第5話『伝説の始まり』

 真っ白に輝くバルツ山地は、その美しさとは裏腹に、冬は死の象徴となる。この山々を越えて降り落ちる雪や強風は、ファルム国北部の平野を凍えさせ、生き物を死滅させる。彼らが冬の雲を防ぐのを怠り、早めに冬が到来すると、穴に籠り損ねた動物の身体を弱らせ、植物は種を地中に隠す前に、枯れてしまう。


 人間にとっても、北面を覆うバルツの山々は死神に等しい。その上、彼らは別の恐怖ももたらす。


 馬にまたがる遊牧民たちである。


「これはひどい」


 命の騒々しさが潰えた村に、ハリスたちはやって来た。北風の音しか聞こえない村に、臭いが立ち込める。馬にまたがるハリスは鼻をつまむ。


「これは、何の臭い?」


「人の焼ける臭いでしょう」


 黒くなり、崩壊した家々から、細い煙が昇っている。ペトロは平然と答える。


「皆殺しにされましたな」


「うっ」


 ハリスは思わず吐き気をもよおした。白い顔を余計に青白くさせる。その彼の傍に、マリアンが近づいてきた。


「ハリス様、大丈夫ですか?」


「う、うん……大丈夫だよ……」


「このような戦場を見るのは初めてなのですか」


「ああ……」


 ペトロはふうと息を吐く。地面に人の黒焦げの腕が転がっていても、彼は顔色一つ変えない。顔を横断する黒い刺青いれずみの中から、目をぎょろりと動かすだけだ。


「よくある光景です」


「そうなのか……」


 正直、ハリスは逃げ出したくなった。勇んでウィンからやって来たが、彼の認識は甘かった。このような凶悪なことをする者を相手に戦わないといけないのかと思うと、寒さ関係なく、心胆が冷える。


 しかしながら、ウィンから着いてきた義勇兵たちの目が、ハリスに注がれていた。彼らはハリスの雄姿を見に来たのだ。彼らに情けない姿は見せられない。


(逃げたい。逃げたい。逃げたい)


「敵の居場所が分かったそうです」


 無情にも、マリアンが放った斥候せっこうが情報を掴んだ。この先の平原で、野営の準備をしているらしい。


「奴らは次の村を襲うために、今日は休むつもりですね。そこを襲いましょう」


「で、でも、こんな少数で、大丈夫かなあ」


 ハリスの周りには数百人しかいない。そのほどんどが、ハリスを慕う義勇兵だ。地元の貴族たちは、ハリスの招集命令を無視して、援軍を送らなかった。自分たちの領土を守るために戦うハリスたちを見殺しにしようとしている。


 マリアンは「何を今更」と心の中で呟きつつ、彼を励ます。


「ハリス様の武勇があれば、敵はイチコロですわ」


「その通りです。私もお供します」


 ペトロが太い腕で槍を持ち上げる。額に巻いた黒いハチマキが、彼をより勇ましく見せる。


 ハリスは青い瞳を泳がせて、マリアンに小さな声で尋ねる。


「勝てるかな……敵は俺たちを見つけていないんでしょ?」


「いえ、もう発見されているかと」


「えっ!」


「でも、ご安心ください。きっと油断しています」


 マリアンは風に乱れる束ねた茶髪を直しながら、自信たっぷりに言う。


「私たちの少なさに、『襲ってくることはない。どうせ見回りに来ただけだろう』と思っているはずです。そこにチャンスがあります」


 マリアンは斥候せっこうが取ってきた情報をもとに、作戦を立てた。彼女には分析力がある。


「敵の族長は、敵の陣の北西にいます。それを倒せば、私たちの勝利です!」


 ――*――


 野営の準備が終わり、戦利品の数を数えていた遊牧民たちに、妙な知らせが入る。


「南に軍隊?」


「はい。我らとわずかに離れた距離に、陣を構えようとしています。簡易な柵も設けています」


 遊牧民の族長は髭を撫でた。すぐに主だった連中を集める。


「どこの軍勢だ。この近くにいると情報はあったか」


「少し前に、我らが襲った村にいると、報告しましたが」


「あの軍隊か?」


 族長は首を傾げる。ファルム軍の旗を掲げていたが、その時は無視してもいいと判断したはずだ。


「確か、少数だと聞いたが」


「援軍が来たのかもしれません。もしくは援軍を待つために、陣を構えていることも考えられます」


「いずれにしろ、敵はまだ少数。今なら叩き潰せます。お下知を」


 族長は即座に頷いた。彼にはファルム王家の権威の衰えが、情報として入ってきている。人数が増えたとしても、勢いのない軍は弱い。


「ファルム軍に鞭を入れてやれ。すぐに逃げることだろう。陣を築いているなら、物資を運んでいるはずだ。それを奪ってやろう」


「はっ! 奴らを全滅させます」


 百を優に越す軍勢が、彼らの陣を離れた。南へと向かう。


「ハリス様。マリアンの作戦通り、奴らは釣られました。族長の旗印は動いていません」


「う、うん」


「今なら手薄です。族長まで突き進みましょう」


「待って!」


 草むらから出ようとするペトロを、ハリスが押し止める。


「やっぱり無茶だよ! 俺たち以外には、三人しかいないじゃないか。たった五人で戦うつもりか?」


「ハリス様」


 ペトロの強い眼差しが刺さる。彼の怖い表情が、ハリスの青い瞳に映った。


「ハリス様は、世界を救いたいのでしょう」


 ハリスは頷く。その気持ちは本当だ。しかし、この震える腕は隠しようがない。


 そんなハリスに、ペテロはさとす。


「この世界は腐っている。何をしようにも障害は多く、誰もが苦しむ。それを変えようとすれば、命の危険は一度や二度では済まない」


「…………」


 ペトロは大きな顔に笑みを作った。強い意志が、彼の瞳に宿る。


「だが、俺はあなたに賭けたのだ」


 大きなペトロの手がハリスの震える腕に添えられる。冬に相応しくない彼の熱が伝わらる。不思議と、ハリスの震えが収まってくる。


 祈る様に、ペトロは力強く言った。


「英雄よ。世界を震撼させてくれ。我らを導け」


 ――*――


 それからすぐに、遊牧民たちの陣に、奇妙な客が訪れた。門番が尋ねる。


「何者だ?」


「死ぬ者に答えることはない」


「は?」


 次の瞬間、ペトロの巨大な斧が門番の頭を砕いた。彼は兜を叩き割られ、赤い液体をまき散らして息絶えた。


 異変に気付いて、すぐに兵士たちが集まる。


「ハリス様! ここは我らが防ぎます。ハリス様は族長を!」


「わ、わかった!」


 ハリスは手綱を鳴らし、馬を走らせる。兜を深くかぶる。


『兜で無駄な視界を遮断することです。真正面しか見ない様にすれば、恐怖は減少します』


 とペトロから教わった通り、彼は正面しか見ないようにした。妨げようとする敵の攻撃を反射的に避けて、ひたすら前へ進む。


 彼の視界が、陣の奥にいる、敵の族長を見つけた。


「誰だ!」


「俺の名はハリス! この世界を救う者だ!」


 叫ぶようにして名乗りを上げ、ハリスは剣を抜いた。そして馬にまたがる族長目掛けて、馬ごと体当たりする。


「なっ!」


 騎士の戦い方ではない。不意を突かれた族長は地面に転がり、それでも剣を抜いて立ち上がる。彼の目の前に、馬から飛び降りたハリスが立つ。


 その姿を見て、族長の目が大きく開く。


「青い目……」


「ここだ!」


 ハリスの剣が振り下ろされる。族長は剣で防ごうとしたが、強烈な斬撃に、剣刃が削れる。肩が外れるほどの衝撃に、彼は右腕が上がらなくなった。


 族長は思わず、左手を伸ばし、闘志を失った表情をする。


「ま、まて」


「うるさい!」


 ハリスは剣を下から斬り上げる。族長の左腕が切り飛んだ。血しぶきに視界が閉ざされた先に、ハリスの剣が光る。


「このやろう!」


 ハリスの剣が横一線にぐ。その剣先は族長の首元に入り、彼の首が宙を飛んだ。もう撫でられることのない髭の下から、血がまき散らされる。


 その血を顔に浴びて、ハリスは興奮した声を出す。剣を高々と上げる。


「俺がハリスだ! 俺がヒーローだ!」


 その後、族長を失った遊牧民の集団は、戦闘意志を失って帰国した。その報はすぐにファルム王のもとに届けられる。


「本当か!」


「はい! ハリス=イコンがやりました!」


 その勝利した様子を、報告しに来た騎士が答える。ファルム王は喜ぶと同時に、驚嘆の声を漏らす。


「まさに神業……」


 王は玉座から立ち上がった。そして天を見上げて、大きな声で呼びかける。


「聖女様よ! 彼を授けて下さったことを、感謝いたします! 彼がいれば、我が王家は再び世界の覇権を掴むはずだ」


 老人のしわがれた声が、ウィン城に響く。彼の感動は瞬く間に評判と変わり、貴族や民衆を問わず、ファルム国でハリスの噂をしない者はいなくなった。ファルム王はこの日から、ハリスを全面的に信頼することになる。


 この日が、ファルム王家の滅亡の始まりとなった。

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