第2話『愛人の国』

『……国の中に森があるのではない。森の中に国があるのだ。そう思わせるほど、ウッド国は木々に覆われている。ヌーン国ほど暑くなく、植生は異なる。しかしこのウッド国の人々はヌーン国以上に、森と一緒に暮らしてきた。正円教が広まっているとはいえ、各地に木や川を祭る文化が根付いている。この国の老人から『人の魂は太陽や月の国に行った後、森に帰る』『聖女様は森の中にいる』と聞かされて、酷く驚いた。極めて良質な木材で商売をし、森から湧き出た水で作物を育てる彼らにとって、森は聖女様そのものなのだ……』(アルバード2世旅行記より抜粋)



(この世の果てに来てしまった)


 教皇・アレクサンダー6世はウッド国の港に降り立った瞬間、そう思った。


 ファルム国やクロス国よりも黄色い太陽の光が空から降り注ぐ。こちらを興味深そうに眺める庶民は麻や木綿の薄着であり、毛皮の服を着る教皇一行を珍しい動物のように眺めている。港で働く漁師たちは、服をまくり上げて、布切れのような下着一つだけを巻き付けて働いている。


 数少なくなった側近の一人が呟く。


「こんなところまで落ちてしまったか……」


 教皇はじろりと睨み、側近はすぐに口をつぐむ。しかし教皇はそれ以上何も言わなかった。


 数台の馬車が彼らを待っていた。その馬車は金細工が施しており、ロースで走っていてもおかしくない装飾をしている。教皇たちはそれを見て、ホッと安心した。


「ようこそ、ウッド国へ。国王陛下がお待ちです」


 ファルム国の騎士とは異なり、急所しか守っていない鎧を着た騎兵が、教皇たちを馬車へと誘う。教皇はいそいそと馬車に乗り込む。そして馬車が城へと発車する。


 その道中、教皇は馬車の窓から外を眺めた。この国の家々は石ではなく、木材か藁で作られている。道路は土がむき出しで、ガタガタと乗り心地は悪い。


 不快。その感情は彼の中で怒りへと変わり、遠い北にいるはずの青二才に向けられる。聖職者としての仮面はもう身に着けていなかった。


「必ず、殺してやる……ダヴィ……」


 ――*――


 ウッド国王・ヤン3世は痩身の中年男性だった。威厳はなく、教皇と初めて会った瞬間、卑屈なほど頭を下げる。黄色い肌の中に、青い髭の剃り跡がみにくく映る。


「教皇猊下にお越しいただけるとは、恐悦至極に存じます」


 明らかに着慣れていない、ボタンが付けられた絹の正装。立ち並ぶ貴族たちは暑そうに手であおいでいる。いつもは庶民のように麻・木綿の服を着ているのだろう。


 ヤン3世の額に汗が浮かんでいる。その姿も、顔に浮かぶ媚びた表情も、教皇がこれまで会ってきた王侯たちの中でも最低の部類だ。下品な庶民のように唾を吐き捨てたくなった。


 だが、教皇はグッとこらえて、政治家としての微笑みで応える。


「ご歓待いただいたこと、ありがたく思いますぞ。どうか、正しき世のために力をお貸しください」


「それは……皆にはからないと。サロメにも聞かないといけませんから」


 “サロメ”。その名前を聞いて、教皇の目が細くなる。


(噂通りだ)


 ウッド王はその様子を見て勘違いしたのか、少し早口になりながら労わる。


「ささ、難しい話はあとにして、まずはお休みになられよ。慈悲無きファルム王に幽閉されてから、ゆっくりと眠ることも出来なかったと聞いています。我が国の随一の料理人に用意させた夕食もありますし」


「……お心遣い感謝いたします。実は少し船酔いしまして。本日は夕食をとらずに、ゆっくりと休ませていただきます」


「あー、それは大変なことです。では、すぐにお部屋までご案内しましょう」


 ウッド王自ら部屋まで案内する歓待ぶり。教皇の側近たちは鼻を膨らませて、幽閉後に失っていた自尊心をよみがえらせた。しかし教皇の顔つきが変わることはない。


 その夜、教皇は側近を連れて、部屋を抜け出した。この国特有の生ぬるい空気が漂う夜の闇を足早に駆け抜け、約束された場所に到着する。


「お待ちしていました。こちらです」


 少年の侍従が教皇を声低く呼んだ。彼について行くと、王宮内の暗く細い道に案内される。それを抜けると、王宮の中でも一段と装飾が施されて豪華な部屋に通される。甘い香の匂いが漂ってきた。


 扉を開けると、その匂いに体が包まれ、一瞬足が止まる。


「ようこそ。猊下げいか


 落ち着いた口調で教皇を呼ぶ女の声がした。教皇はハッと視線を奥へとむける。


 一人の女性がベッドに横になっていた。頬杖をついて、切れ長の目を教皇に向けている。長い黒髪が白い首筋にかかっていた。銀色のティアラが頭の上に乗せられている。


 彼女の趣味なのか、唇を黒く塗っていた。


 ロウソクのぼやけた光の中で、彼女だけが輝いているようだ。白いドレス姿に、体の曲線美が浮き出ている。ゆったりとした首元の襟の隙間から、白い乳房の端が見えた。情欲を掻き立てられる。教皇の側近たちは見とれ、教皇でさえ、長年忘れていた男としての本能を思い出させる光景だった。


 彼女を囲んでいた侍女が声をかける。


「教皇猊下です。サロメ様、起きられた方が」


「今日は体調が悪いのです。猊下、どうかご慈悲を。このままでお許しください」


「ええ……いいでしょう。こちらが無理を言っているのですから」


 教皇たちは戸惑いながらも、用意された椅子にそれぞれ座った。


 普通ならありえない。教皇が訪ねてきたなら、国王でも居住まいを直そうとする。庶民なら、たとえ重病でも、感動の涙を流して出迎えようとするだろう。


 ところがこのサロメという女は、一切の遠慮をせず、身動ぎ一つしない。周囲が驚いても異を介さず、堂々とこの空間の主人であり続ける。


(まずい)


 政治家としての教皇の勘が働く。このままでは完全に主導権は相手のものだ。


 しかしながら、そもそも幽閉の身からこの国に亡命してきたのだから、教皇に主導権があるはずもなかった。その状況の悪さは、教皇は重々承知している。


 だが、これほどまで不躾な態度を取られると、心が落ち着かない。昼間に会ったウッド王なら、地面に這いつくばっているだろう。ウッド王に畏れという気持ちを渡してきたように、彼女は無遠慮に教皇を見つめ続ける。


 サロメは侍女に目配せした。


「猊下はまだ何も口にされてないと聞きます。お食事をご用意なさい」


「いや、それは……」


「遠慮なさらなくとも結構。ご安心ください。料理人はクロス国から連れてきましたわ」


 侍女たちが次々と磁器に盛り付けられた食事を、教皇たちの前にそれぞれ運んできた。その料理はロースで食べていた食事とそん色ない、豪華なものだ。幽閉先ではこのような料理は食べられなかった。側近の一人が腹を鳴らし、羞恥で顔を赤らめた。


「さあ、お召し上がりください」


「では、お言葉に甘えましょう」


 教皇は大仰に応えたが、いかんせん箸が動く。以前はもっと優雅に食べられたはずだが、久しぶりの温かい食事に、喉や胃腸が欲してしまう。野菜がとろけてうっすらと油が浮いている羊肉のスープに、焼けたバターが香り立つキノコと白身魚のソテー、奥にほのかな甘みを感じる辛口の白ワインが、彼らの舌と脳を極楽へと導く。


 食事に夢中になっている彼らに、サロメは微笑む。


「ウッド王はこの国の料理を振舞おうとしていました。こちらの方がお口に合いましょうに」


「左様ですな」


 教皇は素直に答えた。ウッド国では生魚の切り身と薄い醸造酒、そして焚いた米を食べる。以前、この国に訪れたことのある教皇は、その食事が合わず、腹を下したことがあった。だからこそ、ウッド王の誘いを断ったのだ。


 ウッド王とは違い、こういう配慮は出来る。教皇の勘が告げる。


(この女とは話せる)


「さて、ゆるゆるとお話ししましょうか」


 食事もひと段落したところで、サロメが話しかけてきた。教皇はナイフとフォークを置いて、居住まいを正す。


「儂はこの国に居座るつもりはありません。ゆくゆくはロースに戻り、正しき場所へと落ち着きたいと思っています」


「お気持ちは分かります」


「しかし、それには障害になる者が一人おります。ウッド王にはこの大悪党を排除してもらいたい」


「…………」


 大悪党とは、勿論ダヴィのことだ。教皇は駆け引き無しに、ストレートに要望した。食事まで与えられて、もはや主導権が取り戻せないと分かっていた。ならばこちらの要望を隠さずに出して、相手の希望を聞いた方が良いと判断したのだ。


 サロメは黒い唇をひと舐めした。そして口角を上げる。頬杖はついたままだ。


「猊下のご要望、承りました。しかしそれでは、ウッド国に旨味がございません」


「ロースに戻れたあかつきには、ウッド王に偉大なる称号を与えましょう。勿論、あなたにも」


「教皇の位、ちょうだいできますか」


「…………うん?」


 理解が出来ず、教皇は固まる。側近たちも息を飲み、部屋の空気が硬直する。


 しかし、サロメは微笑み続ける。


「次期教皇として、ウッド王とわらわの子どもを就けること。それをお約束頂けませんか」


「いや、それは……」


「お約束下さい」


 黒い唇と黒い瞳は要求し続ける。教皇は飲まれそうになるのを必死に抑えた。


 だが、拒んでも無意味だ。教皇はウッド国以外に頼る術を持っていない。そして残念ながら、彼には子供がいなかった。ゆくゆくは養子を取ろうとしていた。その事情も、目の前の女は把握しているのだろう。


 ダヴィが憎い。その想いを思い出し、教皇は覚悟を決める。机に立てかけていた教皇の証であるロッドを思わず握った。


「よかろう。あの男を殺すなら、このロッドをくれてやる」


 教皇の老いた目の奥に灯る黒い情念を見つけ、サロメはやっと白い歯を見せた。


「その目、わらわは好きですわ。むき出しの情欲ほど、甘美な匂いがするもの。猊下のドロドロとした熱量を感じて、今夜は良い夢が見れそう」


 交渉が終わり、教皇たちは自室へと戻っていく。大分離れたというのに、香の匂いが鼻奥から消えそうにない。


 その道中、我に返った側近が忠告する。


「猊下、なぜウッド王ではなく、あの女と交渉したのですか? ウッド王の方が操りやすそうでしたのに」


「馬鹿め。あの男と交渉していては、何年経っても物事は決まらん。重臣たちも同じだ」


 教皇はじっとりと肌に汗がまとわりつくのを感じていた。この国の暑い夜のせいではない。この汗の中には恐らく、冷や汗も混じっているだろう。


「サロメ=アンティパス。ただの愛人から成り上がったあの女が、この国を実際に動かしているのだ。もはやこの国は、あの愛人のものだ。覚えておけ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る