金の髪に願いを込め 2


 玄関の扉を開けて中に入ると、玄関ホールの脇に潜んでいたらしい人物に首を羽交い締めにされた。そのまま頭頂に拳をぐりぐりとねじ込まれる。

 こんなことをしてくる人間など、家族の中でも一人しかいない。

 テレーズは抵抗して腕を外そうとしたが、残念ながら力は相手が勝っており、今まで成功した試しがなかった。

「アル、やめてくれよ」

 仕方なく、いつも通り懇願すると、相手はテレーズの耳許で呵々と笑った。

「いやー! 今日は可愛い弟の入学式だったと聞いてな! 何か祝いをしてやろうと思ったのさ!」

「これが何の祝いだよ!」

 テレーズが怒鳴ると、アルベールは笑いながら腕を外した。


 彼はテレーズの三番目の兄である。

 メールソーは男ばかりの五人兄弟だった。

 テレーズとは十八歳年の離れる長兄のラウールは、既に父からメールソー子爵家の家督と家業のメールソー商会の社長を継いでいる。彼には前妻との間にもうけた子供もいるが、現在は二十年来のつきあいであったリオンヌ伯爵家の次男オリヴィエと再婚していた。オリヴィエはメールソー商会の副社長でもある。


 次男のギュスターヴと三男のアルベールは、陸軍航空士官学校から陸軍航空隊のパイロットとなり、先年の隣国との戦争時にもめざましい活躍をしたが、現在は二人とも軍を退役していた。

 退役後は両人ともに、本業をラウールに継がせた後、航空機製造のメールソー・オリオール社と同じく、父が出資をして設立した郵便航空会社、M&M郵便航空社に入社した。二人とも当初はパイロットとして雇用されたのだが、ギュスターヴは既に飛行機を降り、今は同社のヴィレドコーリの支配人職になっている。だが、アルベールは未だ現役のパイロットとして空を飛んでいた。


 続く四男のニコラは、次男三男とは異なり、陸軍士官学校に進んだ。

 現在は陸軍士官としてルクウンジュ南東国境のアルランス基地に赴任中で、ヴィレドコーリを遠く離れている。

 九歳離れとはいえ、テレーズは兄弟の中で最も年の近いニコラと一番仲が良かった。正式に航空工学研究室に所属が決定したことも、ニコラには手紙を送っていち早く知らせている。ニコラからも大学進学と希望の研究室に所属することが出来た祝いが届けられていた。


 アルベールの腕から解放されて、大きく息をつく。

 いつものようにアルベールはそんなテレーズを見てにやにやと笑っていた。

「……おかえりなさい。今日の帰りだったんだ」

「おう。午前中に帰ってきて、一休みして今起きたところだ」

「お疲れ様。で?」

「おいおい、だから祝いっだって言ってるだろう!」

 アルベールは自室に行こうと階段を上り始めたテレーズの横に来ると、こちらの肩に腕を回し、耳許に口を近づけてきた。

「夕食の後、ボンヴィーデに行こうぜ」

「……祝いって言うくらいなら、当然奢りだよな?」

「もちろんだ。おまえが一緒だともてるしな」

「解った。一緒に行く」


 ボンヴィーデは、ヴィレドコーリ中心部を流れるクルーヌ河左岸側の、十一区と十二区にまたがって広がる歓楽街の一画を占める花街である。

 アルベールはその花街の常連だった。

 メールソーの人間は家訓として、親もしくは当主に認められた相手以外と性的関係を持つなとされている。当然、特に健康な成年男子に禁欲生活を強いるなど出来る訳はないので、遊ぶのであるのならばそれを生業としている人間を相手にしろという教育も合わせて受けるのだ。

 メールソーの者としてテレーズもその教育を父や兄から受けており、成年の誕生日を迎えると長兄にボンヴィーデに連れて行かれた。以降、アルベールほどではないにせよ、テレーズも花街にはしばしば足を向けているのだった。


 夕食の後、二人で屋敷の通用門を出て車を拾い、ボンヴィーデへ向かった。ヴィレドコーリ東の郊外にあるメールソーの屋敷からは、車で小一時間ほどの距離になる。

 街の際で車を降り、夜もまだ早く人波あふれる通りを二人並んで歩く。

 普段とは違い、テレーズは長い金髪を緩い三つ編みに束ねていた。彼一人であったらいつもよりも目立たない恰好をしていたのだが、その意に反して、テレーズよりも背が高く、無精髭を生やした野性味溢れる伊達男の、街でも名を知られるアルベールと一緒では人目を集めること甚だしかった。

 アルベールが、彼を見かけて嬌声を上げる女性達に愛想良く挨拶を返していたせいもある。

 目立つことに慣れているとはいえ、これはテレーズをげんなりとさせた。

 周囲の嬌声には目もくれず、眉間に皺を寄せる弟の背中をアルベールが叩く。


「何て顔してるんだ! もっと楽しそうにしろよ!」

「……なんでそんな面倒くさいことしなきゃなんないんだよ。さっさと目的地に行こうぜ」

「おまえ、ほんっと顔は綺麗なのにつまらない奴だよなあ」

「アルの気が多すぎるんだよ」


 飲食店や劇場が並ぶネオンサインも明るい界隈を抜け、クルーヌ河に繋がる運河沿いの、室内から赤い照明で照らされる窓が連なる通りに出た。

 窓の中には露出度の高い恰好をした女性達がいて、道行く人々に秋波を送っている。中には窓を少し開け、女性と客が交渉しているところや、照明は点いているが窓にはカーテンが引かれていて、室内が見えないところもあった。この通りでは、窓の中にいるのは女性だが、違う通りでは女性ではなく男性がいる。

 ルクウンジュにおいては、男女問わず異性を買うことがされる。またそれは、同性同士についても同じだった。

 アルベールとテレーズは、赤い照明の通りも抜け、更に街の奥に向かった。行く手には先程の通りとは異なり、門構えも立派な重厚な建物が見える。開け放たれた門を入り、重々しい玄関の扉の前まで来ると、扉横に控えていた黒服のドアマンが仰々しい礼をして扉を開いた。


「いらっしゃいませ、メールソー様」

 きらびやかな玄関ホールでは、満面の笑みを浮かべている女将に迎えられた。

 対するアルベールも機嫌の良い笑顔だったが、ボンヴィーデの街中を通り抜けるだけで気疲れしてしまったテレーズは、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、無関心な眼差しを兄達に向けるだけだった。

 会話をしながら館の奥に進む女将とアルベールについていく恰好でテレーズも奥へ行く。

 進んだ先の部屋では、肩を出した薄手のドレスを纏った二人の若い女性が待っていた。二人のうち、黒髪を緩く巻いた女性がテレーズへ微笑みかけてくる。さすがのテレーズも、彼女には少し表情を緩め、小さく会釈をして返した。

 アルベールは部屋に入るなり早速、もう一人の亜麻色の髪をした派手な雰囲気の美女に近づいて、彼女の腰に腕を回して抱き寄せ、その額にキスをしていた。

 彼女が、この店でアルベールが馴染みにしている相手だった。

 アルベールは「じゃあな、テス! おまえも楽しめよ!」と言い残すと、亜麻色の髪のエレーヌ嬢の腰を抱きながらさっさと行ってしまった。


 残されたテレーズに、黒髪のマリアンヌが笑いを洩らす。

 黒髪に涅色くりいろの瞳をした、大人しく可憐な顔立ちをしたこの女性が、初めてここに連れて来られた時からのテレーズの馴染みの相手だった。

「参りましょうか、テレーズ様」

 テレーズの腕に手をかけ、マリアンヌが促す。テレーズも頷いて、彼女と共に部屋へ向かった。

「今日は大学の入学式だったと伺いました。おめでとうございます」

 慣れた手つきで湯の準備をし、テレーズの長い金髪を巻き上げながらマリアンヌは言ってきた。


 ここで彼女を抱く時はいつも髪は編んだままだった。

 初めての時からずっと、彼女もテレーズの流儀に合わせてくれている。

 彼女にも髪を伸ばしている理由を訊かれたことがあった。テレーズが質問に答えると、彼女は笑って「素敵ですね」と言ってくれたのだった。

 穏やかに全てを受け入れてくれる彼女と共にいる時間は、ぬるま湯のように温かく心地良い。

「内部生にとっては、単なる節目に過ぎないけどな。でもまあ、ありがとう」

 テレーズが礼を言うと、マリアンヌはたおやかに微笑んだ。

「テレーズ様は飛行機のお勉強をなさっておいでなのでしょう? アルベール様が、将来テレーズ様がおつくりになる飛行機をご自分が飛ばすのだとおっしゃっていたそうですよ」

「……あの人、気が早すぎるんだよ」

「それだけ期待なされているのではありませんか?」

 さて、どうなのだろうと湯を使いながら胸中で呟く。


 テレーズの兄達は、皆既に成人しそれぞれに名を上げている。だが、自分はまだ学生の身に過ぎず、それ以外の何ものでもない。

 本来メールソー家では、家督を継ぐ長兄以外の男子は軍務に就くのがしきたりであるが、テレーズは末弟ながら、軍とは一切無縁だった。

 それは、幼少時から理数系の能力の頭角を現し、幼稚舎から王立学院に入った末の息子には是非とも航空機設計を学ばせたかったという父の意向による。

 そのためテレーズは王立学院の大学部まで進学し、この分野の国内第一人者であるデュトワ・フェリクスの研究室に入ったのだ。大学卒業後も、メールソー家が王立学院に多額の寄付をしている関係から、大学院まで進んで研究を行うことになるだろう。

 そしてその後は、メールソー・オリオール社に入ることになっている。


 父からの期待は理解している。飛行機の道に進んだギュスターヴやアルベールも、父同様に、こちらに期待をかけてくれているだろう。

 自分自身興味のある分野でもあるので、彼らのその期待は何の重荷でもないし、応えることが出来るに違いないと考えているが。


 ──決められたレールの上だけではね。


 少しつまらない気持ちがあるのも事実だった。

 惰性だけで過ごす毎日ではなく、もっと心躍るようなことが起きればいいのにと望む気持ちを誤魔化すことは出来ない。

 だからこそ、この髪も長く伸ばして、見つけてもらえることを待っているというのに。



 ……待っているだけでは、いけないのかもしれないが。

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