第30話『トリシャの幻影』

 年越しの祭りがナポラで開かれた。教皇と戦い抜いた年が終わり、金歴551年を迎える。澄んだ空に昇った新しい太陽が、人々を祝福する。


 しかしナポラの人々の心は不安でいっぱいである。こうして祭りを楽しんでいても、壊れた城壁の向こうに、教皇軍の影を見る。今度の敵は以前よりも多く、そして凶悪であると、誰しもが知っていた。


 そんな彼らの心を癒したのが、聖子女の存在だ。


「きれいだったなあ」


「まったくだ。こんな機会が来るなんてな」


とライルとスコットが、聖子女が登壇した矢倉を祈る。もう夕暮れ。そこには聖子女はいなかったが、ご利益がありそうだ。広場にいる他のナポラの人々も同じように祈っていた。


 年越しの祭りに顔を出して、人々と共に祈りを捧げた彼女は、ナポラにとって精神的な支柱である。彼女が戦うと決めて、動揺していた人々の心が定まった。教皇軍の大軍を前に脱走者はほとんど出ず、むしろ義勇兵が増えている奇跡が起こっている。


「ほんと、不思議な宗教ね」


と異教徒のジャンヌが呟いた。隣にいたミュールが聞く。


「何が不思議なんだ?」


「あたいたちの神様はさ、干渉しないんだよ。あたいたちが喜んでいようと、苦しんでいようと、見ているだけなんだ」


「じゃあ、何で祈るんだよ」


「そんな生活を送れているのは、自然があるから。だから自然の神様に感謝して祈るんだよ」


 ジャンヌは矢倉に掲げられた正円教の象徴を眺めた。トリシャの胸にも焼き付けられた真円のマークは、ジャンヌにはいびつに見える。地上の自然には存在しない形だ。


「でもこの宗教では人の心も、行動も、運命さえも、動かしている。人の中心に神様が居座っている」


「神様じゃない。聖女様だ」


「分かっているさ。ふう……」


 その聖女様のせいで、トリシャは死に、自分たちは苦しめられている。それを思うと、ジャンヌは感じざるを得ない。


「聖女様って、怖いんだね」


 2人の後ろから、ダボットがジョムニの車いすを押しながらやって来た。彼らは疲れ切った表情を見せている。


「ジョムニ、ダボットも、久しぶり」


「しんどそうな顔しているな」


「やっと、作戦会議が終わりました。これでカンズメ生活は終わりです」


 彼らは教皇軍の軍容を逐次ちくじ調査しながら、迎撃作戦を考案していた。冬の間、外の寒さを感じる暇もなく、地図と報告書を読み込み、机に向かっていた。その結果出来上がった作戦立案書を、ダヴィに説明してきたところだった。


 ミュールがその内容を聞く。


「どういう作戦になったんだ?」


「綱渡り……と表現するにはぬるいですね。糸の上を渡るような作戦です」


「ひとつでも間違えれば全滅だ。お前の得意な矢で例えるなら、ここから城壁の上にいる蚊を射殺すぐらいの可能性を秘めた作戦だ」


「あたいでも失敗するよ! 変な例え方しないでよ。それが作戦? 本気で考えたの?」


「希望を見出しただけ、ありがたいと思え!」


とダボットがジャンヌを叱る。苛立いらだって、持っていたパイプに火を点けて吸い始めた。


 ジョムニは苦笑して、ジャンヌをなだめる。


「彼も私も疲れました。作戦の詳細は後日話しますから、今日のところは大目に見てください」


「そんなに疲れたなら、ここに来ない方が良かったんじゃないか? ダヴィ様も昼だけ顔を出されて、すぐに帰られたし」


「私もそう考えたが、ジョムニが連れて行けとわがままを言うからな。まるで子供だ」


とダボットが顔をしかめる。今年で17歳になるこの国の軍師は、青いキャスケット帽の下に笑顔を浮かべた。


「人々の顔を見に来ました」


「顔を?」


「私は以前まで、人の顔を見てこなかった。だから教皇の悪事を見抜けなかったと思っています。軍を指揮するのは、地図の上で駒を動かすとのは訳が違う。そう気づいたのです」


 人は血が通い、感情を持った生き物である。以前の彼はそれすら分からなかった。ジャンヌは年下の彼をおちょくる。


「なんかダヴィみたいなことを言うじゃないか。説教くさくなったよ」


「それは光栄ですね。ダヴィ様に近づいたなら、それは成長した証です」


「皮肉のつもりだったのに……ダヴィのファンがまた増えたよ」


「ふふふ」


 ジョムニは人々を眺める。踊ったり、食事をしたりと、思い思いに楽しんでいる。この光景を作り上げたのは、自分たちだ。


「私の夢は、昔から変わりません。それは民衆に優しい政治を行う国を作ること。でも変わったのは、その中心に、ダヴィ様が欠かせなくなってしまったのです」


 ――*――


 夜が深まる。作戦案を読み込んでいたダヴィは、つい先ほどまで部屋の暗さに気づかなかった。それほど今晩は、月明かりが強い。


 ダヴィはロウソクを点けようと立ち上がる。部屋の外にいる衛兵に頼もうとした時、部屋の暗がりに気配を感じた。


「誰かいるの?」


 誰も答えない。しかし何者かの存在を確実に感じた。


 本来なら、この声で衛兵が反応するはずだが、それもない。ダヴィは暗がりに目をらした。


 その先にいたのは、信じられない人物だった。


「トリシャ……?」


 部屋の闇の中で、たたずむ女性。こちらに微笑むを向けるのは、トリシャだ。最後に会った日と同じように、長くウェーブした金髪を見せる。白い肌やドレスが月明かりを反射する。


 ダヴィは開いた口が塞がらない。ただ本能のまま、一歩また一歩と近づく。彼の耳飾りが小刻みに震えた。


 その時、月明かりが途切れた。


「彼女が恋しいか」


 バッと振り向く。月明かりを背景にして窓辺に立つのは、髪も瞳も服も白い女性だ。ダヴィの中に負の感情がわく。


「聖女……」


「人とは愚かなり。有り得ない事象にもすがろうとする」


 ダヴィはその言葉を瞬時に理解し、トリシャがいた方をもう一度見た。そこにトリシャの姿はなかった。ダヴィは聖女をにらむ。


「俺を騙すか。聖女も無粋な真似をするものだ」


「剣は抜かぬのか」


 聖女はくぐもった笑い声を出す。一年ほど前、この部屋の中で暴れたダヴィを嘲笑ちょうしょうしている。しかしダヴィは冷静だ。


「実体のない者を相手にするほど、俺はヒマじゃない。楽しんだなら、さっさと帰れ」


 聖女は首を傾げて尋ねる。


われに敬意を抱かぬか」


「なに?」


「聖子女にはうやうやしく仕えるのに、われにはそのような言葉を発する。なにゆえか」


 ダヴィは考える間もなく、ハッキリと答えた。


「聖子女様は人の幸せを常に考えていらっしゃる。それは尊敬に値する。しかしお前は違う! 人をわらい、愚弄ぐろうする。だからお前には敬意を抱かない」


「…………」


 聖女は目を細めた。白いまつ毛が動く。


われは何もしていない」


「なんだと?」


「人がわれを望み、われを生み出した。そして勝手に期待し、勝手に失望する。世界が人のために成り立っていると考えるのは、人のエゴなり」


 世界はどんな生き物に対しても平等で、自由だ。しかし生き物は主観でしか行動できない。だから聖女も自分のために存在して、自分を良くする存在だと考えてしまう。


 聖女は言う。


われは空。われは海。われは森。われは一輪の花。そして……」


 聖女は細く白い指をダヴィに向ける。


われはそなたなり」


 ダヴィは息を飲む。後ろに下がりそうになるのをこらえて、強気に尋ねる。


「もう一度聞く。何をしに来た。なぜ、俺の前に現れる?」


「前も言った。われの趣味ぞ」


 ダヴィは思わず苦笑した。人の運命を楽しむなど、人知の及ばざる考え方だ。


「勝手にしろ。その代わり、俺も勝手にさせてもらう。お前に敬意は払わない」


 聖女は微笑んだ。不意に、月明かりが強くなった気がした。


「人の王となる者よ。あがき苦しみ、物語をつづれ」


 聖女の影が薄くなる。月光に溶けるように、声もかすんでいく。


 最後にこう聞こえた。


われは見ている」


 部屋にダヴィ独りとなった。ため息をつく。


「なんと気ままな聖女だろうか。まったく……」


 怒ってもしょうがない。相手は人ではないのだから。


 ダヴィは窓の外の月を眺める。その巨大な物体に、不敵にも笑みを向けた。


「俺の、俺たちの物語。せいぜい楽しむといい」

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