第9話 慕情

 寝間着に付けられた嫌な染みの存在をすっかり忘れたまま、危うく眠ってしまうところだったブレティラは、それを思い出した瞬間、悪寒に襲われた。

 下着に至るまですべて新しいものに着替え、汚されたズボンだけは別に摘んで、洗濯場へと急ぐ。


「くそっ、ヴァイパーの奴……」


 洗面台に張った水で入念に下洗いはしたものの、他と一緒に洗うのはどうにも気分が悪く、洗濯機にはズボン一枚だけを放り込んだ。倍の量の洗剤を入れて回しはじめた後で、いっそ捨ててしまえばよかったかと小さな後悔をしながら、キッチンへと向かう。

 時刻は十二時半。リコリスの性格からして、昼の休みを使って様子を見に帰って来るに違いない。

 朝は散々足止めした上に、一人きりで過ごさせて、彼女には苦労をかけた。せめて昼くらいは落ち着いて過ごさせてやりたいと思う彼の心は、ヴァイパーが指摘したように、魔物の基準とは少しずれているのかもしれない。


 バターで炒めた玉葱に小麦粉をからめながら、彼はふと、まだこの世界に入り込んだばかりで人間の食事に馴染めなかった頃を思い出した。

 どうにか口にできるものが流動食の類ばかりで、その頃一緒に居た男はあれこれと手を尽くしてくれた。それが今ではすっかり慣れて、食べるだけでなく、色々と作るようにもなった。はじめの頃は当番の日を面倒臭いと思っていたのだが、同居人が美味しそうに食べてくれる姿を見るうちに、あまり煩わしいとも感じなくなっているのだ。

 牛乳を注いだ鍋をかき混ぜる彼の脳裏に、ヴァイパーが残した最後の言葉が浮かぶ。お前の、と言いかけてわざわざ「ヒトの」と改められたそれは、しばらく耳から離れそうにない。


「人間の心……か」


 どちらともつかない半端な生き物だと知らされ、帰る場所を失ってしまった気分だった。元々そこは彼にとってさほど愛着がある場所というわけでもなく、だからこそ簡単に離れ、人間の世界に棲みつくこともできたのだが、いざ失いかけてみると少し恋しいかもしれない。

 そうして味を調えた鍋の中身にとろみが付きはじめた頃、見計らっていたのかと思うほどタイミング良く、玄関の鍵を開ける音がした。


「おかえり」

「ただい……ま」


 一人きりでの仕事に相当参ったのか、リコリスあからさまに疲れた様子で、大きな溜息を吐きながら扉を閉める。それでも鼻だけは食事の匂いに敏感なようで、吐き出したばかりの息をすぐに吸い戻した。


「はあ、お腹すい……ーっじゃないだろ! 寝てろって言ったのに!!」


 漂う香りを胸一杯に吸い込んで幸せそうな顔をしたのも一瞬のこと、鍋を煮込んでいる人物を見るとすぐ、リコリスはとんでもないものに出くわしたような形相で声を荒げた。


「熱下がったし、治ったがやろ」

「そんなわけないだろ! また倒れたらどうするんだ、さっさと上がれ!!」


 必死なほどに気にかけられ、ブレティラも悪い気はしなかったが、怒鳴るのは勘弁してほしかった。大声をぶつけられた耳が痛み、折角治まっていた頭痛が戻ったような感覚に陥る。

 そして何より、そうしている彼女の顔が怖い。まるで聞き分けの悪い子供を叱る母親だ。


「大丈夫やって。ほら」


 彼が前髪を上げ背を屈めると、リコリスは不満一杯の顔のままカウンター越しに手を伸ばす。自分の額と触り比べ、とりあえず熱がないということだけは納得した様子で、小さく溜息が吐かれた。

 まだ何か言いたげにブレティラの顔を見上げていた視線が腕をたどり、鍋の中身をかき混ぜる手元に下ろされる。そしてワンピースの内側で、虫がぐうと声を上げた。


「パスタとグラタン、どっちがえい?」

「グラタン」

「もうちっと待っちょって、煮込みが足りん」


 彼の言葉を聞いているのかいないのか、手を洗ったリコリスはせっせと器の準備をはじめる。食器棚から取り出されたそれは軽く三人前は入ってしまいそうな大きさだ。

 もう少しで仕上がるというとき、洗濯室からブザー音が聞こえた。


「洗濯? 今日は私だろ、寝もしないで何やってるんだよ」

「あ、触らんでえい。俺がやる」


 言っていることも聞かず、リコリスは足早にそこへ入ってしまう。

 慌ててコンロの火を止めたブレティラが後を追うもすでに手遅れで、不自然に一枚だけ洗い終えた寝間着がパンッと音を立てて広げられた。脱衣カゴの中に残されたままの他のものを眺めた視線が、不思議そうにブレティラへと向けられる。


「なんで、これだけ?」

「えーと……何やっけ。ああ、夢精した」

「……へぇ」


 一瞬固まった後、とんでもなく汚いものを触ってしまったと言いたげに、手にしていたそれが洗濯機の中へ放り戻された。


「いや、冗談やし。それやったらパンツ洗うやろ普通」

「べつに、何でもいいけど」


 これから食事だというのに、ブレティラの脳裏にはあの嫌な光景がよみがえる。早く干してしまうつもりだったそれに触れる気も失せ、彼はその中を見ることなくふたを閉じた。

 やっぱり捨ててしまおう、と吐き気を堪える彼に、リコリスの鋭い視線が注がれる。


「そんな睨まんだちえいやないか」

「黙って洗ってればいいだろ」

「聞いたがはそっちや」


 彼女は不機嫌な溜め息でそれに応え、鍋を煮込みに戻って行った。

 そうして、出来上がったホワイトソースが器にたっぷりと注がれる。二回掬えば一人前の皿は一杯になるだろうに、リコリスが用意したものには薄く広がるだけで全く足りていない。

 手を付けられないよりはずっと良いが、これは間違いなく食べ過ぎだ。ブレティラがそんな思いで眺めているなど気づきもせず、彼女は鼻歌まで歌いながら、コンロ下のオーブンへと器を入れた。


「なあ」

「ん?」

「まだ具合悪いだろ」


 しゃがみ込み、オーブンの中が赤く変わってゆく様子に目を向けたまま、リコリスは眉をしかめて呟く。


「じゃき、もう熱は下がったって」

「熱じゃない。けどなんか変だ」


 具合が悪いわけではない、けれど彼の気分はけして晴れていないと、察する何かがあったのだろう。その理由を問われても、ブレティラは自分が実は何者で、少し前に仲間から何を告げられたかなど、話せるはずもないのだが。

 リコリスの目はあまりにも真っ直ぐで、彼の胸は蛇の眼に見つめられたときとは違う息苦しさを感じた。


「それやったら元気になるように、ひとつだけお願い」

「何だよ」


 ブレティラが同じように隣へ腰を下ろすと、リコリスは目だけでそれをちらりと見、軽く一歩横へ離れる。


「ぎゅって、してえい?」

「……断る」


 へらりと向けた笑顔は見られることなく、関わりを避けるようにオーブンの中ばかりが見つめられた。

 真っ赤に染まったそこは器の中身に焼き色を付けながら、外で眺める二人の顔にまで熱を伝える。けれどブレティラにはその熱さよりも、隣から感じる温もりを強く感じていた。

 彼女の隣は不思議と居心地が良く、あたたかい。あと少しだけ、もう少しだけ近づいて触れてみたいと、悪戯心とは違う願望がブレティラの中に湧き起こる。


「なんか、ぎゅーってしたら癒されそうな気がする」

「私は何だ」

「そうそう、そうやって口は全然可愛らしゅうないけど…………」


 つんと唇を尖らせて不機嫌そうにするリコリスに笑みを向けながら、彼は何となく感じていた居心地の良さの理由に気づき、そして言葉を失った。

 まず有り得ないという思い込みを取っ払って、それが彼女への特別な好意からだと仮定したとき、ヴァイパーの言葉に感じた胸の熱さや戸惑いにまですべて説明がついたのだ。

 その感情の名前に気づかないまま居たほうが、彼にとっては良かったのかもしれない。


「……ああ、そうか。それで」


 ぽつりと呟いた彼の脳裏に、今ならまだ間に合う、今なら壊れてしまわずに済むと言った蛇の声がこだまする。少し前には理解できなかったそれらの言葉は、リコリスに寄せる感情を意識した途端、急に重くのし掛かりはじめた。

 涙腺が緩んでゆくのを隠そうと、ブレティラは隣にある肩を引き寄せ顔を埋める。


「うわっ、放せ! 放せ、こら!!」


 リコリスの大暴れにも構わず、回した腕は強く彼女を捕らえて放さなかった。

 どれだけブレティラが力を込めて抱きしめても、彼女の体温を感じれば感じるほど、手の届くはずもないものだという悲しみが胸を満たす。留めきれなかった感情が瞳から溢れ、頬を伝い下りた。


「いい加減に……っ」


 彼の腕が緩んだ一瞬の隙に、リコリスは寄りかかる肩を掴み、無理矢理に引き剥がした。

 乱暴に振り解かれながらも、腕はまだ彼女を抱き寄せようと未練がましく伸ばされる。顔だけは見られまいと俯いたブレティラの不自然な動きは、逆に彼女の目をひいてしまった。


「なんで泣いてるんだよ」


 肩を掴んでいたリコリスの手から力が抜かれ、突き戻されることのなくなった彼の体はまたそこへと寄りかかる。頭をあずけたブレティラが額を擦り寄せても、不意の泣き顔に驚く彼女が二度目の抵抗を見せることはなかった。


「なんちゃない。しばらく独りで寂しかっただけや」

「……はあ。何才児だよ、ほんと」


 あやすように髪が撫でられる心地良さを感じながら、ブレティラはゆっくりと目を閉じた。

 もしも存在が心と同じものだったなら、もう少し楽に受け止められる感情だったのかもしれない。せめて心が存在と同じものだったなら、不可能で当然なのだと諦めもついたかもしれない。そう、何度も胸の中で繰り返しながら。


「なんでかな。なんで俺……」

「ほんとだよ。こっちはいい迷惑だ」

「そうやな、うん」


 互いの胸に慕情を隠したまま、オーブンが焼き上がりを伝えるまで、二人はそこに座っていた。

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mortal 村崎いなだ @inatoki

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