夜風

シイカ

夜風

「子供は欲しくないけど母乳はあげてみたいよね」

牛乳を飲み始めたばかりの私に対して彼女は言った。

そんな彼女の発言に飲んでいた牛乳を吹き出しそうになり、なんとか飲み込んだ私は彼女に訊き返した。

「それは……子供ができないと母乳はあげられないんじゃないの?」

「そお? あたし、今ならできるんじゃないかと思うんだけど」

「なにを根拠に」 

「四月五日。覚えてるよね」

 そう訊かれた途端、私の心臓が小さく跳ねた。

 忘れっこない。だって先週の今日のことだ。でも、私は、一応、無表情を装い、無言で頷くだけにとどめた。



「………………」

 時計の秒針が時を刻む音と、ときおり彼女の部屋の窓を叩く夜風の音しか聞こえない深夜の二時。

 丘陵の中腹に建つ彼女のアパートは新築のワンルームだが麓から伸びる一車線の細い坂道に面していて、どん詰まりが頂上の城址公園という立地条件のせいか駐車スペースがないのも手伝って入居者が集まらず、四世帯のうちひとつしか埋まっていない。 

 高校の頃に観たアニメに登場する辺境のラブホというのが、こんな感じだった。

 つまりは、車も滅多に通らない個室に私と彼女はふたりっきりでいる訳で、少々の声とか、そういうものに邪魔されない環境。だから静寂が神経を研ぎ澄まさせる。

 そういうシチュエーションが揃えば、彼女のいう四月五日の深夜、他愛もない会話が途切れたと同時に、どちらからともなく目をつむり、唇を重ねてしまったのも必然だったように思えてくる。いや。正直にいえば、私はいけない期待を心に隠していたからこそ、今夜もこうして彼女の部屋にいるのだと思う。

「先週もさ」

 彼女はちょっぴりはにかんだ様子で俯きながら、それでもよく通る声で告げた。

「百合とかレズとか、そういうのに、いちいち目くじらたてる連中が毎週末に車に乗って野猿街道のラブホにいって何やってんだ? ……って、そんな話をしてるうちに、一線超えるのって難しいことなのかな? ……ってなってさ、それで――」

「実験しちゃったんだよね。でも、成功だったのか失敗だったのか、私たちは結論をださなかった。私はね、確かめるのが怖かったんだよね。もし、アンタが照れくさそうに長い髪をすきながら『あはは。昨夜のアレ。ノーカウントにしない?』なんていわれたら――」 

「……あたしが、そういったら、どうするつもりだった?」


「平手で頬っぺたひっぱたいてやろうと思ってた。全力で」 

 そういった時の私は、たぶん眉を上げて、ちょっと下がり気味の目を据えていたんだと思う。迫力のない顔なのは承知してるけど、冗談やシャレにされたら私の心が傷つく。

 彼女はムッとした表情になり、いきなり服を脱ぎ始め私の前に胸を突き出した。

「ねぇ? 吸ってみてよ」

 私は目をしばたたかせて彼女の顔から目を背けてしまった。


「な、ま、待ってよ……」

「何よ。自分はノーカウントにしたらひっぱたいてやるって言ったくせに、目の前で裸になられたらうろたえるっていうの?」

 彼女の眼差しの意味を理解した途端、身体が熱くなった。彼女の胸と顔を交互に見ながらため息混じりに呟いた。

「じゃあ、本当に良いの?」

 頷く彼女に私はためらいながらも、その胸に唇をつけた。

「あっ……」

 すぐさま胸から唇を離し、声を掛ける。

「ごめん、痛かった?」

 顔を赤くした彼女は首を振りながら呟いた。

「もっと吸ってみて……」

 さっき牛乳を飲んでいたせいか、ほんとうに母乳を吸っている感覚に私はとらわれていた。私が舌を動かすたびに彼女の口から熱を帯びた声が漏れてくる。

  私は彼女を抱きしめ耳元で囁いた。

「ねえ? 他のところはダメ?」

 私は彼女が返事をする前に首筋をなめる。彼女は私の背中に手を回し、囁いた。

「服……脱いでよ。あたしも下、脱ぐから……さ」


 どちらが誘導したのか気が付いたら一糸まとわぬ姿でベッドにお互い横たわっていた。

 私の茶色くて短い髪と彼女の黒くて長い髪が絡まり合っていく。

「あたしも吸って良い?」

 彼女は私の上にまたがり、私の右の胸に唇を這わせ、胸の頂きを舌で転がした。

「くふ……」

 私は声が出そうになるのをシーツを握りしめて我慢した。

「まだ、私、良いって言って……ないよ……」

「さっき、あたしが返事をする前に舐めたじゃない」

 それもそうだ。そうだけど……。

「ん……」

 胸に這わせてた彼女の唇が今度は私の唇に重なってきた。

 舌の感触をお互い確かめ合うように、ゆっくりと優しく。

 彼女の黒い髪を撫でながら。私の茶色い髪を撫でながら。

 吐息と一緒にお互いの名前を、もちろん、下の名前を呼び合う。

 彼女が私に溺れていくのがわかる。私も彼女に溺れていく。

 身体の快感だけじゃない。心が溶ける感覚に私も彼女も酔った。


 何度も愛しあった後。

 ふたりの息が落ち着くとベッドの上でお互いの髪を撫でながら、彼女は訊いてきた。

「……ずっとそばにいてくれるよね?」

 彼女が、嬉しそうに微笑む姿が私には朝の陽射しより眩しく感じた。

「あたしと出会っていなかったらアナタは誰を好きになっていたの?」

「人を好きになるのに『もしも』はないよ。アンタが好きなんだから」

「一番好きな人と一緒になるなって言うけど一番好きな人と一緒になれる人ってどれくらいいるのかな? ……アナタは後悔してる?」

 私は枕に顔を埋め彼女を見ずに言った。

「してないよ」

「よかった……もう、友達じゃないよね?」

 彼女の言葉に私は涙が出るほど笑いながら言った。

「あたり前でしょ」

 彼女は舌で私の涙を拭った。

「涙……甘いね。そうだね。もう友達じゃないよね」

 大学生活はまだ始まったばかり。考える時間だっていくらでもある。

 そう。恋人とふたりで考えれば良い。ふたりならきっと大丈夫。

 カーテンを引くと窓の下に寄り添う百合の花が咲いているのを眺めた彼女はクスっと笑っていた。そのときの彼女は私が今まで見た中で一番かわいかった。




                            『夜風』   了

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夜風 シイカ @shiita

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