第8話『暑い夜と冷たい汗』

「なんだ?」


 眠りかけていたウッド国の兵士が目をこすりながら驚く。ダヴィ軍が一斉に炬火きょかかかげて、北へと帰っていく。まだ日が出るまでしばらく時間がある。突然の出来事に、ウッド軍は唖然と見送るしかなかった。


 重臣のサンデルが重い腹を揺らしながら、王の天幕へと入っていく。


「陛下! 大変です」


「……どうした。まだ夜中じゃないか」


 眠っていたところをたたき起こされて、ウッド王の機嫌は悪い。寝ぐせのついた頭を撫でながら、眉間にしわを寄せる。髭あとはいつも以上に濃かった。


 湿気の多い夜だ。汗がふき出しているサンデルは、侍従に王の部屋のロウソクを付けさせると同時に、報告した。


「申し上げます。ダヴィが逃げました!」


「な、なに?」


 驚きのあまり変な声が出る。ウッド王はベッドからやっと起き上がると、白い寝間着姿のまま椅子に腰かけた。サンデルは唾を飛ばしながら言う。


「ダヴィは無礼にも、陛下に一言の断わり無く、帰ったのです! この様子では明日の交渉の場にも出ないでしょう。これは明らかに挑発行為です! すぐさま追撃して、らしめてやりましょう!」


「それはあまりにも……」


 急だ、とウッド王は言おうとした。それはダヴィに対してではなく、自分に対して急な展開だと言いたかった。彼の頭脳はこの急変についていっていない。


 ウッド王は取り繕った笑みを見せる。


「ダヴィにも事情があったのかもしれないぞ。もしかしたら持病の腹痛が出たのかもしれないな。どうかな。ここは一度国に帰ってから、改めて使者を派遣したら」


「それはあまりにも甘いですぞ!」


「まあまあ、落ち着いて。ここは焦らず……」


「陛下!」


 甲高い声が響いたかと思うと、赤い影が天幕に飛び込んできた。そしてウッド王の胸の中へと納まる。ウッド王は黒い髪から芳しい香の匂いを感じ、それがサロメだと気が付いた。彼女に抱きしめられた王の表情が緩む。


「サロメ! どうしたんだい。体調が悪くて寝込んでいたと言っていたけど、寂しくなって、私と一緒に寝たいのかな?」


「陛下……わらわはダヴィに襲われました……!」


「…………なに?」


 ウッド王の表情が一気に強ばる。サロメは彼の胸に顔を押し付けながら、震える声で告白する。


「ダヴィはわらわの寝床に押し入り……無理やり唇を吸われ……そして衣服をはぎ取られそうになりました……シンが気づいて止めてくれなければ、どうなっていたか……おお……」


「なんだと……!」


「なんとおぞましい。先ほどの宴席の場で、あやつが熱心にサロメ様を見ていたのは、そういうことだったか……」


「許さん!」


 ウッド王はサロメを強く抱きしめながら、サンデルに命令する。


「すぐにダヴィを捕らえて、ここまでつれてこい! サロメの前で首を斬ってやる!」


「分かりました!」


「陛下、それは良策ではありません」


 天幕の入り口に一人の女性が立つ。長い剣を腰に携え、麻衣を身にまとい、静かに天幕の中へと入っていく。ロウソクの火に、黒いポニーテールの髪が光る。


 その女性、ウッド国の軍事を司るシン=アンジュは進言した。


「ここから北はダヴィの領地になります。敵地に踏み込んで戦うには準備が足りません。このまま追っては敵の思うつぼ。一度引き上げて、遠征の準備をしてから……」


「黙れ!」


 普段は温厚そうなウッド王の口から怒号が飛ぶ。シンの身体がびくりと震えた。ウッド王は怒りを露わにする。


「私が命令しているのだ! お前は素直に従えばいい! そもそも、お前は何をしていた? お前に護衛を頼んだというのに、我が愛する人が襲われてるのを防ぐことが出来なかった。この、役立たずめ! お前にアンジュ家を継がせたのが間違いだったわ!」


「っ……」


 シンは下唇を噛んで下を向く。自分の感情を見せないように、顔をこわばらせる。


 ウッド王が一呼吸おいて、また罵声を上げようとした時、彼の胸の内にいたサロメが言った。


「陛下……わらわは大丈夫です」


「サロメ! 無理をすることはない。すぐにダヴィを殺してあげるから」


「いいえ。シンが言うことももっともですわ。わらわだけのことで、陛下の大事な民草を危険にさらすわけにはまいりません」


「おお……」


 ウッド王は感動した。サロメは恥辱に耐えながら、下々のことを考える。まさしく賢女だと褒め称えたくなり、代わりにギュッと抱きしめた。


 サロメは抱かれながら、ウッド王の背中を優しく撫でる。そして耳元で囁く。


「わらわは血を見るのは好きではありませんわ。どうか一緒に国に帰って、それから軍を派遣してダヴィを懲らしめて下さいまし」


「おお、そうしよう!」


「陛下、どうか接吻を。ダヴィに奪われた唇に、上書きをしてください」


「分かった」


 ウッド王はサロメの唇を熱烈に吸った。隣で重臣たちが見ているのも関係なく、濃密なキスを交わし、舌を絡める音が天幕に響く。サンデルは眉間にしわを寄せ、サロメはそっぽを向いた。


 それからサロメは「体調が悪い」と言って、引き留めようとするウッド王の元から去った。辺りがまだ暗い中、自分のベッドへと戻っていく。その隣にはシンが護衛としてついていた。


 暗がりを2人が歩く。松明を持って先導するシンは、サロメに礼を言う。


「サロメ様、先ほどは助け舟を出して頂き、ありがとうございます」


「……シン。あなた、あの小娘をわざと通したわね」


 先ほどと打って変わって、冷たい声がサロメの口から出る。夏だというのに、鳥肌が立つ。シンは嫌な汗をかき始め、後ろにいたサロメの方へ振り返る。


「そんなことは……隣にいたダヴィの護衛が私の動きを油断なく見てきたから、動けませんでした。あの顔を傷だらけにした男、かなり出来ます」


「言い訳が上手くなったわね。ウッド国でも剣の名手とうたわれるあなたが本気になれば、その男から攻撃されることを覚悟して、あの小娘を斬り捨てることが可能だったはず」


「…………」


 シンは沈黙した。サロメは眼を細くする。彼女にはシンの心の内などお見通しだ。闇に溶けた黒い唇が、シンの核心を突く。


「わらわがウッド国を売ると言ったことに怒ったのでしょう」


「…………」


「忠誠心が旺盛おうせいなこと。そういうところは頑固だった父親にそっくりね」


 死んだ父親の背中を追いかける、純粋なシンのポニーテールが風に揺れた。サロメは俯く彼女に近づくと、その髪の毛を撫でながら、また黒い唇を動かす。


「誰のおかげで、アンジュ家を継げたのでしょうね」


「それは……」


「わらわが口添えしなければ、一年前、若いあなたは欲深い親戚たちからアンジュ家を追い出され、庶民に成り下がってしまったでしょうね。良くて近衛兵の一人かしら」


 シン=アンジュは何も反論できない。その通りだった。


 サロメはゆっくりと諭す。


「男はね、馬鹿なの。気取っているけど、女の顔色を伺うばかり。簡単に踊ってくれるわ。そんな男どもに忠誠を尽くすなんて、愚かしいことでしょ」


「…………」


「わらわに忠誠を尽くしなさい、シン=アンジュ。ダヴィもわらわが操って、女のための国を築いてあげる」


 サロメはそれだけ言うと、シンの頬にキスをした。男にはしない、優しいキスだった。


 護衛は不要、と言われて、シンはサロメの背中を見送った。立ち尽くす足先が冷えていることに気が付いたのは、それからしばらく経ってからだった。


 シンは火が消えかけた松明を投げ捨てて、大きなため息をついた。そして、誰かが聞いているかもしれないにもかかわらず、半分やけになって、大きな独り言を呟く。


「あなたが操ろうとしているのは、この世界全てだろう。私も所詮、あなたの使い勝手のいい人形に過ぎない」

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