第32話『森の王国の終焉』

 ウッド王とその周辺の人々にとって、その日は突然訪れた。


 朝日がダヴィが築いた壁からのっそり顔を出しかけたその時、狂ったように鐘の音が鳴り響く。これから朝一番に鳴こうとしていた鳥たちは怯えて逃げ、犬などが合わせて鳴きわめく。


 ウッド王は不機嫌にベッドから起き上がった。二日酔いの頭に、鐘の音は良く響く。くまを作った眼で側近たちを睨みつけ、怒鳴った。


「早く鐘を止めさせろ! なんだ、この騒ぎは」


「陛下! お逃げ下さい!」


「なに?」


 部下の様子がおかしい。ウッド王は青ざめる側近たちの顔を見つめた。彼の心臓が鐘の音に合わせて早くなっていく。


「まさか……」


 唇を白くさせるウッド王に対して、一人の側近が叫んだ。


「ダヴィ軍が攻めてきました! 早く、お逃げ下さい!」


 ウッド国最後の日が始まった。


 ――*――


 ダヴィ軍の攻撃は性急だった。ウッド軍が比較的油断している未明に行動を開始して、ワシャワの民衆の助けを借りて、一気に城門をこじ開けた。民衆が敵に回ったことに動揺したウッド軍は、散発的な抵抗しか出来ず、兵士の脱走が多発し、自滅していった。


 ダヴィ軍は朝日が昇り切る前に、王宮の城門へとたどり着いた。さすがにこの城門はすぐには開かず、数少ない近衛兵が必死の抵抗を続ける。


 しかし数と戦意の差は圧倒的で、突破は時間の問題だった。


 王宮では文武百官、身分の差なく、大勢の悲鳴と怒号が、慌てふためく足音と同じぐらいの音量で響き渡る。彼らの出口は無い。それでもどこかに逃げたいと思い、王宮内を人を押しのけて駆け回る。恥も外聞もなく、日々大事にしてきた礼儀作法をかなぐり捨てる。


 ここに、外の騒動を知らない男がいる。


「どうなっている? なぜ騒ぐ? 何が起こったんだ!」


 地下の部屋に閉じ込められているアレクサンダー6世が叫ぶ。他の側近たちも叫ぶが、部屋の鍵を持つ兵士たちは逃げ失せてしまった。彼らが扉に向かって「開けろ」「説明しろ」と呼びかけても、扉は沈黙を保ったままだ。


「出せ! ここから出せ!」


 数年前までは世界の隅々まで権力がいきわたっていた男は、今では目の前の扉さえ開けない。滑稽とも思える光景の中で、教皇だった男はその証となるロッドも捨てて、扉にすがりつく。


「出してくれ! 儂を逃がしてくれ!」


 騒ぐのは行き先の知れない者ばかり。サロメは悠然ゆうぜんと身支度しながら、慌てる侍女たちに注意する。


「静かになさい。粛々と荷物をまとめるのです。わらわの衣服はもっと丁寧にしまいなさい」


 彼女は細身の体に白い毛皮のコートをまとわせ、長い黒髪をばさりとコートから出す。しっかりと香水をつけた彼女の匂いがふわりと舞い上がる。


 その時、扉を開く音が聞こえた。


「サロメ……いったい、何をしているんだ……」


 ウッド王がいた。いつも青白い肌からさらに血の気は消え、今にも倒れそうに、ひょろりと立っている。


 彼はゆっくりとサロメに近づいた。視線が定まらない。


「サロメ……私の、サロメ……!」


 サロメは大きくため息をつき、ウッド王に向き直る。彼女の目元には敬意の欠片もなく、薄汚い野良犬を見る目つきをしていた。彼女は淡々と答える。


「なんでしょうか、陛下」


「なんだ、その服は? まさか、どこかに行くつもりなのか……」


 サロメは黒い唇を三日月の形に変える。これがウッド王に与えうる最大の厚意だった。


「そうですわ。敵が攻め込んでいるのですから、逃げないと」


「そ、そうだな……分かった。私も一緒に」


「陛下はお留まり下さいまし」


 ウッド王のか細い声に被せるように、サロメはハッキリと言った。彼は口を半開きにする。声が出ない。


 彼女はそんな情けない表情の男に、優しい声音で教える。


「陛下はこの国の王なのですわよ。それなら責任をとらないと」


「それは……そうだが……じゃ、じゃあ! サロメ、君も残ってくれ! わたしと一緒にいてくれ!」


「それは出来ません。わらわは王ではありませんから」


 と言うと、サロメは扇を広げて、顔を半分隠す。しかし彼を嘲笑する表情は隠しきれていない。ウッド王は体が震えてきた。


 その時、また部屋に入ってきた男がいた。


「サロメ、準備は出来たか? 馬車を待たせているぞ」


「サンデル?!」


 入ってきたのは、この国の宰相・サンデル=ヴァースだ。彼も旅装を身に着けている。


 彼はウッド王の姿を認めると、少し驚くも、すぐに余裕のある笑みを浮かべて恭しくお辞儀をする。


「これはこれは、陛下ではありませんか。まだご無事でしたか」


「サンデル! これは一体、どういうことだ!?」


「ご覧の通りです、陛下。我々は“お暇を頂こう”と思っています」


 と言うと、サンデルはサロメを手招きした。彼女はそれに従い、ウッド王を横を通って、サンデルの隣に立つ。そしてサンデルが腰に回した手を嫌がることなく、二人はピタリと寄り添う。


 その姿に、ウッド王は腰が砕けそうになる。震える指を彼らに向ける。


「それは……どういう……」


「陛下、わらわは罪な女ですわ。陛下だけではなく、色々な殿方に愛されていますのよ」


「お察し下さい」


 とサンデルは下品な笑みを浮かべる。彼はサロメを抱いているつもりだが、傍から見ると、長身のサロメが背の低いサンデルを包んでいるようだ。ウッド王はやっと声を荒げる。


「い、いつからだ!」


「さて、いつからでしょうか。覚えていますか、サンデル様?」


「確か、陛下のご寵愛を受けた直後じゃないか。散々愚痴を言っていただろう」


「ああ、そうでしたわね」


 クスクスと笑うサロメの表情を見て、ウッド王の目から涙がこぼれた。彼自身にも分からぬ感情の渦があふれ出る。


 そんな彼にサロメは最後の挨拶をする。


「陛下。そんなわけで、わらわたちはこれからファルム国へ行きますわ。サンデル様の親戚の元へ向かいます。馬車と船を待たせていますので、これで失礼しますわよ」


「ま、まってくれ!」


 ウッド王はすがりつく。足は動かず、見苦しく這いつくばり、サロメの細い足首を掴む。そしてサロメの顔を見上げる。


「私も連れて行ってくれ! 一緒にいろ! 頼む、捨てないでくれ!」


「陛下……」


 サロメは含み笑いをもらした。そしてしゃがむと、自分を掴む彼の手を握る。ウッド王の右手がサロメの両手に包まれる。


 冷たい手だった。ウッド王は驚きさえ感じた。


「夢から覚めてしまったのですね」


 彼女の喉奥から冷たい声が出る。ウッド王は息を飲んだ。


「ゆ、夢……?」


「わらわがせっかく良い夢を見せてあげましたのに、最後の最後で目を覚ましてしまって。なんとお可哀そうに」


 それだけ言うと、サロメは立ち上がった。そしてサンデルと侍女を伴って、部屋の出口へ向かう。


 ウッド王は彼女の背中に言った。


「もう、夢を見させてくれないのか」


 サロメはゆっくりと振り返る。そしてスカートの端を掴んで、ゆっくりとお辞儀をした。まるで演者がショーの終わりにするように、別れの挨拶をする。


「起きる時間ですわよ。短いですが、残酷な現実を、どうぞお楽しみなさいまし」


 ――*――


 蜘蛛の巣が幾重にも張られた地下道を、松明を持った集団が、腰をかがめて進む。この道に光が入るのは、百年以上前のことだ。ガタガタに並べられた石材の上を、名前も分からない虫たちが走る。


 急に子供の泣き声が響いた。先頭を歩く男が振り向き、声を低くして叱る。


「静かに! 敵に気づかれます」


「王子の足にネズミが噛みついたのです! ああ、どうしたら……」


「この穴を出たら治療します。今は急いで!」


 集団は再び歩き出す。先頭と後ろには兵士が歩いているが、集団の半数は女性と子供だ。彼らはウッド王家の一族とその周囲の世話係たちだ。


(こんな大集団で逃げられるのか……)


 兵士たちの統率者は疑問を持つが、こうなった今はもう遅い。この道を進まないといけない。


「出口だ」


 誰かの声が響いた。目の前から薄い明かりが見える。女性の一人が歓声を上げようとして、すぐに口を押さえた。


 先頭の兵士が、地下道を塞いでいた大きな石をゆっくりとどかす。明かりはどんどん強くなり、その奥に眩いばかりの新緑が見えた。ここはワシャワの東、ヴィレン大森林の中だ。


「助かった……」


 誰かの呟きと共に穴から出ようとしたその時、先頭を行く兵士たちに矢が突き刺さった。血を流す兵士たちのうめき以上に、女性や子供の悲鳴が響いた。


 彼らの目の前、森から出てきたのは、ライルとスコットとその部下たちだ。


「てめえら、一人も逃がすなよ!」


「降伏しろお」


「なぜ、ここが分かった?!」


 とウッド軍の誰かが叫ぶ。これは、今頃悠々と馬車に乗って西へと走るサロメの密告によるものだと、誰も気づいていない。


 ウッド軍の兵士たちが前に出てくる。数は圧倒的に不利だ。もうここから出るのは不可能と判断する。


「地下道へ逃げてください!」


「で、でも……」


「早く!」


 剣戟の金属音が鳴り響く中、女性と子供たちは地下道へと戻っていく。身をかがめて、必死に走る。泣き喚く子供を無視して、敵から逃げていく。


 やがて戦う音がかすかにしか聞こえなくなるほど、奥までやって来た。


 ところが、ワシャワの方から煙の匂いが漂ってきた。


「お城が燃えているの?」


 と子供の無邪気な質問が、大人たちの心をえぐった。誰もが膝をつき、これ以上歩く勇気を失う。それを見て子供たちが一層泣いた。


 どうすればよいのか。全員の視線が、この中で最も高位の女性に向く。目立たぬように黒いドレスを着たその女性、ウッド王の正妻は、蚊の鳴くような声を出した。


「もはや、これまでです……」


 それを聞いて大人たちは声を詰まらせて泣き始めた。子供たちは訳も分からず、その様子を泣き腫れた目で見ている。


 一人の女性が静かにナイフを抜いた。


「さあ、お嬢様。私と一緒に聖女様のところへ行きましょう」


「そこは良いところなの?」


「ええ、そうですわ。争いの無い、きっと良いところです……」


 女性はドレスを着た女の子を強く抱きしめ、そしてその胸をナイフで突いた。女の子の断末魔がおびただしい血と一緒に湧き出し、やがて静かになった。


 周りの大人たちも一斉にナイフを抜く。


「い、いやだ! 死にたくない!」


 と拒む子供の腕を無理やり抱き寄せて、苦しまないように胸や首を正確に突き刺す。地面に置いた松明の赤い光の中で、その儀式のような惨劇は繰り返された。


 そして子供たちが息をしなくなり、大人たちは静かに祈った。


「ああ、聖女様……あなたの元に参ります」


 そう言って、今度は女性たちが自分の首にナイフを突き刺す。彼女たちの血が、子供たちの血と混ざる。細い地下道は血の海となり、松明の光が消えかける。


 その中で、ウッド王の正妻は懐から小さな瓶を取り出した。震える手で、ふたを取る。そして瓶に口をつけて、傾ける瞬間に呟く。


「この世は、むごい」


 ――*――


 王宮の城門が打ち破られた。ダヴィ軍が流水のようになだれ込み、王宮を侵食する。その勢いを止められる者はなく、ウッド軍は跡形もなく崩壊した。そして兵士たちや王宮に仕える者、そして貴族たちは這いつくばるように降伏する。


 アキレスは兵士たちを率いて、混迷する王宮を突き進む。


「ウッド王はどこだ!」


 怯える侍従を脅して、居場所を吐かせる。彼らの行く手を妨げる者はどこにもいない。


 やがて、アキレスはウッド王の自室にたどり着く。


「ここだな」


 ドンと扉を開ける。そして自前のパルチザンの矛先を前に向けながら、その部屋に飛び込んだ。


「ウッド王! 大人しく……しろ……」


 と言葉尻が弱くなる。アキレスはウッド王の姿を見た。


 ウッド王は宙でぶら下がっていた。天井から垂れたひもに首をくくり、音を立てずに浮いている。足元でこけた椅子が、彼の仕業と伝える。


 その顔からはよだれと、涙が流れていた。無精ひげが生えた頬に、涙の跡が見える。以前見た時よりも青白い色をしている。


「そうか……」


 アキレスは腑に落ちた表情をした。彼をこうした原因を作った一人は自分なのだ。


 ウッド王はどんなことを考えて死んだのだろうか。敵に敗れた悔しさか、愛人に裏切られた寂しさか、それとも全てを失った絶望か。それを物語るのは、彼の涙の跡だけだった。


 しばらくして、アキレスは兵士たちと共にウッド王の身体をひもから外した。そしてゆっくりと部屋の中にあったベッドに横たえる。彼の身体は軽く感じた。


 アキレスは静かに祈った。血に濡れたパルチザンを傍らに置き、敵兵の肉を斬り裂いた感触を覚えている両手を合わせる。


 彼が出来ることはそれだけだった。

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