第8話 人間の心
リコリスはブレティラが医者の診察を受ける間も付き添い、朝食後の薬を飲むところまで見届けてやっと家を出た。
疑うことなく人間用の薬を与えられたブレティラは、医者の目から見てもきちんとヒトらしいものだったことにまずは安堵しながらも、薬を飲んで治らなかったときの言い訳をどうしたものかと考えながら、いつの間にか眠りについていた。
「――風邪とやらは辛いかい、神父殿」
頭痛を伴う嫌な眠りの中、壁から話しかけられるという奇妙な夢を見た。
どこかで耳にしたようなその声は、すっかり聞き慣れてしまった口の悪い同居人のものと違って、あまり良い印象とは言えない。
「ああ。だるい」
答えてやったところで所詮、壁は壁。声がした側には窓が付いているが、壁であれ窓であれ、言葉を話すはずがない。
ところがその壁は、次の言葉をかけてきた。
「そうか、ならば助けてやろう」
壁ごときにそんな芸当が出来るはずもないだろう、と言いかけた次の瞬間、呼吸が奪われた。
「……っ!?」
夢か現実かの判断がつかないまま危機感を覚えて目を見開くと、そこにあったのは、呼吸もまともにできない真っ暗闇。
空気を求めて口を開けると、ぬめりを帯びた平たいものが侵入し、液体が喉の奥へと流し込まれる。むせぼうにも口は隙間なくふたをされて、彼はそれを飲み下すしかなかった。
侵入した得体の知れないものは、液体を流し入れた後も執拗に口内を蹂躙する。
どうにかして逃れようと歯を噛み締めた直後、視界が開けた。
「っ、痛いな。折角飲ませてやったというのに」
そこに居たのは、濃紺の髪を生やした妖艶な顔の男。ブレティラのすぐ目の前に顔を寄せたまま、男は親指で唇の端を拭っていた。
表情を歪めながら出された平たい舌には、くっきりと噛み跡が残されている。
「もっとマシな飲ませ方ならな」
「それがわざわざ病を治しに来てやった俺に言う台詞か? 流石というか、もぐり殿は礼儀知らずだな」
窓の外からベッドまで身を乗り出していた男は体を引き戻し、窓枠に頬杖をついた。
「お前、風邪がどんなもんかも知らんやろう」
「ああ。その辺りは適当だ。大体、姿形を真似ただけでその気になって人間の病にかかるお前が悪い」
長い前髪が風に揺れるのが鬱陶しいのか、彼は話しながら何度もそれを掻き上げた。邪魔ならば半端なことをせずに全部結ぶか髪型を変えればいいだろうに、いつも耳から上の髪だけを後ろで束ねて、前髪も後ろ髪も下ろしたままで居る。
「ところでヴァイパー、ここは二階なわけやが」
彼が頬杖までついて平然と話しているせいで、ブレティラは大変なことに気づき遅れた。
今彼がそうしている姿は、外から見れば、二階の窓から人が落ちかかり必死に掻きついている状況に見えてしまう。せっかく平穏に暮らしているというのに、そんな騒ぎを起こされては堪ったものではない。
雨の日の一件といい、この魔物はトラブルを起こすことしかできないらしい。
「心配しなくても、俺は落ちたりしないよ」
「誰もお前の心配なぞしちゃあせん。お前の下半身を見た町の人間の心配をしゆうがじゃ」
「なんだ、そっちか。案ずるな、人間には小さな蛇にしか見えないからね」
本来は島も一呑みにできるほど巨大な怪物が、よりによって小さな蛇とは図々しい。さらりと答えた魔物の言葉に、ブレティラはそんな思いを抱いた。
「ほんなら俺は今、蛇を相手に話しゆうわけか」
「そういうことになるな。どんな生き物にも平等な神父殿……まるでお前がクロウにやったあの人間のようじゃないか」
彼は楽しげに笑い、ブレティラの額に触れる。
上手く人間の姿に化けているが、その皮膚は蛇の外皮のようにひんやりとしていて、悔しいかな、高熱を出していた体には心地良いものだった。
「効いてきたみたいだな。流石、俺が作っただけはある」
「適当やったくせに」
「なら、その適当が効いたお前は相当良い加減ということだろうね」
本当にあの得体の知れない液体が効いたのか、それとも彼の冷たい手が熱を吸ってしまったのか定かではなかったが、ずっとぼんやりしていたブレティラ意識は手が離れる頃にはすっかり晴れて、だるさも節々の痛みも嘘のように消え去っていた。
これだけ治りが早いと、逆にリコリスから疑いの目を向けられてしまうかもしれない。
「さて。あっさり治ったんだ、本題に移ろうか」
ヴァイパーは窓枠を乗り越え、ブレティラが寝ていることにもお構いなく、ベッドの上をざくざくと踏み歩く。
窓越しに話しているときにはわからなかったが、この日の彼は違和感の塊だった。
あるはずのない胸元の膨らみが、服を持ち上げているのだ。
「……そりゃあ何の遊びや」
脚にぴたりと添うズボンに丈長のシャツと、装いは先日のような悪ふざけもなく普通にしているものの、在るべき姿でないというだけで、有る者には有る代物もひどく不格好なものに見えた。
「女にでも化けてくれば、と言ったのはお前だったろう」
彼はそう言いながら布団を剥ぎ、仰向けに寝ているブレティラの股の真上へ跨がるように腰を下ろした。
乳房を付けた人間の形をしたものが、寝台の男の上でそうしている様は、別の場面を思わせる。
「……今お前が思ったことは、多分正解だ」
「次は何を思いついたかと思うたら」
ブレティラが呆れの溜息を吐いている間にも、ヴァイパーは次々と服を脱ぎ、床へ放ってゆく。そうして何も纏わず素っ裸になった身体は、首を付け替えたのかと思うほど見事に人間の若い女のものだった。
豊かな胸の膨らみも、それが彼に付いているという事実を除きさえすれば、色も形も良く、見るからに柔らかそうだ。
「よくできているだろう? この前食うついでに観察したんだ、中までじっくりとな。今日はこれを使って面白いことをしよう」
見せつけるように両の乳房を掴み、蛇は妖しく微笑む。
ろくでもないことを考えているときの彼は、本当に楽しそうな顔をしていた。
「俺は面白うない」
「そう言うな。お前はそうやって寝転んで、ただ勃起さえさせていればいい。あとは俺が勝手にやるさ」
「なんで、よりにもよってお前と」
ブレティラは寝間着の下を脱がせにかかるヴァイパーの手を遮り、乱暴に払い落とす。
彼は不満げに下唇を反らし、「誰のお陰で病が治ったのだ」とでも言いたげな視線を注いだ。
人間を嫌いに嫌っているはずの彼が何を血迷って人間同士の交わりを試そうという思いに至ったのか、ブレティラにも想像がつかなかった。
先日現れたときには、口付けでさえ、人間の前戯など気持ち悪いと吐き捨てたというのに。
「そうだな……」
呟かれたその言葉が、ブレティラへの同意から出たものでないことは確かだった。
上に乗ったまま何かを考え込んでいた彼は、思いついたように手を銀髪の男の前へと突き出し、握り拳を作る。
「例えばこの拳を口に捩じ込んだとしよう。無理矢理こじ開けられる痛みと息苦しさしか感じないはずだ。ところが、女という生き物は……」
手は言葉の途中で下ろされ、腰掛ける位置を少しずらして、無反応なブレティラの下腹部を撫で回した。
「捩じ込まれるものが雄に変わった途端、苦痛を快楽とすり替えて喘ぎさえする。特殊な神経構造だと思わないか?」
「お前の頭のほうがずっと特殊や。いっぺん窓から落ちてこい、ちっとはまともになるかもしれん」
一度興味を持ったことは飽きるまで突き詰める性分の魔物は、どれだけブレティラが応じようとしなくとも、引き下がる気配を見せない。
「その感覚に一番長けているのが人間の雌だそうだ。気絶するとまで言われる快楽がどんなものか、今更ながら興味が湧いてね。今回は体を真似るついでに、神経の仕様も同じようにしてみたんだ」
珍しく饒舌な彼は口元に嫌な笑みを浮かべ、萎えたままのブレティラの形を指先でなぞってはまた撫でた。
「他をあたれ」
鬱陶しいそれを払いのけようと伸ばした手は捕らえられ、爪が立てられる。
気乗りしないものには無反応を貫けるブレティラも、咄嗟の痛みに堪えられるほど鈍い体には化けていない。手の痛みにはあっさり顔を歪めたことが気にくわなかった様子で、蛇はそれまでの奉仕を止め、ブレティラの上体へ重ねるように身を伏した。
「お前なら頼まなくてももう化けているし、俺が我慢してまで本物の人間と交わる必要も無いだろう?」
わざとらしいほど柔らかな乳房が、二人の狭間で押し潰される。
蛇が下肢を跨らせた場所にじわりと染みる女の生温かさは、ブレティラにとってはこの上なく気持ち悪いものだった。
「女の堕落を誘うお前だ。俺の興味を満たすにこの上無く都合が良い」
神経も真似たというのは嘘ではないようで、ブレティラに体をあずけた蛇の呼吸は次第に乱れ、せがむように寝間着の胸元が掴まれた。
「……面白いな。女の体でお前に触れると腹の奥深くが疼く。体中に淡い痺れが広がる」
「そんなふざけた興味はシャイターンか、リルにでも持って行けや」
「リルは願い下げだな。名を聞くだけでも虫酸が走る。シャイターンなんて論外も論外、こんな遊びは嫌いだろうよ」
冷ややかに視線を送るだけの相手に堪えかねた偽女はゆっくりと体を揺らし、下股から湧き出る湿りを男の太腿に擦りつけはじめる。
妖艶な顔に恍惚とした色を浮かべ、熱っぽい吐息を漏らしながら揺れに身を委ねる同族。甘い声を駆け上がらせる様は女そのもので、ブレティラの胸に吐き気を起こさせた。
「っ……俺じゃち、嫌いじゃ!!」
胸に寄せられた濃紺の髪を掴み上げ、体を横に振ると同時、ブレティラは彼を床へ向けて投げ捨てた。
少し乱暴すぎるくらいの拒絶をしなければ彼が聞き入れることはなく、どうにかして行為に持ち込もうと、しつこく粘り続けるに違いない。
「……っ」
床に落ちたその格好はひどいものだった。
跨がっていた形のまま仰向けにされたことで脚は大きく開かれ、隠しているべき場所をさらけ出す。なのに当人は上体だけを半端に起こし、自分の無様さなど構いもせずに、思い通りにならなかった男を睨みつけている。
あらわにされた場所は人間の女そのもので、異種の異性の体を少しも違えず作り上げていることは称賛すべきかもしれないが。
それでもやはり、滑稽さが勝る。
「そうだな……肝心なことを忘れていた。お前は〝オクス〟だったよ」
やっと膝を閉じた蛇が、独り言のように吐き捨てる。
床に散らばった服の中から唯一身につけられたシャツの丈が長かったおかげで、ブレティラが一番見たくなかった部位は隠された。
「残念だ。嗚呼、実に残念だ」
掛布団を拾い上げたブレティラがベッドへ戻ると、ヴァイパーもその端に腰掛けた。
堕落に溺れていた姿が一転、何事もなかったかのように、女の気配が消え失せる。体の具合は彼の意思ひとつで、どうにでもなるらしい。
「ここに居るのがツベロサだったら、頼まなくても勝手に引き受けてくれたろうに」
彼は笑いながら、ある名を口にする。
それはブレティラにとっては笑えない話だった。
ツベロサとは、かつてこの世に居た人間の名だ。
目をつけた女は頷こうが泣き叫んで拒絶しようが構うことなく犯す、不誠実な男。飽きもせず罪悪感に苛まれることもなくただ肉欲にだけ従ったその男は死姦さえ
彼はある夜、リルという名の女に誘われ、何の疑いもなくそれと交接した。相手がサキュバスだとは気づきもせず、七日七晩幾度となく交わった末に、魂を抜かれてしまったのだという。
それは今から五百年以上前の出来事だったと、ヴァイパーは語っていた。
「ツベロサは人間の姿をした獣だった。それが今やどうだ。姿を醜い獣に変えられ、女一人犯せやしないときた」
蛇はシャツの裾に隠れた下肢に手を伸ばし、すくい上げた湿りを指先に遊ばせながら、ブレティラに向けて口の端をつり上げた。
「あの頃求めた快楽はもう得られない身にされたというのに、今度は愛だの幸福だのと理由を付けて潜り込むとは。人間の世界はそんなにも恋しいものかい? ……なあ、ツベロサ」
嫌味たらしく蔑みの眼差しを向けながら、嘲笑うような声を上げ、女の姿をしたままの彼はブレティラの瞳を真っ直ぐに見据える。
思い通りに事が運ばなかった腹癒せか、彼の口からは次々と、相手の神経を逆撫でする言葉ばかりが吐かれ続けた。
「俺はツベロサやない」
「そうだ、お前はオクスだ。人の言葉で〝去勢牛〟だなんて、シャイターンの皮肉もなかなか面白いじゃないか。役立たずの雄は付いているだけ哀れなものだ、な……っ!」
罵られ続けたブレティラはついに蛇の服を掴み、仰向けに殴りつけるようにベッドへと押しつける。
丁度喉を圧迫するように落ちた拳の下、苦しげにひゅうと息が鳴った。
「言いたいことは終わったか、クソ蛇が」
「そう、だな。大方は、言った……だろうね」
咳き込みながら答えた彼の金色の瞳に、薄く涙の膜が張られる。
か弱い女の体に化けている今なら、この蛇を殺すことも容易いかもしれない。一瞬そんな思いがよぎるほど、ブレティラの感情は高ぶっていた。
じわり、じわりと気道を狭める拳に、冷たい手が触れる。
「放せ。この体に触ればまた、さっきと同じ目に遭うぞ」
「……悪趣味が」
舌打ちの後、ブレティラはゆっくりとその手を放した。
女に化けた彼に、また女の欲を丸出しにして迫られるのは御免だ。まともな女にさえ嫌悪感が起こるというのに、同族が化けたものが相手となれば、その思いは尚更だった。
「まあ、そうなれば女を抱く練習でもしてみるかい? 何なら勃起のさせ方から教えてやろうか。なあ、オクスよ」
最後の名は呼びかけというよりも、その意味を際立たせるように音が強められた。体を寝かせたまま、また首を絞められるかもしれないと警戒する素振りもなく。
「何が悲しゅうて、お前とせないかんがな」
「顔が不満か? なら顔くらいは、あの赤い奴のものに変えて……ああ、目視で良ければ体も真似てやろうか」
誰を相手にしても有り得ないと言い切れるはずだったブレティラは、その女の顔を思い出した瞬間、不覚にも心揺らいだ。
憎みきれない態度の悪さや、つい少し前に見た心配そうな表情がちらついた後、数日前に触れ合った唇の感触が戻ったような錯覚に陥り、金色の眼から注がれる視線を避けるように顔を背ける。
息を詰まらせ気まずげに逃げるその様は、誰の目から見ても、想う人を言い当てられたときの反応だった。
「はあ。もう手遅れだったのか。まったく、何のために俺がここまでしたと……」
病で感じたものとは違う息苦しさに襲われ、ブレティラはベッドの上に体を落とす。その耳に、蛇の溜め息は届かない。
掴んだ枕の横には、今朝の看病の途中で付いたのか、赤い髪が一筋残されていた。
呼吸をすればするほど増してゆく息苦しさに、風邪よりもたちの悪い気配を感じる。
「――矛盾に気付いているかい、オクス」
ブレティラが後ろを見やると、ヴァイパーは起き上がり、シャツのよれを直しているところだった。
かち合いそうになった視線を避け、枕に顔を埋める。もう帰ってくれ、と出しかけた声は、胸のつかえに遮られ言葉にすることができなかった。
「お前は今も、以前俺やクロウに言ったように言いきれるか?」
強く爪を立てられた枕カバーが、苦しげに音を立てる。
彼らに言った言葉は、すべてオクスという魔物の本心だった。
赤い髪の人間との関わりは通達を渋々受けたことが始まりだったが、それがどんな人生を歩むのか、これまでと同じように眺めてみようと思った。彼女という個人への興味も、観察の一環だ。
そう思っているというのに、ヴァイパーの言葉で苦しさが増す。がりりと布を掻く音に、そのまま胸を抉られているようだ。
「お前は変わってしまった」
ヴァイパーは立ち上がり、床の服に手を掛ける。人間の目にはただの蛇に見えるようにしてあると言いながら、律儀に下着まで人間と同じようにしていた彼は、それらをもう一度身につけ直した。
そうしてまた同じ場所へと腰が落とされ、ベッドスプリングが軋みながら余韻に揺れる。
枕へ顔を埋めたままのブレティラには、衣擦れの音も、ベッドの揺れも、先のように関わって来られさえしなければどうでもいいものになっていた。
「お前はただの暇潰しで人間を眺めていたはずだ」
高圧的だった口調が、静かなものに変わる。
耳触りの良い質感ではあるが、ブレティラに応えようという思いは起きない。ヴァイパーもまた、返事を求めてはいなかった。
「ならばなぜ、人間と共に暮らすことを選んだ? あの男が居なくなった後も留まった?」
彼が言うように、オクスがこの暮らしを選ばなければならない理由はなかった。
生活を共にする必要もなければ、わざわざ聖職者を選んで成りすます必要もない。数年前の遺言も、言い訳にするには弱すぎる。
「お前のやり方は暇潰しとは言わない。ずっと固執して、必死に求めているじゃないか。ツベロサに代わって神に奉仕すれば、その愛だの幸福だのが与えられるとでも思ったか」
ブレティラが枕の陰から視線を上げ、蛇の側を見ると、そこにいつものような含みを持たせた笑みはなかった。
金色の眼に見据えられ、心臓を掴み込まれるような感覚に陥る。
「現実に目を向けろ。お前はもうツベロサじゃない。ましてやブレティラなんて人間でもない。俺たちと同じ生き物だ。どんなに形や振る舞いを真似たところで、お前は神の仇たるシャイターンが作った魔物なんだよ」
次々と胸を締めつける言葉を投げかけられ、滞るばかりの息苦しさをどうにかしようと、ブレティラはようやく体を起こし、その場に座った。
そうしたことで少しだけ、呼吸は楽になった。
「だが……」
語りかけ続けたヴァイパーが、その呟きを境に、表情を曇らせる。
「シャイターンはお前を、ツベロサとは逆のものとして作った。それがために今のお前が、ツベロサが持たなかった人間の心まで持ってしまったのだとすれば」
「そんなこと、あるわけがないやろう」
やっと言葉になった彼の声は、すぐ近くに座るヴァイパーにも聞こえるかどうかの小さなものだった。
「だがお前は今朝も、さっきも、あの男のことを悔いたのだろう。人間の扱いをとやかく思うなんて、お前ほど生きた魔ならばとうに起こらない感覚のはずだよ」
不意に伸ばされたヴァイパーの腕がブレティラを捕らえ、頭を胸元へ押しつけるように強く抱きしめた。
作り物の豊かな乳房は一枚の布越しに、熱と柔らかさを裸の頃と大差なく伝える。けれどこのときは、ブレティラがそれに嫌悪感を抱くことはなかった。
少なくとも今この魔物は、化けた身体の性を意識させるためにそうしているのではないと、知っていたからかもしれない。
「歪な者は危うい。もう戻って来るんだ。今ならまだ、お前は壊れてしまわずに済む」
抱きしめる腕に力が込められ、ブレティラの気道が締めつけられてゆく。
「事はもう俺ひとりでどうにかできる問題じゃない。シャイターンには俺から話そう、何も知らなかったお前に戻そう。そうすれば……」
言い聞かせるように髪を撫ではじめた冷たい手を退かせたブレティラは、間近に見えた彼の表情に目を奪われた。
その顔に初めて見る、純粋な哀れみの感情。そんな顔もできたのかと感心しつつも、ブレティラはそんな目を向けられたことが気に入らなかった。
彼は、魔とはこうあるべき、という思想が強すぎる。シャイターンが最初に作ったものというのも影響しているのかもしれないが、神の仇であり、人間とは相容れないものでなければ魔ではないとして、例外を認めたがらない。
ブレティラは神に擦り寄りたいわけでも人間と友になりたいわけでもないが、ヴァイパーの定める枠に従うだけの生き方もしたくはなかった。
「今日の用はそれか? くだらん前振りが長過ぎたが」
「はじめの目的は、そのくだらない事のほうだったんだがな。お前がここまで病んでいるとは誤算だった」
ばつが悪そうに苦笑いを浮かべたヴァイパーは、顔にかかった髪を掻き上げる。
「俺は……」
そう呟くと同時に注がれはじめた視線は、ブレティラにはひどく居心地の悪いものだった。
長々と好き勝手に告げられた言葉はどれもすんなりとは受け止め難く、挙げ句人間の心を持っているとまで言われてしまえば、戸惑いで思考も上手く働かない。今の彼に答えられることは、戻るか否か、その意思を伝えるだけだ。
「俺は、戻らん」
やっと絞り出された声は消え入りそうにか細く、決意を表すにはあまりにも弱々しい。
そんな声を出しながらも、ブレティラの瞳は真っ直ぐに蛇の眼を見つめていた。
「望めないものと知りながら掴もうとするか。愚かしい。何だその人間のような足掻きは」
「わからん。そんなことはわからん」
掴み寄せた枕は柔らかく、ブレティラの手に素直に沿う。それのように従順だったなら、彼は今もヴァイパーたちと同じ場所で暮らして、無難な魔として、得体の知れない苦しみに苛まれることなく生きていたのかもしれない。
けれど今、リコリスという人間と過ごす日々には、元居た場所では感じられなかった張り合いがある。面倒なことも勿論ありはするが、楽しいと思うことも多く、居心地が良いのだ。
「ただ、今は、ここを離れとうない」
それを聞いたヴァイパーはどこか苦しげに眉間へシワを寄せ、金色の瞳を細める。それもまた、ブレティラが目にしたことのない表情だった。
「……そう、か」
彼はゆっくりと立ち上がり、現れた場所と同じ窓辺に腰掛けた。
足を垂らした下には何もなく、少し腰を滑らせてしまえばそのまま地面に叩きつけられてしまう。けれど彼はそれに臆することなく、吹き込む風を受けながら目を閉じていた。
「ヴァイパー」
「心配しなくても、もう無理に連れ戻そうなんて考えないよ。これだけ言って聞かないんだ、壊れるなら壊れればいい」
彼は濃紺の髪を風になびかせながら、振り向くことなくそう言った。何を思っているのか、窓枠に添えられた手の、しがみつくつもりもないはずの指先に力が込められる。
「お前の……人間の心は、俺には理解できない」
もう触れたくもない、と苦々しげにこぼした後、小さく音を立てて窓枠が弾かれ、彼は呆気なく身を投げ出してしまった。
「そんなもん、俺にもわからん」
静かに答えたブレティラはベッドに膝をつき、窓に手を伸ばす。閉めるついでに眺めた下の景色には、やはり何かが落ちたような痕跡はない。
崩れ落ちるように足元へ倒れ込んだ彼の手が一筋の赤い髪を求めるも、それはいつの間にかなくなっていた。
「俺は昔も、今も…………人間やない」
掴むものを見失い、空のまま握りしめた手のひらに爪が食い込む。
傷から滲み出た血は、人のものよりずっと黒みが強かった。
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