第三話

 私の問いに先輩は顔を固くして、肩を一瞬震わせた。しかしすぐに表情筋を緩ませてアハハと笑う。

 「吸血鬼って、何それ?お姫様の次はついに人外かあ」

 「……私の祖母は、かつて吸血鬼と青春を謳歌したそうです」

 先輩の笑い声をあえて無視して、私は言葉を続けた。怖かったけど、言わなきゃいけないような気がした。

 「『現代にも吸血鬼はいる。私たちの周りで、華麗に美麗に綺麗に咲き誇っている』。それが祖母の口癖でした」

 話ながら、懐かしい祖母の声が頭の中で再生される。普段は厳かで、とても怖い人だったのに、吸血鬼の彼女の話をする時だけは、まるで若々しい女子高生のような輝きを放っていた。

 いいかい。今を生きる吸血鬼はね、ゴスロリなんて着ていないよ。当然金髪でもない。目だって別にクリムゾンレッドじゃないんだ。

 でもね……

 「『吸血鬼は、この世で最も美しい』」

 祖母の言葉をなぞるようにして紡いだ私の声に、先輩の肩が一際強く震えたように見えた。その様子を見て、私の確信はさらに強まる。

 「私は祖母から色々な話を聞きました。吸血鬼は、血を定期的に摂取しないと身体がひどく震えるそうですね。もしかして、今先輩は血が足りてないんじゃないですか?」

 「…別に、そんなことは……」

 煮え切らない、認めようとしない先輩の態度は、気が急いている私をややイライラさせた。祖母から聞いた話によると、身体の震えは貧血症状の第一段階で、この段階では特に問題はないが、放っておくと最悪命の危険もあるそうだ。

 間接的にでも私のせいで誰かが死ぬとか、そんなの嫌すぎる。

 私は自分の筆箱からカッターを取り出し、左手の人差し指に当ててから勢いよく刃を滑らせた。わずかに感じた痛みさえも今は無視して、ポタポタと血が垂れている傷口を先輩の顔の前に近づける。

 「ほらっ、必要なら私があげます。だから、無理も我慢もしないで下さい!」

 誰かの命の責任なんて、私には取れない。

 先輩は私の指からこぼれる紅い水滴をじっと見つめていたが、ついに我慢の限界が訪れたのか、ゆっくりと顔を近づけてきた。

 鼻息がまず当たり、その生温かさに身体が一瞬ゾワッとする。でももっと衝撃的だったのは先輩の次の行動だった。


 ハムッ


 先輩が、私の指を咥えた。

 その瞬間ヌルッとした唾液で満たされた口腔に包まれたことで、先程までとは比べ物にならないほどの生々しい温かさと指が邂逅を果たす。そのまま血が流れている患部を先輩の柔らかな舌で舐められる。日常でまず味わうことのない刺激に、私の身体は自然と拒否反応を起こした。

 「ちょっ、先輩?!」

 慌てて静止の声を上げるも、先輩は聞こえていないのか、舌を動かすのを止めようとしない。むしろさっきまでよりも舌全体を使うようにしながら、私の指をこれでもかというほどに味わっている。その舌の使い方は舐めるというよりも、もはやしゃぶるという表現の方が適切なほどだ。

 私が想像していたのは、もっとライトな、それこそネコがミルクを飲むときのような光景だ。こんな指フェラ同然の行為では断じてない。

 「先輩一旦タイム!タイム下さい!!」

 フリーだった右手で先輩の肩を掴み、そのままグッと引き剥がす。力任せではあったが、何とか先輩と距離を置くことが出来た。指を舐っていた先輩の口が離れる時、唾液が指の先端からいやらしく糸を引く。距離を取ったことでちゃんと見えた先輩の顔は、両頬が朱色に染まっていた。息遣いも荒く、吐息の響きが官能的だ。よく分からないが、興奮状態であることだけは分かった。

 「…今日はっ、緊張していて、それでっ、いつも持ってきてるカプセル、忘れちゃったから…だから……」

 息も絶え絶えになりながら、先輩が何かを一生懸命に話す。部分的にしか聞きとれないが、察するにいつもは大丈夫だということが伝えたいのだろう。

 先輩だって、緊張ぐらいするのだ。お姫様だって不安を抱えている。

 「お願い。もう少しだけ……いい?」

 潤んだ瞳で上目遣い。しかもギャップ萌え込み。この可愛さに耐えられる人間がいるのなら、是非とも名乗り出てほしい。私には無理だった。

 「…いいですけど、もうちょっと控えめにというか、優しくお願いします…」

 先輩はコクンと首を縦に振ると、もう一度私の指に口を近づけ、舌でペロッと一舐めした。未だに慣れない感覚に鳥肌が立ったが、言ってしまった以上は引き下がれない。目をギュッと瞑って、先輩が食事を終えるまでじっと待つことにした。

 数回舐めた後、先輩は私の右手を両手でしっかりとホールドし、ブレないようにしてから再び口の中に含んだ。目を瞑ったのは失敗だったようで、視覚が排除された結果、意識のリソースが触覚へと割かれてしまう。先輩の口内の温度、湿度、ぬめり具合等々、求めていない情報が次々に脳にアクセスしてくる。舌の上に溜まった唾液に指が乗せられる感触が、先輩の舌がチロチロと指の切り傷を舐める感覚が、自分の指の表面を先輩の唾液に犯されていく実感が、私の思考回路に無遠慮にノックを繰り返す。

 耐えかねて目を開け、先輩を見ると一心不乱に私の指をペロペロしていた。邪魔しないように気を付けながら、空いている右手で先輩の黒髪に触れてみる。上質に仕立て上げられた絹の服のような、ハリとゆったりさを兼ね備えた触り心地が私の指を包み込んだ。髪の表面を撫でるようにしながら手を動かすと、細やかな黒糸は指の間をスルリスルリと抜け落ちていく。くすぐったい。皮膚と擦れる感覚がこしょばゆくて、私は自然と笑みをこぼした。

 そこには多分、ちょっとした優越感も含まれていた。

 だってみんなは先輩のこんな姿を知らない。先輩の髪に触れることなんて出来ない。

 掴むことさえ叶わないその髪に、それでも私は触れている。

 だから優越感。自分でもどうかと思うが、感情の発露はコントロールできないので仕方がない。

 自分の中でそう結論付けながら、私は先輩の髪を撫で続けていた。

 まるでそれが、宝物であるかのように。


 「あのっ…今日はありがとう。本当に……」

 数分後、指を舐めるのを止めた先輩が傷口に絆創膏を貼りながら言ってきた。どうやら吸血鬼の唾液には傷の治りを遅くする成分が含まれているらしく、人差し指からは依然として煌々と輝く血液が止めどなく滲んできていた。幸い傷口が浅く小さかったから大事には至らなかったが、気を付けなければ貧血で倒れるのは私となるところだったらしい。

 「助かったよ。ありがとう」

 先輩は顔を赤くしながら、それでも目を私から逸らさずに感謝を伝えてきた。美しい瞳に見つめられて、同性だけどドギマギしてしまう。触れ合っている手の平が熱いのは、きっと季節のせいだろう。

 「いつもはね、サプリみたいなのを飲んでるんだ。吸血鬼専門のお医者さんから処方されたもの。だから大丈夫なんだけど、今日に限ってそれを忘れちゃってね」

恥ずかしながらね、と先輩は付け足してからそこでアハハと笑った。私はそれには「そうですか」とだけ答えて目線を下げた。無味乾燥な感想だが、他に何か返せる言葉があるわけでもない。

 気まずい沈黙が、風と共に私たちの間に訪れる。先輩の笑い声も途絶え、私も何も話さない。視線が錯綜することもなく、私たちはただそこに手を重ねたまま立ち尽くしていた。

 正直、言いたいことがないわけじゃない。でも、それを口に出すのは、提案するのは躊躇われた。自分勝手で、自己中心的で、自分本位なお願いだから、私の喉は震えない。

 「……あのさ」

 先輩が静寂を破る。顔を上げて見ると、その頬がやや赤く染まっていた。まだ興奮状態なのだろうか、お代わりをご所望なのだろうかと一瞬身構えるも、先輩の口から出たのは予想外の言葉だった。


 「来週もまた、お願いできないかな?その…吸血の相手」


 言った後、先輩が私の手を強く握る。熱い。ドクドクという血液の流れを感じる。震えているのは緊張か、貧血か。問う必要のない問いを立てて、私は現実から目を逸らそうとする。

 だってこれじゃあ、あまりにも私に都合がいい。

 私は先輩の側にいたい。側にいれば、「特別」になれる気がするから。私の知らないセカイで生きる先輩と関わっていれば、私もいつか変われる気がするから。でも、そんな私の我が儘を、先輩が望んでくれている?いくら何でもご都合主義すぎる。

 「……どうしてですか?別に先輩ほどの人望のある人なら、私じゃなくても…」

 「駄目っ!!」

 私が言い終わる前に、先輩は否定の言葉が刺さる。驚いて先輩の目を見つめると、その瞳はわずかに潤んでいた。

 「…どうしてですか?確かにアブノーマルですけど、それを望む人だっているかもしれませんよ。先輩のためになら、って」

 「……怖いんだよ。受け入れられないことが怖い。積み上げてきたモノを失うことが怖い。私が私でいられなくなることが、怖い」

 ポツリポツリと呟く声に力はなく、まるで幼子のようだ。さっきの発情じみた興奮具合とはまた違った意味で、知らなかった先輩の顔を知る。

 それにしても、「怖い」か。


 「…私は先輩のために何かをしてあげることは出来ません」先輩の顔が曇る。


 未知への恐怖。未踏への不安。未開への心配。


 「そんな義理はないし、そんな道理もないです」先輩の唇が引き結ばれる。


 私はその全てを、確かに理解できる。理解するだけで、改善することも立ち向かうことも出来ないけど。


 「先輩がどう言っても、私は先輩のことを受け入れてくれる人はいると思います」先輩の瞳が濡れる。


 それでも先輩の存在が私にとってぬるま湯となるように、私の存在が先輩にとって居心地のいい居場所になるのなら……。


 「私である必要はありません。私である理由もありません。当然、私である意味もありません」先輩の目線が下に下がる。


 利害は一致している気がする。


 「……それでも私がいいのなら、私は私のためにあなたの側にいます」

 私の小さな宣言に、先輩は下げていた目線を一気に上げ、再び私の目を見つめた。今度は私も逸らさずに、見つめ返す。

 「いい…の?本当に?」

 先輩の口が、頼りなく動く。そんな先輩の顔をしっかりと見据えて、私は言葉を返す。

 「はい、私でよければ。さっきも言いましたけど、これは私のためなので」

 私は「特別」になんてなれない。他人と関わる力を失って、私は平凡なまま生きていく。だけどそれでも先輩の隣にいれば、夢と希望ぐらいは見れそうだ。

 「先輩こそ、本当に私で良いんですよね?」

 「…うん、もちろんだよ!私からもお願いするね」

 私の質問に、先輩は笑って返す。今まで見たことないほどに素敵な笑顔が、今まで知りえなかった先輩の表情が、そこには確かにあった。そういう先輩を、もっとたくさん見たいと今は思った。打算だらけの私の企みが、私に都合よく動き始める音が聞こえる。


 こうして、私と先輩の週に一度の密会が生まれた。

 秋の訪れを感じさせる涼やかな風が吹く、とある九月の水曜日だった。

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