第31話『白の試練』

 カツカツと音が鳴った。ダヴィはインク壺の底をペンが叩いたことを知った。もう墨がない。


 天幕の入り口からは赤い光が入り込む。今日の太陽が最後の挨拶をしていた。


「もうこんな時間か」


 ダヴィは後ろで控えていた侍従に資料を渡して、仕事を終えるように指示した。そしてグッと腕を伸ばす。こわばった身体からコキコキと音が鳴った。


「ダヴィ様、お食事は?」


「あとでもらうよ。ちょっと休ませてくれ」


 分かりました、と侍従は肩を撫で下ろして出て行った。王の前ではどんな人も緊張する。


 ダヴィは彼の気持ちを読んで、口をへの字に曲げた。


「俺も最初、シャルル様には緊張したかな」


 と昔のことを思い出し、苦笑する。今の自分はあの時のシャルル以上の地位にいる。自分から近づかなければ、彼らとの距離は離れるばかりだろう。このワシャワの周りを囲う壁よりも高いものがそびえるに違いない。


 今日は疲れたから一人で食事をしようとしていたが、気が変わった。ダヴィは椅子から重い腰を上げて、ぼやけた日光とかがり火が入り混じった橙色だいだいいろの光が入る天幕の入り口へと足を向けた。


 群青色に染まりつつある空に、薄く月の影が浮かんでいる。


 その時、背中に妙な風が吹いた。


(これは……)


 ダヴィは出ようとしていた足を止め、ゆっくりと振り返る。


 誰もいない。気のせいだと思い、もう一度体を反転させようとしたその時、ベッドから声が聞こえた。


「監視し、監視される……良き言葉なり……」


 ダヴィは顔をこわばらせる。そしてゆっくりとベッドに近づいた。薄暗い部屋の片隅に置かれたベッドには、白くて長い髪をシーツの上に広げた女性が横たわる。ダヴィはため息をついて、睨みつける。


「監視するだけの存在が、何を言うか」


 聖女と知りながらおそれない彼の態度に、聖女は喉を鳴らし、鳥がくような声を出した。相変わらず奇妙な笑い声だ。


 聖女はダヴィのベッドに堂々と横になり、肘枕をついて彼を見つめる。白い衣が体のラインに沿って張り付きながら聖女が横たわる姿は、正円教を信仰する人々からすると輝いて見えるだろう。しかしダヴィにとって、闇の中で光る聖女の白い眼は、不気味さを感じさせる。


「それは違う。“監視”こそ吾の源」


「なに?」


「人が“監視される”ことを望んだことで、吾が生まれた。そして人は常に、吾を見ている」


「俺は見ていない」


「今、見ている」


 ダヴィは顔をしかめた。そして露骨に体の向きを変え、聖女を見ないようにする。聖女はまた奇妙な声で笑った。ダヴィは大きくため息をついて尋ねる。


「なぜ現れた。また笑いに来たのか」


「吾は楽しむのみ……」


「同じことだ。要件だけ言え」


 あえて冷たい声を発するダヴィをまた笑う。彼女の口角が上がった白い唇が闇の中に浮かんだ。


 その彼女の口が動いた。


「新たな男が現れた」


 ダヴィは再び振り向いた。その言葉を咀嚼そしゃくするが、意味が分からない。首を傾げていると、聖女はゆっくりと次の言葉を伝える。


「世界を変える者だ」


 ダヴィの表情が曇る。余計に訳が分からない。


 その次の言葉を待ったが、聖女は沈黙したままだった。これ以上の説明は無いらしい。


(やれやれ。忠告なのか、脅しなのか、分からないな。聖女の御心知らず、か……)


 意味不明な予言におびえるほど、ダヴィは優しい世界を渡ってきたわけではない。彼は強い口調で、寝そべる聖女に言い放つ。


「どんな敵が現れようとも、どんな危険が訪れようとも、俺たちの進む道は変わらない。俺たちの信念は常に真っすぐだ」


「ほう……」


 聖女の白い唇の端がこれ以上なく上がる。求めていた答えなのだろう。聖女の演出にまんまと乗ってしまった感じがして、ダヴィは苦虫を噛み潰したような表情をした。


 太陽は完全に落ち、月の青白い光が入り込んでくる。ダヴィの影がスッと伸びるが、聖女の影はベッドにも地面にも映らない。聖女の白い姿だけが、暗闇の中で不思議と浮かび上がる。


 聖女はダヴィに言う。


「そなたの道を行くといい。その先に何があるのか知らずに、もがけ」


「勝手なことを」


「吾は見ている」


 突然、聖女がはじけた。音も無く、白い身体が散り散りになって宙を舞った。ダヴィは片手を顔の前に出して、反射的に防御する。そしてその手に聖女の欠片が乗った。


 よく見ると、それは白い羽毛だった。


「人ならざる者め」


 ダヴィはその羽毛を捨てて、外にいた兵士たちを呼んだ。ダヴィの天幕の前にいた兵士は、奇妙なことに、聖女との会話を全く聞いていない様子だった。


 何事があったかも知らずに、その兵士たちはダヴィの天幕の中を見て驚く。


「こりゃあ、鳥でも暴れたのでしょうか? 申し訳ございません! 我々が気づかず……」


「いや、良いんだ。気づいてはいけないものさ」


「はあ……お食事の間に掃除しておきましょうか」


 ダヴィは一瞬止まったが、すぐに頷いた。


「頼むよ。“なんの変哲もない、ただの羽”さ。どこにでもあるものだから」


 ダヴィは気を取り直して、兵士たちが食事をしている野外の食卓へと向かった。そこでは大勢の兵士たちがいたが、ほとんどはもう食事を終えていた。


「陛下だ!」


 気づいた兵士たちの声で、椅子に座っていた兵士たちが一斉に立ち上がり直立不動で挨拶をする。ダヴィは適当に空いている席に座った。


「みんな、座ってくれ。随分と遅くなってしまった。まだ食事はあるかな?」


「ありますよ! 今日のスープはちょっと塩が足りませんがね」


「こらっ」


 と兵士の一人が調子に乗った他の兵士を叱る。ダヴィは微笑む。


「どれどれ、俺も食べてみようじゃないか。もしそうなら、食事係に一言伝えよう」


「それなら、良い調味料がありますよ」


 と声がかけられた。振り返ると、ジョムニと、彼の車いすを押すアキレスがいた。ダヴィはかがり火に映し出されたジョムニの表情を見て、ニヤリと笑った。


「随分と嬉しそうだね。いい報告かな」


「はい。それも、とびっきりの」


 ダヴィは椅子から立ちあがり、ジョムニの傍に来た。ジョムニは彼に耳打ちする。


「ワシャワの民の代表者たちから書状が届きました。『ウッド国は滅びの道を歩んでいる。我らは新しい王に仕える準備が出来た』と」


「確かか?」


「ワシャワ内部にいるスパイに裏付けを取っています。間違いないでしょう」


「よし」


 ダヴィは拳を握った。これこそ、ワシャワを包囲した時から待っていたことだ。ワシャワの民衆が取り囲んだ壁に心理的に圧迫されて、自発的にダヴィを迎え入れる。これからの統治のことを考えて、占領の方法として最善を尽くしたかった。


 これを待っていたから、貴族たちの裏切りの情報は一切無視してきたのだ。その甲斐があった。


「ようやく終わります」


 とアキレスが微笑みながらもらした言葉に、ダヴィは頷いた。そして周囲にいる兵士たちに高らかに宣言する。


「諸君! 我々が勝つ算段がついた! これでようやく長い戦いが終わる。油断せず、最後までしっかりと頑張ってくれ!」


「「「おおおおおおおお!!」」」

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