第5話

 自販機で買った缶の炭酸飲料は、プルトップを開けた瞬間吹きこぼれた。シュワシュワという音を立てながら泡が出口を求めて吹きあがり、溢れた分がそのまま私の手にまで垂れてくる。黒色の糖液が、私の左手を包んでベトベトにしていく。

 そのプチ悲劇に大仰なリアクションを取れる元気もなく、私は静かにため息をついてからハンカチで手を拭いた。ツイていない日は、どうやらとことんツイていないらしい。

 拭き終えてから、近くにあるベンチに腰を掛ける。疲労と徒労が身体の上に重くのしかかり、気付けば肩をガクンと落としていた。思考は鈍く、後悔は計り知れない。気づけば現実逃避したくなる状況下において、握った缶の冷たさだけが明瞭だ。

 ヤケクソ気味に残った分を一息に呷ると、口中に挑戦的な刺激が走って噎せそうになった。ギリギリのところで堪え、喉を通り抜ける砂糖水を雑に味わう。いつ飲んでも、美味しくはない。

 彼女の血の方が、なんて思うと、後悔へと感情がループする。次に湧くのは、自己否定と不安、そして自分への疑問。

 どうして私は、彼女にキスをしようとしたのだろう。


 彼女を好きになった理由は簡単だ。

 私を受け入れてくれたから。

 ただそれだけの、単純な理由。言葉で言い表せないような、名状しがたい何かがあるわけでも、深い運命的な因果があるわけでもない。

 ただ、誰かに側にいてほしかったのだ。

 私は今まで、吸血鬼であることを隠して生きてきた。事情を知っているのは吸血鬼の血を引き継いでいる母方の家系の人間だけで、父でさえも私の吸血衝動のことは何も知らない。

 現代を生きる吸血鬼は、長年の雑種交配の末に血が薄まり、異形の者としての権能はほぼ失っている。不死ではないし、空を飛ぶことも出来ない。蝙蝠たちを統べる力だってありはしない。生きとし生ける物たちを魅了するほどの美貌も色香も持ち合わせていない。ないないづくしでほとんど人間と変わらないのに、面倒な吸血衝動だけは後生大事に抱えている。

 「あなたはね、他の子とは違うの。『吸血鬼』なの」

 脳裏に焼き付いている、母の嗚咽が混じった声。私を抱いた身体は、落ち着くことなく震えていた。両腕で抱きしめられたから、顔は見えなかった。私はその日、膝を擦りむいた同級生の傷口を舐めて、職員室で怒られていた。

 吸血鬼は望まれざる存在なのだと、幼心に理解した。

 そんな私にとって、祖母はある種の救いのような存在だった。ベッドに横たわった祖母は、いつも子供の頃の話をしてくれた。

 「吸血鬼は、この世でもっと美しい」

 祖母は決まって自慢していた。懐かしい過去を懐古して、笑いながら話をしてくれた。楽し気な祖母の話を聞くと、私の心は温かくなった。

 いつか私にも、素敵な出会いがある。私のこの忌まわしい血の呪いを、理解してくれる人にきっと出会える。協力者が、共感者が、共犯者が、きっと。

 私は努力した。ありもしない才覚を磨き、持っているはずもない才能を発揮し、なれるはずもない才媛を演じた。万人に愛される存在になろうと躍起になった。そうすれば、たとえ私が吸血鬼であったとしても、誰か一人ぐらいは私の側にいてくれると思った。

 それなのに、私が努力すればするほど、優秀になればなるほど、皆は私のことを遠ざけた。いや、違うか。遠ざけたんじゃなくて、持ち上げたんだ。同じ座標にいるはずなのに、同じ空間にいるはずなのに、私だけ、皆と違う場所にいたんだ。

 私の孤独は癒されなかった。むしろ悪化した。悪化して、分からなくなって、また努力する。いったい私は、何人の私を殺してきたのだろう。これじゃあまるで、孤独じゃなくて蟲毒だ。何人もの私を同時並行で飼いならして、一番愛された私を選んで、それを演じて。

 繰り返して、ここまで来た。

 私はただ、側にいてほしかったのだ。隣にいてほしかったのだ。

 吸血鬼である私を、受け入れてほしかったのだ。

 だから、彼女を好きになった。私のために刃を己が身体に突き立て、血を差し出してくれた彼女のことを、好きになった。もしかしたらその役割は、立ち回りは、彼女じゃなくても出来たのかもしれないけど、彼女以外の人間に助けられていたら、その人のことを好きになったのかもしれないけど、たとえそうだとしても、私を救ってくれたのが彼女だという事実は決して変わらない。

 独りぼっちは結構チョロいのだ。優しくされたら、簡単に落ちてしまう。


 そこまで考えてから、ため息を吐いた。それほどまでに大切なモノを、私は自らの手で壊そうとした。その事実に後悔は募り、降り積る。

 ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、もうやがて五分前の予鈴が鳴る時間となっていた。ポケットにしまう前にいつもの癖でパスコードを解除してしまい、画面がホームへと移る。緑色のメッセージアプリのアイコンが目に留まった。

 私はどうしたいのだろう?彼女の隣にいられればそれで満足なのか。それとももっと、違う関係になりたいのか。自分のことなのに、自分でも答えが見つけられない。

 ただ、関係が空中分解してしまうのだけは嫌だった。

 私は震える指で、メッセージアプリを開き、彼女とのトーク履歴を開く。簡素で、質素で、大して面白みもないのに、見ているだけで落ち着く。やっぱり私にとって彼女は必要な存在なのだと、心臓が判断している。

 私は指をツイツイと動かし、文章を打ち込んだ。伝える言葉は決まっていた。打ち終わってから、送信ボタンを押すのにやや躊躇する。推敲の余地などないほどの簡潔な文章を何度も何度も読み返し、一度深呼吸をしてから、指を画面に押し付けた。

 一息つくと、予鈴が鳴った。今度こそスマホをしまってから、私は教室へと足を向ける。

 彼女はどう思うだろうか。何も思わないのだろうか、それとも、騙されてくれるのだろうか。分からない。分からないことだらけだ。不安で、戸惑って、緊張して、後悔して、反省して、迷走して、それでも私は生きている。

 今は、身体は震えない。

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