ありがとう。朝食を、殿下……陛下は召しあがったの?」
「ええ。先に召し上がりました。リチア様も支度が整ったら、お持ちいたします」
「いらないわ。直ぐに即位式の準備に入りましょう。陛下の晴れ舞台ですもの。粗相のないように完璧にしたいわ」
「そうですね。はい。そういたします!」
にこりと人好きする笑顔を浮かべるリチア。
それに微笑みで返して、カルカは直ぐに部屋を後にする。
――すべて偽物。私はこの国を滅ぼす算段をしているのというのに。国民が幸せに暮らしているこの国に、滅びをもたらせる。それが私の、父の、同胞の望みなのに。
父と生き別れる前に、手が真っ赤に腫れるほど握られ、語られた復讐という言葉。そして、同胞から浴びせられる期待。
――私は今日、もっとも卑劣な王妃になるわ。
気分が悪くなるほどの想い。
ちらつくのは、父でもなく、同胞たちの顔でもない。
昨晩ナムラが見せた皮肉な笑顔。
――あれが、本当の彼なのかしら。それであれば、なぜ、彼は私を弾劾しないの?彼は……。
頭痛がしてきて、リチアは額を押さえる。
――弾劾しないのであれば、続けるのみ。八歳のとき、この国に来てからずっとそれだけを思っていたのだから。
扉を軽く叩く音がして、彼女は顔を上げ、額から手を放した。そして笑顔を貼り付ける。
返事をすると、カルカが使用人を数人引き連れて入ってきた。
――私はカランティールの王妃に今日なるわ。
自身にそう言い聞かせて、彼女は即位式に出席するための準備を始めた。
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