第7話『蜘蛛女』

 夕日は夏草茂る平野の奥へと溶けるように消え、虫の音が闇を支配した。星の海に月がぽっかりと浮かび、騒がしくも大人しい夏の夜に覆いかぶさる。


 ダヴィは天幕の中で、密偵が知らせてきたウッド国の参加者たちの様子を調べた報告書を読んでいた。興味深い一文を見つける。


『ウッド王よりも、サロメ様に多くの護衛が付いていた』


(ウッド国の家臣たちもサロメ殿を大事にしているらしい)


 思い返せば先ほどの宴会の際も、ウッド国の家臣はサロメの顔色を伺っていた。宰相の地位にいるはずのサンデルも、サロメの顔をチラリチラリと見ていた。サロメが他国に知られ始めてまだ数年。ウッド王の寵愛を受けてからまだ5年足らずだろう。それなのに、彼女はウッド国に欠かせない存在になっていることが分かる。


「愛人の国か……」


 ダヴィは思わず、ウッド国の蔑称を口に出した。その時、天幕の入り口に立つ影があった。


「その愛人が来ましたわよ」


「む……」


 不意を突かれて、ダヴィは慌てて目線を上げる。そこには黒い唇を三日月の形に曲げた、サロメ=アンティパスの姿があった。


 ダヴィは警戒して、天幕の外へ声をかける。


「ミュール! そこにいるかい」


「います! 隣にはそちらの護衛も」


 お互いにしっかりと安全は確保しているということか。ダヴィはサロメに目の前の椅子へ座る様に案内する。


「どうぞ、サロメ殿」


「サロメで結構です、ダヴィ様。稀代の王を前にして、少し緊張しますわ」


「…………」


 微塵も緊張していないのに、そんなことを言われると、妙に腹立たしい。ダヴィは相手のペースに飲まれないように、意識的に感情を抑えた。


 サロメは白いドレスと変わって、濃い赤のドレスを着ていた。昼間と違って、ピッタリとしたスタイルで、体の線がハッキリと出ていた。ハリのある乳房と細い足腰をわざと見せるように、体をくねらせて座っていた。


「お招きいただき、光栄ですわ」


「いえ、我が国にとって重要なことですから」


「まずは少しお話しませんか。あなたをよく知りたいわ」


 そう言って、サロメはワインの瓶を取り出した。ダヴィはそれを押し止める。


「申し訳ないが、酒はそこまで強くないのです。重大な交渉の前に、頭をはっきりさせておきたい」


「あら? お堅いこと。そんなことでは、この世は楽しめませんわよ」


 クスクスと笑う。年上の女性にたしなめられるように笑われるのは、何とも男のプライドがチクチクと針を刺されるように感じる。ダヴィは気を取り直すように髪をかき上げ、ワインの瓶をしまったサロメに話しかける。


「さて、どういうお話ですか。ウッド国は俺を殺したいほど憎んでいるらしいが、これ以上交渉する余地はあるのですか?」


 ダヴィのキツイ非難にも、サロメは動じない。むしろ笑みを深める。


「あれは愚かな者たちの浅知恵です。ウッド国の総意ではありません」


「愚かな者たち……」


「ウッド国の総意とは、このわらわ」


 サロメは自分の豊満な胸の間に手を当てる。その姿勢には自信が満ちていた。


 王でも、重臣でもなく、自分こそがウッド国を統べる。ダヴィは内心唸り声を出す。


「では、あなたは違うことをお考えなのですね」


「ええ」


 サロメはぺろりと唇を舐めた。行儀は良くない。しかし彼女の黒い唇が歪むと、自然と目が惹きつけられる。ダヴィも彼女の唇の動きを待ってしまう。


 黒い唇が開いた。


「ウッド国を差し上げましょう」


 ダヴィは一瞬、何を言われたか分からなかった。少し経って、自分が息を止めていたことに気が付いた。外にいたミュールに至っては「はあ?」と驚きの声を上げていた。


「ミュール、静かに」


「す、すみません……」


 叱ってはみたが、彼が驚くのも分かる。ダヴィはサロメに尋ねた。


「差し上げるとは、どういう意味をおっしゃるのですか?」


「そのままの意味です。ウッド国の領民・領土・宝物、全てをダヴィ王にあげましょう」


 サロメはダヴィの表情を楽しむように、彼に笑みを見せ続ける。ダヴィは数回首をひねり、それでも分からず、仕方なく尋ねた。


「まずそれが可能かどうかも分かりませんが、それよりも、それがウッド国にメリットがあるか理解が出来ません」


「ウッド国としては下らない王を廃し、ダヴィ王を迎えることが出来ます。そしてわらわにとっては……」


 サロメの赤いドレスから出た細い腕が、スッと伸びる。その無遠慮な手はダヴィの膝を撫でた。


「新たな愛すべき人と過ごすことが出来ます」


「愛すべき、とは?」


「わらわをダヴィ様の妻にしてください」


 膝の上に乗せられた手から、彼女の温もりが伝わる。その体温が妙に熱く感じる。ダヴィはその手を振りはらうことが出来ず、体を硬直させた。その様子に、サロメは微笑む。


「初心なのですね」


 サロメは立ち上がり、今度はダヴィの肩を触る。そして、そのまま首筋へと伝い、手で舐めるように撫で続ける。


 サロメは体を折り、彼女の唇がダヴィの耳に近づく。


「わらわはこの国では側室にさえなれません。古臭い伝統に阻まれているのですわ。今は良くても、いつか捨てられることでしょう」


「それを避けるために……?」


「そして、わらわは強い男が好き……」


 サロメの吐息がダヴィの耳をくすぐる。彼女の身体に染み付いた香の匂いを嗅いだ。


「伝統に固執する愚かな男たちを捨てて、わらわと新しい王国を築きましょう。あなたとわらわが新しい光になるのです」


「そのためにウッド国を滅ぼすと」


「早いか遅いかの違いですわ。深き森に住まう獣どもも、光に当てられれば自ら死を選ぶでしょう」


 彼女の匂いが強くなった気がする。ダヴィがハッと息を吸ったその時、サロメの首が動いた。彼女の唇が、ダヴィの唇を食べようとする。


 その時、ダヴィの頭にトリシャの顔が浮かんだ。ダヴィは反射的に手で彼女の唇を防いだ。その反応に、サロメはダヴィの顎をつかむ。有無を言わせない力強さに驚き、ダヴィはサロメの目を見た。赤黒い感情が、黒い瞳のうちで踊っていた。


「ジッとしていなさい。大丈夫、わらわが良いようにしてあげるから……」


 その時突然、サロメの背中越しに、夏の夜を斬り裂く高い声が飛んでくる。


「ダヴィに触れるな!」


 ジャンヌが天幕の中へ駈け込んできた。サロメが驚いて数歩のけぞった正面に滑り込み、ダヴィの前に立った。ダヴィに背中をくっつける。彼女の茶色い髪がダヴィの鼻先に当たった。


 ジャンヌは短刀を構える。


「それ以上近づくな!」


「シン!」


 サロメが呼ぶと、今度は黒髪の女性が飛び込んでくる。彼女はサロメの前に回り、長い片刃剣を抜いて、ジャンヌと対峙する。グレーの麻衣を身にまとい、長いストレートの黒髪を頭の後ろで束ねていた。

後ろからミュールも天幕に入ってきた。


「ジャンヌ、気をつけろ! そいつ、出来るぞ」


 シンと呼ばれた女性が鋭い視線を飛ばす後ろで、サロメは余裕のある微笑みを見せる。ダヴィは彼女の名前に聞き覚えがあった。


「シン=アンジュ殿だな。ウッド国の軍事を司る若い女性がいると聞いた」


「…………」


 シンは答えない。ジャンヌとミュールに挟まれている状況で、彼女は油断なく、どちらにも殺気を飛ばしていた。


 ダヴィはこの場を収めることを決めた。


「サロメ殿。せっかくのお話だが、断らせていただく。お引き取り願おう」


「……無粋な小娘が来てしまったことですし、ここでお開きですわね。ダヴィ様、お気が変わったら、いつでもご連絡ください。今度は二人で夜を明かしたいわ」


「うっさい! さっさと消えろ!」


 ジャンヌの怒鳴り声が響く中、サロメは軽い笑みを、シンは厳しい表情を崩さないまま、天幕を出て行った。彼女たちの足音が聞こえなくなったところで、ダヴィはジャンヌに礼を言う。


「ジャンヌ、ありがとう」


「あんな女、すぐに突き飛ばしてよ! まったく、あたいがジョムニの指示で、駆け付けたから良かったものの」


「ジョムニの指示?」


「そうさ。あ……そうです」


 いまさら敬語を思い出したジャンヌをしり目に、ダヴィは考える。わざわざ伏せていたジャンヌたちを呼び出したのは、どういう理由だろうか。


 その答えをミュールが言った。


「ダヴィ様、ジョムニが正しいようです。ウッド国の動きが怪しい」


「どういうこと?」


「この真夜中に兵士を動かしている。ひといくさ起こそうとしているのかもしれませんぜ」


 ダヴィはすぐに決断した。ウッド国は未知の国だ。兵力はほぼ互角とは言え、能力の分からない相手と闇の中で戦うのは好ましくない。


「ここは退こう。すぐさま出立だ。ウッド国の体勢が整う前に、俺たちの城まで駆け込もう」

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