第7話 歯形とキスマーク
リコリスがやっとの思いで雨の中の往復を終え、教会まであと少しという所まで来た頃。突然、誰かが雲の上で栓をひねったかのように雨は止み、晴れ間が差した。
川同然に流れていた通りの水が鎮まり、日の照り返しが目に刺さる。
呆気に取られて空を見上げるリコリスは、足下を泳ぎ去る蛇の存在に気づかなかった。
「はぁあ?」
教会の扉を開いてまず彼女が発した声は、高い天井にこだました。あのシスターらしき人の姿はなく、代わりに頭の天辺から足の先までずぶ濡れになった銀髪の男が居たのだ。
本堂の真ん中で突っ立つ男の足下に水溜まりができていて、彼の服や髪からはまだ、ひたりひたりと水滴が落ちている。
「何してるんだ。あの人は?」
「帰ったよ。それ追いかけたら、こうなった」
振り向いた神父は、相変わらずの気の抜けた笑みを浮かべた。あの訪問者が現れたときにあった刺々しさも、空と一緒に晴れたようだ。
ただ、彼の肌は色を失い、唇まで真っ青で、とても呑気に構えていられる状態ではない。
「こうなった、じゃないだろ! 早く!」
リコリスは大事に抱えてきたビニルバッグからタオルを掴み出し、傘はその場に投げ捨てて、彼の元へと駆け寄る。
乱暴に被せたタオルには、面倒臭げに手が掛けられた。どうでも良く撫でつけるような拭き方のせいで、銀色の髪が乱れてゆく。
「タオル一本程度でどうにかできるような濡れようやないな」
悪寒に身を震わすでもなく、ただただ、やる気のない様子。
あっという間に用をなさなくなったタオルを突き出されたリコリスは、溜め息混じりに彼を睨みつけた。
「なら帰って何とかしたらいいだろ」
「ほんなら一緒に帰ろうか」
「そんなことしたら、ここが困る」
「お前も下はだいぶ濡れちゅうやろ。あと一時間や言うても、そのままおったら風邪ひくぞ」
スカートを指さされ、リコリスはやっと自分の状態へと意識を向けた。
言われてみれば、濡れたタイツにびったりとスカートの裾が張りついている。予想していなかった神父の姿のおかげですっかり頭になかったが、肌の感覚を意識した瞬間、それはひどく不快なものになった。
「着替えはある。持ってきたのが」
「そりゃ俺じゃち置いちゃあるわ。お前がおるがやったら、俺も帰らん」
「潰れられたら私が困……ああ、はいはい。もう。帰ったらいいんだろ」
受け取ったタオルをビニル袋に突っ込んだリコリスは、それをブレティラに押しつけて、外へと追い出した。濡れた床を掃除してから帰ろうにも、ぼたぼたと水を落とし続ける人が居ては終わりが来ない。
先に帰ってしまえばいいものを、ブレティラは開け放った扉の横に立ったまま、彼女が掃除を終えるまで待ち続けていた。
「とりあえず風呂だ、風呂」
そうして帰り着いた家の玄関扉が閉まりきるより先、リコリスは浴室へと駆け込んだ。
間に合わせ程度に洗った浴槽に湯が張られはじめると、ブレティラは早々と法服を脱ぎ、裏返ってぐちゃぐちゃになったままのそれを洗濯カゴに突っ込む。リコリスが居ることにも構わず下着一枚になった無神経な男は、へらりと笑みを浮かべた。
「一緒に入ろか」
リコリスが一緒に帰宅するという希望を叶えてやれば、調子に乗ってそんな馬鹿げたことまで言いはじめる。それも彼女が頷くはずがないとわかった上でのことで、からかって遊んでいるだけなのだが。
「何才児だよ」
「えーと、五百二十ちょっとやったかな。いちいち数えるも面倒臭いき覚えちゃあせん」
すかした浴室の扉から湯の溜まり具合を覗き見ながら、彼は妙なことを口にした。
「は?」
「まあ、冗談やけど。お前も早いとこ入らんと風邪……」
「お前よりはずっとマシだ。こんなもん、着替えたら済む」
そう答えたリコリスは平然とその場で脱ぎはじめ、ワンピースとタイツをカゴに突っ込んだ。
相手は何の害もないとわかっている男。キャミソールとペチコート姿になる程度であれば、恥じらいは別段感じなかった。段々と気温が高くなってきた最近の風呂上がりは似たような薄着で過ごすこともあるし、それと何ら変わりはないのだ。
ブレティラも彼女がそんな人だということは承知していて、極端に言えば突然変異で乳房が付いてしまった男を見ているような感覚で接している。
たとえ下着姿であろうと豊かな胸の谷間が見えようと、彼女を女性として意識することはない。
神の悪戯。
不思議だらけのリコリスには、馬鹿げているはずのそんな言葉が似合っていた。魔物の影響から逃れるには、それくらいのことでも起きていなければ説明がつかないのだ。
「何見てんだよ」
「でかい乳やなぁと思うて」
「風邪ひいて死ね」
「俺が潰れたら困るって言いよったに」
困ったように笑いながらも楽しげな彼は、ぐしゃぐしゃのまま放っていた後ろ髪の結びをほどき、浴室へと入って行った。
リコリスはその後ろ姿に向けて溜め息を吐き、二階へと向かう。早く着替えて、布団を準備しなければならなかった。今使っている薄手の肌掛けだけで寝かせてしまえば、確実に風邪をひかせてしまう。
階段を上がり終えた彼女は着替えを後回しにして、廊下の奥にある共同のクローゼットから毛布を引っ張り出した。
まだ出番を迎えるには随分早いそれは、心なしか防虫剤臭い。本当なら少し干して風に当てたほうがいいのだが、そんな時間はない。
「まあ……いいか」
リコリスが畳んだままの毛布をベッドへ置き、自室へ着替えに戻ろうとしたところへ、風呂上がりの彼が入ってきた。
「早かったな」
「なかなか溜まらんかったき、斜めにはまり込んで浸かってみた」
「溜まるまで待てよ」
ばさばさと雑に拭かれる髪は、彼の手が動くたび大袈裟に跳ねる。
「ん? そのアザどうし……」
ブレティラの首筋に妙な痕を見つけ、それが何なのか察するより先、リコリスは思わず声をかけていた。
一呼吸置いていれば、何も見なかった振りをしただろうに。
「ああ、これ? 聞きたい?」
「……いや、いい」
それはどう見ても口付けの痕だった。
真新しいそれの贈り主は、シスターらしきあの女で間違いない。そしてブレティラも、とくに抵抗することなく受け入れたようだ。
複雑な思いを抱いたリコリスが視線を逸らすと、彼はわざわざ前にまで回り込んで、長い銀の後ろ髪を掴んだ。
「よう見てみい? いきなり抱きついてきたと思うたらコレやもん、たまったもんやない」
一体どういうつもりだ、と文句を言ってやるつもりでその横顔を睨んだ彼女の視界に、妙なものがちらつく。
「……何だよ、これ」
「面白い歯形やろ。なかなか見れるもんやない」
鬱血痕を囲むように楕円を描くのは、いくつもの点。
歯形というのが本当なら、あの女の歯はすべて尖っていたということになるのだが、人間でそれは有り得ない。
「あれ、何だったんだ?」
「説明に困るけど……とりあえず、ヒトではなかったな」
さらりと答えたブレティラは、何事もなかったかのようにまた髪を拭きはじめる。
リコリスの視線は、彼の後ろ髪が跳ね上げられるたび見えるその痕に釘付けだった。
「いつから知ってた」
「あれが入ってくる前から」
「なんで私に何も言わなかった」
「お前が突っ走って、妙なことしでかさんように」
つまりそれは、足手まとい扱いされたということかと、リコリスの中に苛立ちが起こる。知っていればそれなりに対処もできたのに、と口にしかけた彼女は、そうなっていた場合の自分の行動を考え、言葉を飲み込んだ。
「嘘。あれがお前に、何もせんように。知っちょったら絶対出て行かんかったやろ。危ないやないか」
ブレティラがあのとき最後に言った言葉には、あからさまに「早く出て行け」と含まされていた。女は嫌いだと言いながら、その女とは二人きりになりたいのかと、彼女は着替えを取りに帰る道々嫌な気分で仕方なかったのだが。
頭上に手をかざされたリコリスが反射的に俯くと、その手は優しく、彼女の頭を撫でた。
「うちのお手伝いさんに何かあったら、俺が困るしな」
ブレティラは時折、彼女を指して「お手伝いさん」と言う。初めて会った日に、女扱いされることを拒んだ彼女が言った言葉だ。
リコリスが顔を上げると、優しい手と声色に似合わない、気の抜けきった笑顔があった。
「あれも何もせんまま帰ったし、まあ良かった良かった」
「お前、そんな傷付けられただろ」
「俺やのうて、お前にや」
抵抗されないのを良いことにブレティラが頭を撫で続けると、彼女はむすっとしながらその手を払いのけた。
「むちゃくちゃだ。自分に何かあったらどうする気だ」
「俺は大丈夫やけど」
自分だけを危険な目に遭わせたブレティラに納得しきれないリコリスは、膨れ顔に複雑な色を混じらせる。
いつもは喧嘩腰に言い飛ばしてしまうというのに、このときばかりは本気で心配しているようで、珍しく大人しい。
そんな彼女の様子は、ブレティラの悪戯心を掻き立てた。
「ほんなら、こうしようか」
「っ、……」
力任せに肩を掴み寄せられ、リコリスは声もなく体を強張らせる。すぐ目の前、これまであったどんな場面よりも間近に迫ったブレティラの顔に、息さえ忘れた。
意味ありげに笑みを浮かべて見せた男の吐息が、赤い髪の垂れた首筋に触れる。
緊張のあまり、肌にちりりと起こる痛みも理解できないほど、リコリスの頭の中は真っ白になってしまっていた。
「──これでお揃いや。お互いしばらく髪は括れんなぁ」
離れてもまだ硬直したままのリコリスの前で、彼は手をひらひらと振って見せる。
「おーい。戻ってこい」
「っ、さ……触るな!!」
その手は、やっと動きを取り戻した彼女に力一杯叩き落とされた。
リコリスの指先がゆっくりと、口付けられたばかりの首筋に触れる。有り得ない体験を反芻した彼女の脚は力を失い、崩れ落ちるように床にへたり込んだ。
「……リコリス?」
予想外の大袈裟すぎる反応に驚いたブレティラも、彼女を追って床へ膝をついた。
ぐっと口をつぐんだ彼女は眉を寄せ、その目には涙まで浮かべている。唇を奪ったわけでもないのに、予想外の
「最低だ。お前なんか……お前なんか、本当に風邪で死ねばいい」
「残念やな、俺は風邪なんかひいたことがない」
「なら初めてひいて死……っ、くしゅ」
言葉の途中でくしゃみをしたリコリスの目から、涙がこぼれ落ちた。
「しっくしゅん?」
「うるさい」
頬を伝い下りる涙を叩くように拭き取り、くん、と唇を上げて鼻をすする彼女の仕草には、その直前に見せた恥じらいのようなものは感じられない。
先の表情とはまったく別物の、むすっとした顔を向けられ、ブレティラは思わず笑いを漏らした。
「そんな格好でおったしや。なんで先に着替えなんだ」
リコリスの装いは脱衣所を出たときとまったく同じ。ペチコートは乾きかけているものの、肌は晒しっぱなしだ。
やれ拭けだの温まれだのと言っておきながら、たった一枚、上着を羽織ることすらしていない。
そして視線は当たり前のことのように、ベッドに置かれた毛布へと向けられる。
「布団が先だ。寝込まれたら困るし」
「こんな格好で男の部屋入って、せっせと布団の用意なんかして……相手が俺やなかったら大変なことになっちゅうぞ」
「お前やっぱり最低だな」
普段通りに言葉を返した直後、リコリスはつい少し前の出来事を思い出し、息を呑んだ。
抱き寄せられて感じた湯上がりの体温は冷えた肌に心地良く、洗いたての髪の香りがまだ鼻先から離れない。少し思い出すだけで鼓動は速くなり、耳を赤くさせる。
ブレティラは灰紫色の目を静かに細めた。
彼にとって初めての、嫌悪感を覚えない女。その柔肌に口付け、初心な反応を見せられても、未だ吐き気は起こらない。
彼女が崩れるのが先か、それとも自身が限界を迎えるのが先か。試してみたいと、また悪戯心が起こる。
「ほんなら最低ついでに。大事な大事なお手伝いさんが風邪ひかんように、おまじないしちょこう」
もう一度間近に迫った彼の顔にリコリスが反応するよりも先、唇が重なった。
「……っ」
悲鳴になれなかった、喉の奥の呻き。それを聞いてもまだ、ブレティラの中に抵抗心は起こらない。
もう少し試してみようかと彼が唇を舐めたとき、リコリスはようやく声を絞り出した。
「ん、ブレ……っ」
どうにか硬直を解いた彼女は、ブレティラの肩を押し戻すことにすべての力を注いだ。
そうして、戸惑いと恥じらいが入り交じった複雑な色の瞳で、破廉恥な男をこれでもかと睨みつけた。
「おかえり。ごちそうさま」
「っ、……!!」
口角のすぐ下にあるホクロを突っついて笑んだブレティラの頬で、手のひらがぶつかる大きな音が弾ける。
感情の高ぶりを隠せず息を荒げるリコリスの瞳は、また、涙で潤っていた。
「はよう風呂入って、ちゃんと着替え。ほんまに手出しても知らんぞ」
笑顔のまま、いつも通りの口調でさらりと。
手形がつくほど力一杯に打たれても、彼が表情を崩すことはなかった。
「立てる?」
「馬鹿にするな」
リコリスは目の前に伸ばされた手を払いのけることもせず、彼の部屋を後にした。
「うーん。ちょっと、やりすぎた……かな」
呟いたブレティラはチェストから服を出しながら、じんじんと痛む頬に触れ、その指先を唇へと滑らせる。
あれの性別は間違いなく女だというのに、やはり忌避感は起こらず、むしろもっと触れてみようかとさえ思った。つい少し前に交わした蛇とのほうが、よっぽど嫌な後味だ。
ただ、彼女には涙ぐんで引っ叩くほど拒絶されたのだから、今日はもう口を利いてもらえないと覚悟しておいたほうがいいだろう。
「……さて」
いつもの部屋着に薄手のカーディガンを一枚羽織ったブレティラは、夕食の支度のため一階へと下りて行った。
一方リコリスは、自室の扉を閉じてすぐの場所でへたり込んだまま、彼が階段を下りる音をぼんやりと聞いていた。
雨に濡れた脚は時間が経つごとに冷たくなるというのに、胸の奥は彼に触れられるたびに熱さを増した。そしてそれは、部屋へ逃げ込んでもまだ尾を引いている。
「なんで、あんなことできるんだ」
女は嫌いなんだろう、と心の中で続けた彼女は、その声なき問いに胸を締め付けられた。
そしてその息苦しさの意味に気づいてしまった。
「……なんでだよ。ああ、もう」
ここで暮らす上での最大の条件は、彼を好きにならないことだ。ただ仕事上のパートナーとして、彼の〝虫除け〟として居ることがリコリスに求められた役割で、彼女もそれは承知していたはずだった。
彼からの悪戯で息が止まりそうになるとき。「おかえり」がむず痒くなりはじめたとき。呆れながら世話を焼くのが嫌でもないと感じたとき。
変化はとうに起きていたというのに、口付けを交わすまで、それが異性への意識だと気づけなかった。
触れ合った記憶は、どれだけきつく唇を噛み締めても消えない。
一度自覚した感情は、押し込めようとするほど深く根を張って、もう摘み取れなかった。
それからというもの、リコリスは必要最低限の言葉しか交わそうとせず、視線もろくに合わせない日々を送った。
家事は決められた当番通りにこなし、食事は彼の分だけテーブルに並べて、自室へと引きこもる。仕事の場でも、人目がないところでは家と同じような状態だった。
首筋に付けられた痕が日に日に薄くなるのに反して、彼女の胸の内は日を追うごとに曇りを増し、想いを秘めたまま留まっている自分のことは棚上げして、それを気づかせた彼が悪かったのだと苛立ちをつのらせた。
ブレティラの側は、日々の行動もすべて彼女がしている形を受け入れ、避けられるままの状態を自ら変えようとはしなかった。
絵に描いたような聖人の対応をそれらしく演じてきた彼にとって、人をここまで怒らせたのは初めての経験だった。
以前この場所で生活を共にした人は、今の彼が演じているような人間を地でいく男で、その人は彼を戒めこそすれ、怒りの感情を向けてくることなど一度もなかったのだ。
ヒトの心を知らない彼は、へそを曲げてしまった彼女にどう接すればいいのかもわからず、ただ時の流れに任せることしかできなかった。
そうして数日経ったある日のこと。
リコリスが二人分の朝食を作り自室で食べる用意を済ませた頃になっても、ブレティラが部屋から出てくることはなかった。
朝食ができる頃にはいつも必ず下りてきて、寝ぼけ眼ででもコーヒーを啜っているはずで、二人の関係がおかしくなったこの数日間もそれは変わらなかったというのに。
少しだけ気になりはしたものの、声をかけるにも気が引け、もし家を出る寸前まで起きてこないようならば叩き起こしてやればいいと、そのままにしていた。
そうして自室での食事を終えたリコリスが立ち上がった丁度そのとき。
どん、と境の壁を叩くような音が響いた後、向こう側で何か大きなものが床に落ちたような、鈍い音が聞こえた。
「…………?」
音がしたのはブレティラの部屋で間違いない。
共に過ごした四ヶ月と少しの間、彼がそんな物音を立てたことは一度たりともなかった。むしろ本当にそこに居るのかと疑ってしまうほど、静かに過ごす人のはずだ。
何事かと隣室の扉を開けたリコリスの目に、床に突っ伏したまま手探りで支えを求めている彼の姿が飛び込んだ。
「……何してんだよ」
「ん? ああ、おはよう」
ここ数日、リコリスの側から彼に言葉をかけることはなかったのだが。
彼女が反射的にかけてしまったその言葉には、これまでと何も変わらない関係が続いているような、ごく普通の返事があった。
「丁度よかった。すまんけど、立たしてくれん? ……触りとうなかったら、かまんけど」
顔だけを上げた人は申し訳なさげに笑い、最後に一言付け足した。その声は弱々しく、普段の彼のものとは違っている。
ベッドとチェストひとつしか置いていない簡素な部屋だったことが幸いして、どこかの角で頭を打つような怪我はしていないようだが、何か様子がおかしい。
自力で立ち上がれないらしいものを見捨てるわけにもいかず、リコリスは仕方なく手を差し出した。
「っ、……」
引き上げた体にはほとんど力がなく、抱きつくとまではいかないものの、そのまま寄り掛かるように体重があずけられる。
嫌悪からではないものの、その瞬間、彼女の心はブレティラを拒絶した。
「そんな警戒せんでも、何もせんよ」
向き合わせにぴったりと体を合わせているせいで、静かに言われたはずのその言葉が接している部位に直接響き、浅いはずの呼吸の音まではっきりと感じてしまう。
戸惑いと緊張で、リコリスの周りの温度が一気に上がる。けれど触れ合った場所から伝わる彼の体温は、それよりもずっと熱かった。
いつも飄々として何でも受け流すブレティラが、この程度で緊張するはずがない。
そもそもなぜ倒れていたのかを考えれば、高い体温の理由がそんなものでないことは明らかだ。
「お前、まさか」
寄りかかる肩を起こし、額にあてた手には、案の定、灼けるような熱さが伝わった。
「あー……もしかして、熱でもある?」
「ないって言ったらどうする気だ」
「仕事行く」
その事態は、リコリスの胸でくすぶっていた色々な思いを一気に霞ませた。
体調を崩して倒れまでした彼にあたるほど、彼女も子供ではない。
ベッドまで運ぶためにと体へ回された彼女の腕の優しさに、ブレティラは一瞬身を委ねることをためらったが、当の彼女はそんなことなど構いもせず彼の片腕を肩に担ぎ、半ば引きずるように足を進める。
「そんな真面目だったか」
「失礼な奴や。真面目にやる気がなかったら、とうに逃げちゅうわ」
体を横たえながらの、不満げな呟き。
その割には、不真面目さが目立つが。とすぐそこまで出かかった言葉を飲み下し、リコリスはそっと彼に布団を掛けてやる。
いつも呑気に笑って見せるブレティラの顔はそうする余裕もなくぼんやりとして、力無く落ちかけたまぶたの奥、灰紫色の瞳も綺麗さを欠いている。
「なんで倒れるまで言わないんだ」
寝かせた後は食べるものの用意をしに行こうと決めていたリコリスの口から、胸に起こった言葉が漏れ出た。
「俺が潰れたら困るって言いよったし」
「だからって、無理しろとは言ってない」
極端すぎる彼の感覚に呆れ、リコリスは大きく溜め息を吐く。
「……なんで苦しいか、わからんかった」
どれだけ鈍いのだ、と返しかけた彼女は、ふと、彼が風邪をひいたことがないと言っていたことを思い出した。
本人が経験したことのないものをそうだと判断するには、他の誰かの気づきが必要だ。倒れてしまうまで堪えるには相当な努力をしていたに違いない。
こうなるまで異変に気づけなかったことを悔いたリコリスの指は、無意識に、彼の額にかかる銀色に触れていた。
「お前に避けられて、それで苦しいがやろうと思いよった」
「……ただの風邪」
弱々しく布団の中から伸びた彼の手が指に触れても、リコリスがそれを拒むことはなかった。
「風邪って、病気やな」
「何言ってんだよ」
うわごとを言うような声で当然のことを尋ねる彼に溜め息をひとつ、リコリスは彼の次の言葉を待つ。
「病気って、結構しんどいもんやな」
「いや、大丈夫か? もしかしたら風邪なんかじゃないのかも──」
「体が熱い、けど寒い。頭が痛い。喉が痛い。体中の色んなとこが痛い」
「完全に風邪だな」
咳や鼻水はないものの、ブレティラが挙げたものは風邪の諸症状を網羅していて、医者でないリコリスでもそう判断することは容易だった。
悪寒もひどいようで、重ねられた手が微かに震えている。
「風邪は、病気の中でも軽いもんやろう?」
その病がどんなものなのかを知ろうとする様子は無知な子供のようで、とても二十数年生きてきた人とは思えない。
リコリスが何も言わず頷くと、彼は天井を見つめながら、苦しげに息を吐いた。
「軽いもんでも、こんなに辛いか。ほんならあいつは、もっと辛かったがやろうな」
「……あいつ?」
ブレティラは静かに目を閉じ、思いふけるように一呼吸置いて、リコリスへと視線を送る。
手を重ねたまま見つめ合うことに気まずさを感じた彼女は、そっと、彼の額に触れていた手を下ろした。
「ここに前おった神父。もう誰かから聞いちゅうやろ」
皆が口を揃えて素晴らしい人だったと褒め称える前任者。リコリスは、子供たちだけが話した、その人の病の話を思い出した。
「人のことばっかり考えて、自分のことらぁ放ったらかしでな。そりゃあ他人からしたら、優しい、えい奴やったろうけんど」
町の人々がその人となりを彼女にどう話しているか知っているブレティラは、その人の優しさだけ際立たせて伝えられていることを良く思っていないらしい。
語る彼の顔は、悲しい色を浮かべていた。
「知らん間に病気になっちょって、わかったときにはもう死ぬがを待つしかのうてな。それでもまだ、人のことばっかり考えて……見ゆうこっちが心配になるばあ、自分を大事にせん男やった」
はあ、と大きく息を吐いたブレティラは、目元を覆い隠すように手のひらを置く。
「これよりもっとか……それやにあんなに、笑いよったがか」
その姿が泣いているように見えたリコリスは、視線を外し、そっと立ち上がった。
体力の落ちた彼にこれ以上話を続けさせては、負担になるだけだ。
「お粥くらいなら食べられるか?」
「ああ、うん……多分」
彼は顔に手を乗せたまま、口元にだけ笑みを作った。
「食べたら、先生に来てもらおう」
リコリスがそう言葉をかけると、彼は慌てたように手を下ろし、重い体を起こしてまで、立ち去ろうとする彼女に声をかける。
「っいや、医者はかまん」
「馬鹿言うな、早く治ってもらわないと私が困る」
「けんど」
「潰れたら困るって言ったこと気にしてたんなら、ちゃんと診てもらえ」
返す言葉を失い、それでも医者の診察を拒みたいブレティラは、どうにかしてそれから逃れる方法はないかと目を泳がせる。
彼の思いを察したリコリスは床にしゃがんで、戸惑うその顔を睨みつけた。
「羽交い締めにしてでも診せるからな。医者が嫌とか、本当に何才児だよ。大人だろ、男だろ」
彼は一瞬驚いたように目を見開き、ここ数日自分を避け続けていたことが嘘のような彼女の振る舞いに、つい、場に合わない笑みを返してしまった。
鼻で力強く息を吐いたリコリスは、へなりと笑う人の肩を掴んで布団へと押し戻し、念押しのように睨みをきかせてもう一度、強く息を吐いた。
「リコリス」
扉を閉めきる寸前にかけられたその声には、ノブを回す手を止め、少しの隙間を残して返事に代える。
「ありがとう。楽になれた」
柔らかなその声は、彼女の胸から指先までじんわりと、淡い痺れのようなものを響き渡らせた。
閉じたばかりの扉に背を預けたリコリスは、彼に聞こえても構わない言葉で、自分の中にくすぶるわずかな期待を打ち消す。
「気のせいだ。そんなの……」
ブレティラという男は、だめな人のように振る舞いながらも、根は素直で誰にでも優しいのだ。本人は何もかも模倣だと言うが、ただの真似事でなせるものではない。
ただ、その優しさは〝特別〟を持たない。ましてや女相手になど、あるはずもないのだ。
「……あるわけないだろ」
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