エッセイ「普通に考えてみると(十)」
@SyakujiiOusin
第1話
普通に考えてみると(十)
百神井応身
1.焼きなまし
花粉症の季節がいつのまにやら終わりました。
あたしゃ目は痒くならないけど、鼻にきまして、ついつい過憤症をおこす因となっておりました。
なんとかならんもんかと悲憤慷慨することしきりで、コウコクノ興廃じゃなかった教育の荒廃ここに極まれりと思わされる光景を数多みせつけられました。
牛に引かれて善光寺参りって言えば善男善女なんだろうけれど、犬に引かれたらなんてったらいいのやら。
公共の場所に連れ出すのなら、最低限の躾くらいしとけってんじゃ!畜生(差別用語では決してありません。)といえど、愛をもって教えれば、驚くほどマナーというものを理解して守るものであるということを知らぬ人間が多すぎる。
ペットにすら世に受け入れられる行いを教えられない大人が、子供にまともな考え方を教えられるはずもなく、野放図自分勝手、迷惑はかけるものでかけられたら声高に権利主張するという手本をしっかり見せ付けて育ててるんじゃないかとしか見て取れないから困ったもんなのである。(手本は似飲み屋禁耳漏)
教育ってのは、人を蹴落とすためのものじゃないでしょうが!
風さむき 霜夜の月に 世をいのる ひろまえきよく 梅かをるなり
昭和20年に、賢きあたりの方が詠まれた歌でありまする。
あっそうそう、ついでながら美しい日本語ということになると、牛は引くとは言いません。牛を追う。馬を引く。とぞいひはべるらめ。
2.やらなきゃわからない
スポーツでも武道でも、一定の基礎練習や修練が進むと、「解説書や先輩やお師匠様が言っていたことはこういうことだったのか」、ということが理解できるようになる。
気づきの世界はどうなのであろうか。
普段の生活の中に夥しいヒントが鏤められていても、それが我がこととして役立つようにすることができる人は少ない。
頭でだけ考えて、見過ごしてしまうか軽く判断して、重大な知らせであるというふうに発展的行動に結びつけることができない。
あたらチャンスをものにできないということになる。
神社やお墓詣りに行こうと思ったのは、何かにそう導かれたのであると思うことができれば、気づきの世界は広がる。
個人個人にとってどうするのがよいのかは当然違うが、その入り口の一つとなるのは、ご先祖様を大事にできるかどうかによるようである。
3.胃にのみきく薬。
CMで聞こえてくる音声に、胃にだけ効くのかと思ったら、胃に飲み効く薬ということらしい。
意味するところをキチンと伝える読み方をするか、別の表現をするかしたほうが紛れがない。
天下のN放送でさえ、下駄を「履く」を下駄を「掃く」だの、「郊外」を「公害」だのとイントネーションが区別できない読み方をする人がいるんだから困る。
こういうのをチェックする人が局にいないのかしら。
4.一朶
「坂の上の雲」に、一朶(いちだ)の雲という美しい言葉が出てきました。
万朶(ばんだ)の桜という表現がありますが、一朶は一枝の花というような意味かと思います。
日本語の単位は、段々使われなくなってしまったものが多いようです。
例えば、一把(いちわ)は束ねたもののひとつをいい、10把ひとからげと言われるように、10把で一束(いっそく)ということが多い。
束は、長さの単位でも使われ、握り拳の親指を除いた指4本の幅ということになっていて、矢の長さを表すときに使われる。
これらは、稲作のときに使われた単位なのだと思いますが、美しい日本語が目に触れなくなっていくのは、時代のながれとはいえ寂しいことです。
5.隠蔽する
何もかもあからさまにオープンにするのが良いことだとは思わないけれど、隠し通すことができずすぐに分かってしまうことを殊更に伏せるのはどうなのだろうか。
尖閣列島の漁船体当たり事件は、事実を事実の通り報道すればよかった。
福島原発の水素爆発では、この世の終わりのような大爆発音がしたのだと、外国では報道されたらしい。そうでなくては、頑丈な建屋が吹き飛ぶはずがない。
3・11の大震災のときも、諸外国のニュースでは、流されていく人や亡くなった方が累々と横たわっている様子も映し出されていたと聞く。
その大震災の報道をうけて、K国では集まって万歳をした人がいたのだとも。
事実が事実として報道されても、大多数の日本人は冷静にそれを受け止めて、自ら考えて対応する能力があると信じる。
国旗が足蹴にされ燃やされても、それは原因をつくった日本が悪いからだというような論調の報道にも違和感を覚える。
報道が事実だけであれば、変な誘導をしなくても、それに報復しようとなど思わない判断力を持つ人が殆どなのではなかろうか。精神力が成熟しているのである。
事実をそのまま伝えないで、世論を誘導するような編集も、メディアは避けるべきである。
増税なども、反対の人の方が多いように思えるし、手を尽くせばよい方法があるように思えてならない。もっと自分で考えられるように材料を提供するところに、知る権利を標榜している媒体の働きがあるのではないのか?
6.運にチャンネルを合わせる
この世には、あらゆることが共通認識の精妙な波動となって、空間に満ち溢れているのではないかと思える。
まったく知らなかったことが、ある日気づくと当然のように使える力となっていたことがどなたの経験にもあるのではないでしょうか。
それは突然の啓示であったり、ひらめきであったり、思い浮かぶ妙手・ヒントであったりしますが、たいていの人はそれを見過ごしにしてしまいます。
微妙な波動であるから、肉体に入ってくるときのチャンネルは、小さな隙間ともいえる部分なのかも知れませんが、心を開いた状態にしておくのは必要なことになる。
体を清浄にして集中することは、瞑想の第一段階です。
7.雲に聳ゆる
雲に聳ゆる高千穂の たかねおろしに くさもきも
(古い歌だから、今は年寄りしか知らないが・・・)
祝詞で奏上される、「つくし ひむかの たちばなの」の辺りから出発する神社巡りの話題がもちあがった。
伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ・・・って言いますが、伊勢神宮のそばに猿田彦神社というのがあります。
神話に出てくる天照大神の岩戸隠れのとき、初代ストリップ踊り(アマテラスさまは、ストリップを見たかったのではなく、なにを賑やかに騒いでいるのかと思った。)で名を馳せたアメノウズメノミコトと結婚されたカミサマである猿田彦の尊は、知る人ぞ知る道先案内のカミサマでもありますが、一説に佐多岬を治めていた神様とも言われます。
アワビにはさまれたとかなんとか・・・
そのむかし、この神社に詣で昇殿参拝するまで控え室で待機していたとき、
ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの・・・状態みたいに、なつかしい言葉を喋る一団がいたので尋ねてみると、飯田から来られた方達でありました。
8.越中富山の万金丹
どっけしゃいらんかね~。置き薬っていうのなら驚きはしない。
置き菓子だっていうからオドレータ。
飛び込みの営業マンが事務所にやってきた。1ヶ月でいいから試しに置いてみて欲しいとのこと。
底辺がA4版くらいで、3段の箱のなかに菓子が入っていて1個どれでも100円、食べたい人が傍に置いた貯金箱みたいな料金箱に自己申告でコインをいれて取り出す方式で、定期的に補充にくるという。
お札しかなくて後で払おうと思っていて入れ忘れるケースは時にあるが、多少金額が不足していても、置いてもらえる会社に不足はいわないのでぜひ、とのことであった。
商売とはいえ、いろいろ考えるもんだね。
9.仮の力と真の力
地力・自力・神力・真力・・・力にもいろいろある。
勘違いしやすいのが権力。
「権」は、仮のというくらいの意味であるから、権力とは、その地位或いはその職に与えられた力ということなのだが、得てして無理や乱暴が罷り通るような使われ方がされる。
何のためにその力を振るうのかということに、意識を持たないと、間違った方向に行く。
10.何故なのか
我々が普段恩恵に預かっていることの殆どは、それが何故そうなるのか知らない。
知らなくても、何の疑いもなく過ごしているのだが、初めて自分の経験のない事柄に直面した時には、極めて疑い深くなる。
そして、それをやらないようにする理由付けを考える。
ボロイ儲け話などであれば、それは詐欺などであることが多いから当然であるが、僅かな費用僅かな手間暇で自分を磨くことであるのなら、やってみることも良いのではないかと思う。
新年を迎えると、初詣に出かけるという人が多いが、そうすることですぐに効果がでるというのでもないのに、連綿として伝わってきた行事であってみれば、どうしてお参りにいくのかの理由なんて抜きでも、そうするのが良いように思う。
精神活動というのは、そういうところから始まる。
11.夏の花なのに
ランタナ。 クマツヅラ科の植物で、花の色が次々に変わっていくので、和名を七変化という。
この花は暑さには強いが寒さには弱く、普通であればこの時季には幹ごと枯れている。
今年は暖かいせいか、今が盛りと言わんばかりに咲いています。
この植物の実は、哺乳類にとっては毒といわれていますが、鳥類は平気らしく、啄んだ実が落ちたところから新しく芽吹きます。
東南アジアの或る国では、薬用にもすると聞きますが、どのように使うのかはわかりません。
もうひとつ、これも夏に結実するはずのヘビイチゴも、まだ草むらにあるのを目にしました。
この実は、焼酎漬けにしてその液を塗ると、痒み止めに効果があると言われています。
12.嫁に行った晩
今はそんなことを言う人は居なくなってしまいましたが、昔は「嫁に行った晩」という表現がありました。
「されるがまま」という意味合いで使いました。
其れが良いのか悪いのかわかりませんが、初心で純情な風情を醸し出す女性は殆ど見かけなくなりました。
それにしても、多少の嗜みや恥じらいはあっても然るべしと思われなくもありません。
電車の座席で居汚く大股開きで眠りこけている若い女性は、いかに美しく化粧し、綺麗な服装で着飾っていても、お里が知れるというか、これでは良い縁に巡り合えないのではないかと心配になります。
自分の選択なんだから他人にとやかくは言われたくないでしょうが、人は自分が思った通りの者になるというのも真理の一つなのですから・・・
13.禾(ノギ)
きのふ、はあるかぶりに(信州弁で久しぶりにという意味)“どぜう”をくった。
近くにいるようなら誘ってあげようと思い友人に電話をしてみたが、留守電になっていた。
嘴が身近いらしく、残念なことでした。ご馳走しようと思ったのに・・・
ゆうやみくらく 飲みちどり われは千鳥にあらざれば こころのハケをうちはらい たのしきかたに とべるかな
そこで、「のみ」ではなくタイトルの「のぎ」ということになるのだが、ノギとは禾のこと。禾偏は知っていても、これがなんだか知っている人って案外少ない。
カホンカ植物の“カ”すなわち禾は、稲や麦の種子の頭についている肌に触れるとチクチクする、ちょんと出ているトゲみたいなのを指して言います。
で、それのなにが大事かっていうと、「和」とはなにかということ。
ノギは穀物のとくにイネ。
それを一緒に口にする、別の言い方をすれば同じ釜の飯を食うっていうのが和の始まりということになる。(ゆめゆめうたごうことなかれ)
なんですと?食ったんじゃなくて液体にしたのを飲んだんだろうって?
そんなわけで、駒形のどぜうはめでたく血肉となり、つやつやのお肌となりました。
14.牙
騎虎の勢いっていうのがあります。
虎の背に乗った武者は、途中で降りると虎に食われてしまうので、中途半端なことはできなかった?牙にかかるってか?
その話しじゃなくって、騎馬。
武田の騎馬軍団なんてよく聞きますが、騎馬っていうときの兵員数は、どうも単純に馬一頭人ひとりというような数じゃないような気がします。
その武田騎馬軍団というのさえ無かったという説もあるらしい。
15.怪我と弁当
怪我と弁当は自分持ちというのが、我々が育つときに教えられた基本のひとつでした。即ち、自己責任でなにごとも対処すべしということだから、注意事項があってもそれを聞かないことや守らない方が悪いし、多少の痛みは勉強のうちでした。
一寸考えればわかりそうな事でヘマをして、親にそんなことを言ったら、もう1回怒られるのがオチだということで、繰り返さないことを体験として学んだものだった。
マスコミ?などでもよく取り上げるような、川に柵がしてないから落ちて水に溺れただとか、滑りやすいと書いてないから転んで怪我をしただとか、悪いのは全部自分以外の誰かだと臆面も無くいって憚らないのがニュースとなるのを聞くと、実に腹立たしい。
馬鹿を言っちゃあいけません。余程の馬鹿じゃなきゃ、川に落ちたり滑って転んだりなんてことはありません。
第一注意書きなんかしてあったって、読んでも守らないアホのことをなんで保護しなくっちゃならないのか。そんなやつはホットケというのが本音。
「君子危うきに近寄らず。(意味を間違えてとっているむきが多いのだが)」と基本を教え、守らないで痛い思いをしても持っていくお鉢がないことを理解させるべきだと思う。
近頃は当たり前に見かける風景になってしまいましたが、「だめよ」なんて優しく言って言うことを聞くガキかどうか、親でいてわからないのかっ!
ひっぱたいてでも教えることが、ゆくゆくその子やその縁に繋がる人の命を救うことになるかも知れないとしたら、うわべの優しさなんて屁のつっぱりにもなるまいに。
でも、親の真意がどこにあるにせよ、こういうのも児童虐待として一括りにされる。
似非人道主義にひっぱられて、自分で考え責任を負うことをしないでいるツケは、“うちの子にかぎって”という例のやつに繋がりかねず怖いと思うのだが・・・。
子がかわいくない親がいるかっ!面をおかしてでも、やるときゃやれっ!といいたいのです。親や教師しかできないじゃないか。
16.海松(みる)
海松芽(みるめ)
中学時代の職業科(どういうわけか、そういう時間があって、学校の畑で実習もあった。)の先生が授業中に「松の種類を述べよ」と問題を出しました。
真面目な私を除くできの悪い生徒が、「おそまつ」だの「ちょろまつ」だの「たんまつ」だの「かんまつ」だのと口々にあげて、先生に呆れられました。
でも、端末や巻末なんてのは冴えてると思うけどね。
海松(みる)っていうのは、本当にあります。ウソだろうって?
辞書でも引いてミルアルヨロシネ。
そのミルじゃなくって、ホント男をミル目だか女をミル目だか知れませんが、見分けるのが難しい世の中になった。
17.覚悟
年に何回か一緒に酒を飲み、大先輩なのにタメ口を聞かせていただいていた居合いの達人でもある天台の権僧正(亡くなって僧正)のご焼香に行ってまいりました。
ほんの数ヶ月前に元気な姿でお会いしたばかりなのに、尋ねてみると2年前から病に侵されていたのだという。
ご遺族に、「偉いご住職に、本当に普通のおつきあいをさせていただいて・・・。」と申し上げると、うれしそうな笑顔が返ってきた。
まだまだ死ぬつもりは毛頭ないけれど、まわりを悲しませることなく「よかったね」と思わせ言わせるだけのなんらかの精神的働きが残せたらと思うのです。
これが、私の精くらべ。けっこう覚悟がいる。
18.甘藍(かんらん)
甘藍は、キャベツのことです。
先日、うちの神さんがかへりきたりてまおしはべるに、「びっくりしちゃったわ。蕗と蕗の薹が同じ植物だってみんな知らなかったのよ。」「それって、董のたったおばさんたちの話し?」と聞くと、そうだといふ。
蕗の薹は八百屋が売ってるもんなんだそうです。そんなこと言ったら、蕗だって八百屋で売られてるじゃん。
むかしながらの やまざくらかな。しきしまのくにも、あやふし。
19.機銃掃射の音
戦後何十年も経過しているというのに、トラウマというのは残っているらしい。
会社の隣に立体駐車場があるのだが、そこのスロープは網目状の鉄板になっています。
そこを急発進した車がタイヤをキュルキュルキュルと軋ませながら走る音を聞いた年配の社員が、顔色を変え体を固くしたので、「どうしたの」と尋ねたところ、 「機銃掃射されたのかと錯覚しました」と答えた。
子供の頃、もう防空もままならなくなっていたから、侵入してきた敵機に調布近くの学校のあたりで機銃掃射されたことがあるのだけれど、まさに今聞いた音そのものであると言った。
恐怖の記憶は、いつまででも残るということか。
20.気づきが多いとき
大切なことにきづくのは、どういうときに多いのだろうか。
悩みの大半は、まだ起ってもいないことを先回りしてくよくよするということが多いのだと言われます。
普段から心掛けて、いざというときに備え用心しておくことは大切ですが、そんなことができる人は滅多にいません。困難に当面してからでも真剣に努力すれば間に合うというのが殆どだとも言われますから、出たとこ勝負。
神様は、人間が乗り越えられないような試練は、お与えにならないのだと。
初めて、仕事としてお掃除をすることになったとき、掃き方も拭き方も下手で、そうかといって誰がやり方を教えてくれるでもなく、只夢中でわけもわからず時間ばかりが過ぎていきました。しかもその割には結果が綺麗になっていたとはとてもいえなかったのです。
段々慣れて、手際よく道具を使えるようになると、「ごみはなくなったけれど、床に汚れが残っている。」とか「隅々が綺麗になっていない」とか「壁などの立体面の汚れが気になる」とか、射し込んでくる光線に浮かんで見える埃が多いけれどなんとかならないものだろうか、とか次々に綺麗さの要求度合いが上がってくるのです。
そして、やってもやってもすぐまた次には汚れてきて、いつ果てるともない繰り返しがあるのだという現実に気がつくのです。
それを馬鹿らしいと思わず乗り越えていかねばならないのです。
そんな中で無心にお掃除をやっていると、あるときなんの前触れもなくハッと気がつくことがあるのです。懸案事項の対処法であったり、悩んでいたことの解決方法であったり、人生の教訓であったりします。
なんでもそうなのでしょうが、一心に努めることが大事なことのようです。
何か偉大なもの(神?)から齎されるイメージとか言葉は、爽やかな涼しさと明るく開けた雰囲気を伴っている。(暗く沈み込むような感覚を伴ってくるものはソレとは違うから判る筈。)
急いで行動に移さなくてはならないものであるときは、体がザワザワすることが多い。
気を付けていると、そんな知らせは誰にでも頻繁にあることなのではないかと思うが、意識することなく見過ごしてしまっている人の方が多い。
たとえ誰であっても、自信に満ち溢れ順風満帆でばかりは通せない。大抵は、万事に一喜一憂するのが常。
しかし、神様は、乗り越えられないような試練をお与えにはならないのだと聞く。
そういわれてみれば、大概のことは何とかなってきたように思う。自分の最強の味方は、内なる自分。
自分が自分を見限ってしまっては、どこにも救いがなくなる。
「大丈夫だ!本来の自分に気づけ!」と、振り返ればいつも言われ続けていたのかも知れぬ。
21.区別と差別
料理番組をなんとなく聞いていました。
「いべり子豚」えっ!そりゃなんだ? イベリコ豚なんじゃないのか?
「バルサ ミコス」・・・「バルサミコ酢」
「肉を飼う」・・・・・・「肉を買う」
イントネーションや言葉をどこで区切るかということに、意識が全く向いていないのか、ただ単なる無知なのか?
区切るといえば、区別と差別というのも考えの中に入れておかないと、名詞というのは差別用語だと叫ぶ人たちからの魔女狩りに会いそうです。
最初から差別用語であったものは少ないのではなかろうか。言葉を使う人たちの使い方やとらえ方が違ってきてしまったものが多いように思う。
言葉というのは、大切につかわないと愛がなくなる。
22.桑の実
やまのはたけで くわのみを こかごにつんだは まぼろしか
桑の実のことを別名でドドメっていうんだそうですが、私の郷里あたりでは、それを「ツナミ」と呼んでおりました。
熟れる前の赤い実は酸っぱくて、熟れて紫色になった実は甘くて、その双方とも学校帰りに摘んで食べました。まさに、道草を食うってやつ。
この道草には難点が二つあり、そのひとつは、食べると口中が紫色に染まって道草を食ったのがバレルのと、運悪く果汁が衣服に着くと洗っても落ちなかったこと。
ふたつめに、この実のまわりには“ヘクサムシ”(カメムシのこと)というのが集まっていて、うっかり触ると大そう嫌な臭いが移ることでした。
桑材は、その木目の美しさから、家具や仏具や茶道具として使われますが、私たちは枝を適当な長さに切って(肥後の守が活躍した)、よくチャンバラに使った。
桑の実は、ジャムにすると美味しいし中まで紫色であるから、アントシアニンも多そう。
23.月を愛でる
今宵の練馬の空にかかる月は丸いのですが、生憎の薄曇りで、ぼやけて見えます。
かなり肌寒いのですが、しばらく空を仰いで、月見としゃれてみました。
8月のザルツブルグ、ホーエンザルツブルグ城の上に浮かんだ月も良かったのですが、彼の地では月見をするという習わしがあるのかないのか浅学にしてしりませんが、立ち止まって月を見ている人はいなかったようです。
ポッタンポッタン やれ搗けそれ搗け 黄金の臼に銀の杵
着きますお餅はじゅうさんななつ
お月さまにもあげましょう お月様にもあげましょう
月でウサギが餅つきをしている姿が見えるという感性は、素晴らしいと思う。
24.呼吸
呼気とは、息を吐き出すことであり、吸気とは、息を吸うこと。
息をすることを呼吸すると一口に言うが、どうして呼が先で吸が後なのかに意識を向けることは少ない。深呼吸などでも、「大きく息を吸って~、吐いて~」というふうになる。
しかし、吐かないで吸うことができないということが解れば、吐くほうが最初だと判る。
なんらかの投資をするのも、先に資本を出さなければ、利益を得ることはできないし、他人から何かをやってもらいたいときも、先に何かをしなければ、望むようにはならない。
神様にお願い事をするのだって同じである。
なにもお金とか物質とかのことを言っているのではない。自分の持っている気持ちとかエネルギーとかを出し切れば、その空いた空間に大きなものが帰ってくるのである。
順番というのは、そうなっているのではなかろうか。
25.胡の弓は楽器
胡の弓だから胡弓、ほんとは楽器だけど・・・。
で、胡の瓜だから胡瓜(キュウリ)。胡の桃だから胡桃(くるみ)。
じゃあ胡ってなんだってことになるんだけど、中国の北方・西方、匈奴のことを言ったようです。
だけど、わからないことが続いて出てきてしまう。じゃあ、西瓜、南瓜、東瓜ってなんだ?
なに、東瓜なんてなくってそりゃ冬瓜の間違いなんじゃないかって?
そういや泰西(たいせい=ヨ―ロッパ)なんてのもあったっけ。
26.好かれるためには
人を好きにならないと、その相手から好かれることもまずない。
そう言うと、好きで好きで恋しくて堪らないのに嫌われてしまうのは何故なの?と聞く人がいる。
たいていの場合、自分の感情や都合という自我を押し付けて、相手のことを全く斟酌しないことによることが多いようです。
深情けではなく、好きな人にだったらどうしたら喜ばれるだろうか?なんてことを考えてみるのもよいのでは・・・
27.幸運と不運を分けるもの
この奥深き問いに答えを出すのは難しい。
人が心の奥底で何に焦点を当てて行動しているのか。言い換えれば、物事に向き合うとき、どのくらい他人に配慮できるか、ということによるらしい。
極端に自己中心的・利己的な人は、目先の損得で多少の得をしたように見えても、結果的にどこかで大損をしている。それをツイテいないとぼやいても始まらない。
自分さえ良けりゃというのは、運の神様は勿論のこと、人からも見透かされてしまうのだから。
自分の損得ばかり考えていると、目先では得をしているように見えて、大きく損をする結果を招くことが多いようである。
お互い様ということでなりたっている社会では、いつかは敬遠されるか仲間外れの憂き目をみることになって、協力や援助が得られないからでもあるが、自分で運を逃がす選択を重ねているに等しい行動に結びつきかねないからでもある。
現代に生き残っている人たちは、選ばれて、騙されないというDNAを本人たちは気付いていないようでも持っているから生き延びているとも言えるからである。
なめていると、手酷いしっぺ返しがあるというのが、天の配剤ということであろう。
効率ばかり追い求めて、無駄を限りなく排除するというのは、一考してみる必要がある。
物事が円滑に動くのは、一見無駄に見える人間関係が大きく作用するからである。
人間は感情が納得しないと動けない。
ただ、気づきの世界から突然頭に浮かべさせられるお知らせというか暗示は、すぐに行動に移した方がいいみたいである。
ほんのちょっとで出来ることなのに、「そんなばかな」とか「そんなことをしても効果があるとは思えない」とか「そのうちに、或いは後でやります」ということで、折角の啓示をなおざりにしてしまうのは勿体ない。
運を呼ぶ最初の一歩は、いつも小さいのである。
28.幸運の神様
心霊世界に携わる人たちは、願いの筋を神様に届ける為に精進潔斎して先ず身を浄めます。不浄は、聖なるものに近づく妨げになるからです。
送られてくる「気付き」「ひらめき」などの通信は、汚れにブロックされてしまうようです。
私たちは、自分の体をお風呂で清潔にしたり、衣服を洗濯したり、部屋を掃除したりということは日常的にできますが、大事な先祖が眠る墓石を綺麗にするということになると、その方法がわかりません。
墓石にこびりついた水垢は、少しばかり丁寧に洗剤で擦ってみても落ちません。
どんな仕事にも、やり方やコツというものがあります。
例えば、皮脂汚れを落とすには、石鹸を20度前後のお湯で溶かして使うなど・・・
そのほか身の回りには、不浄を除かなくてはならない水回りとか、いろんなケガレがあります。
運の有る無しは守られているかどうかによる。
(何かに守られていると気づき、実感できることが大事なこととなります)
世の中には、ツキのある人というのが確かにいます。
それはどこからのハタラキなのでしょう。
気づいた人が次のステージに進むことができ、そこでの気づきが必ず又あって、更に次のステージに進むことができる。
やると良いとわかっても、やらない理由を見つける名人でいては、なにも変わらない。
生命のあるものは、必ず成長しようと働くのに、それにブレーキをかけるのは自分の自我による顕在意識だと言われています。
そこに届けば無限のパワーを持つといわれる潜在意識に、叶えたい望みを届けることを阻むのも、自我という顕在意識がつける「やらない理由づけ」であるといわれます。
できるのにやらない、ということが如何に多いことか。
繋がるはずのパイプを閉ざしてしまっているのが実は自分であったと気づくことは、難しいことではない筈なのにです。
29.幸運を呼ぶオンドリ
ポルトガルにオンドリ伝説というのがあります。
マカオを訪ねたとき「ガロ」という名前のついたオンドリの置物が売られていました。
真実の証、幸運を呼ぶと言われているのだそうです。
ある日、一人の巡礼が通りかかり、宿をとったのだとか。
ちょうどこの頃、町では盗みが横行し、なかなか泥棒がつかまらない。
なんの因果でか、この巡礼に容疑がかかり逮捕されてしまい、無実を訴えても誰にも信じてもらえなくて、とうとう絞首刑を言い渡されてしまった。
聞き届けられる最後の願いとして、男は自分にその判決を言い渡した裁判官に会いたいと言いました。町の名士を集めて宴を開いていた裁判官に、男は再度自分の無実を訴えますが、居合わせた誰もがこれを聞いて信じはしませんでした。
すると、テーブルの上に載せられていた丸焼きの雄鶏のご馳走を目にした男は言いました。
「明日の朝、刑に処せられる時、わたしの無実の証として、この丸焼きの雄鶏が鳴きだすだろう。」
これを聞いた人々は大笑いしましたが、それでもその雄鶏の丸焼きのご馳走に手をつけないで、明朝まで残しておくことにしました。
翌朝、処刑の時間が来たとき、突如としてテーブルに載っていたご馳走の雄鶏が起き上がり、「コケコッコー!」と鳴いたのだといいます。
裁判官は即座に男の無実を悟り、自分の判決を翻したのだというのが、オンドリ伝説です。
30.黒色火薬
火遊びをすると寝小便をすると、子供の頃よく言われました。もう大きいんだから、おねしょ?なんぞしててはいけません。
子供の火遊びだって、退学覚悟でなきゃできなかった筈ですぜ。なに?それは大人の火遊びの方だって?
話しはもとにもどります。
私が、その子供だったころ、大きな農家の友人の家に正露丸よりふた周りほど小さな丸薬みたいな黒い粒が無造作に袋詰めになっているのがあって、むかし肥料として畑にまいたものだといっていたが、今にして思えば、それは黒色火薬だったのかも知れません。
残っていたソレは、近所の悪がきが集まって蜂の子をとるのに使い果たしたように記憶します。
適当な太さの竹筒を切って、ソレを注ぎいれ火をつけると勢いよく燃えて、大量に煙が出るので、蜂の巣にかざすと親蜂がバタバタ落ちてしまう結果、刺されることなく蜂の巣を確保できました。
でも、カヤクっていうほど威力があったようには覚えていないから、違うかもしれません。
よいこは、ケンノンなことをしないようにしませふね。
31.今年は何匹飛んでくやら
キアゲハ蝶の幼虫が十数匹、フェンネルを休み無く食べて、1日で倍くらいの大きさに育っている。第1陣は、かなり育ったところで全部、鳥に啄ばまれた。
今いるものの中の何匹が、無事に蝶々になれるか真に心もとないが、毎日黙って見守っているしかない。
蝶々は、巣立った所に帰ってきて卵を産みつけるというから、昨年ここから飛び立ったのが戻って来て卵を産んだのがいることは確かである。
すぐそばに柑橘類も山椒もあるのに、どういうわけかフェンネルにだけ卵を産みつけるから、毎年同じところにフェンネルを植え育てている。
早くサナギになれと、祈っているところです。
もっとも、蛹になると次の大敵は蟻。蝶々になって飛び立てる確率は低い。
32.昆陽芋
大岡越前の守の頃の学者である青木昆陽が広めたというサツマイモのこと。
すこし肌寒くなると、さつまいもを焼いて食うのに適した季節です。
ダッジオーブンの中に積み上げ、炭火で1時間ほど焼き上げると、これはもう9里よりうまい13里といわれるにふさわしくホクホク。
どうせそんなには食べられないから、熱いうちにどうぞってことで近所に配るので、毎年この時期になると「まだ焼かないんですか」なんて催促される。
そもそもは、代用食のイメージとして虎馬に近かったから、「共食いなんざできない」なんて言って長いこと食べないでいたけれど、食わずぎらいなんてのはいけませんやね。
たまにはいいもんです。ものによっちゃあ栗より旨いかも。
薩摩の守忠度は、いずくより帰らりたりけん。侍5騎童1人~(平家物語忠度都落ち)
五条が三位俊成卿に託した和歌の中から、その後、朝敵平家であるため詠み人知らずとはされたけれど選ばれたのが、
さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの 山桜かな
だと言われる。
煙管(不正乗車)になぞらえて薩摩の守タダノリなんて言っては恐れ多いんですぞ。
33.根性峠
みちのくの “安達”が原の黒塚に 鬼篭れると きくはまことか (平 兼盛)
ほんと、いろんな峠を越してきた。金精も渋も碓井も(もっとも、これぜんぶ車で。)
じゃあなんで冒頭の和歌があるかっていうと、別段なんで鬼婆はあっても鬼爺がないかっていう話ではなくて、先日、アタタラヤマの先まで不祝儀があって車を運転し、往復で600kmを日帰りで行ってきたからです。
思い出すと10年以上も前のことですが、山形まで車で行って西吾妻山に登り、折角ここまで来たんだから“安達”太良山にも登ろうということにして一泊したのが白布温泉でした。
さすがに、急に泊まろうと思い立っても東屋も西屋も空室がなかったので、温泉は自慢だというはずれのほうに泊まりました。
むかしはけっこう無棒なことをしてました。なに?棒はあるだろうって?
そうそう、安達太良は福島です。夜中に包丁を研ぐオバアサンが居たというおっかない原っぱもそこにあったらしい。
山に登って下りて、そのまま運転して東京の家まで帰ったんだから、70歳の今それをやれば無謀というか暴挙ということになります。
34.在ると言えば在り、無いと言えば無い
気づくということは
「在る」ということの形をかえた意味を知ること。
そんな馬鹿な、と一笑に付して見過ごしてしまっていることに意味があるとしたら、それによって失ってしまっている機会というのは有りうる。
自分が表層的に得た知識の奥に存在する意味に、意識を向けてみることが大切なのではなかろうか。
35.殺生
この世に生れ出たということは、それが何かわからないけれど、今生に果たさねばならない役目を持っているかららしい。
生をつなぐためには、やむを得ず他の動物であれ植物であれの生を摂りいれなくてはならない。
「いただきます」という食前の挨拶は、「あなたの命を、私の命にとりいれさせていただきます。」ということなのだという。
殺生を嫌って肉食を避け、菜食主義だという人がいるが、植物にだって命はある。
動植物を食事として粗末にすることなくバランス良く身内に摂りいれ、健全な肉体をつくらないと、本来の役目を果たすことはできまい。
少なくとも、幸せになることが役目の一つであるらしく、ご先祖様も神様もそれを願っているらしいから、今生での責任は重大である。
気付きさえすれば、そうなるためのヒントは一杯あるのに、なかなかそうできないのは何故なのだろうか。
36.自分にとっては
自分がやることに当たり前ということはあっても、人様がやってくれることに「当たり前」ということはない。
人様がやってくれることはどんなに小さなことであっても、ただただ「ありがたい」と思えるようになると、大きな「ツキ」という形のものに繋がってくるようです。
何をしてやっても、感謝もしなければ気付きもしないというのでは、神様だってソッポを向いてしまう。
最初にやってくる微かなヒントとも言える神様からの啓示に素直にしたがって行動するようになると、「ありがたい」と思えることが続くようになる。
37.車内で見かけた女の子
地下鉄に乗り込むと、前の座席に4~5歳くらいの女の子がキチンとした姿勢で真っ直ぐ前を向いて座っていました。
傍らの若い母親は、携帯メールをするのに夢中で、幼い我が子を気遣う様子はさらにないどころか、女の子が何かしたわけでも何か話しかけたのでもないのに、突然邪険に肘でこずいたのです。
一瞬泣き出しそうになったのを必死で堪えていた姿がいじらしくて、抱きしめてあげたくなったほどでした。
下車駅につくとその母親は、子供に降りると告げることもなく突然立ち上がり、扉に向かいました。
そんな母親にでも、子供は後を追いかけて小さな手をつないでくれというように差し出しました。
どう見たって、魂の大きさは子供の方が格段に上。この世に自分で親を選んで生れてきたのではあろうが、今生での修行の厳しさが思いやられて、思わず心の中で「がんばれ」とエールを送ってしまいました。
38.修行する場所
戦後の混乱期や発展途上期を乗り越えて、それなりの地歩を固めてきた経験豊かな古希の仲間で集まって談笑していたとき、
「そういえば、精神的な修行をする僧侶たちは、標高でいうと800メートル位のところを古来から選んできたらしい。」と言った友人がいた。
別段宗教にはまり込んだという連中では全くない。
この歳になると時々は口の端にのぼる、「死ぬときはピンピンコロリがいいし、その延長線で言えば、撮りためた写真や集めた物は、子孫の邪魔にならないように整理しておかなくては。」という話題からである。
ピンピンコロリ地蔵というのが、信州飯田市近郊の瑠璃寺境内にある。
39.秋の実
今年は柿のできが良くないんだろうか。石神井あたりの家々の庭にある柿も、小さいままもう色気づいて、おっと色づいてきています。
柿はこんなに小さくてどうなるんだろうと思っていても、色づくころになると一気に玉伸びして、大きくなる。
郷里の干し柿用の柿の木は、農業に従事する人たちが高齢になって、もう高所作業ができなくなったということで、残念ながら伐り倒さざるを得なくなり、この数年前から干し柿が好きになったというウチノカミサマが悲しがっている。
「うちなんか、まだいいほうなんダニ。おとなりなんか後継者が居ないんで果樹園の梨を全部切っちゃったんだから。」と実家の兄がいう。
何十年も丹精した何十本もの果樹が幹を切られて、その畑には雑草が生い茂っている。
なにも切り倒さなくてもよさそうなものだが、手入れをしないで放置すれば病害虫の繁殖を招き、近隣へ迷惑を及ぼすことになるからそうするのだとか。
鬼子母神が食べたという石榴も、色づいてきました。
近所の神社の境内にあるムクロジュ(無患樹)、別の名をムクロジ(無患子)の実が梢にたわわに実り、木の下には沢山な果実が落下していました。
名前の通り、子供が患うことなく健やかに育つことを願って植えられることが多かったと言われています。
外皮を割ると、中から固くて艶のある黒い実が現れます。この実は、羽子板でつく追い羽根に使われるので目にした人が多いと思いますが、外皮は、水をつけて揉むと泡が出るので、子供の頃に石鹸遊びに使ったのを思い出します。
40.人が寄り付かない
あれをしないこれをしない、気が利かないと、自分のことは棚に上げて他人のことに腹を立てて怒っている人がよくいます。
そんな人たちに共通するのは、他人がそっと自分のためにやってくれたことには気づかないか、或いは、そんなことは当たり前だと思っているかのようです。
人が自分のためにやってくれることで、当たり前のことなどないことに気づかない。
自分に都合のよいようなことばかりを要求しても、自分でだって自分が思うようには行動できないのだから、やってくれたことはたとえ些細なことであっても感謝することができないでいると、人は段々離れて行ってしまう。
自分の回りにいる人は、自分にとって必ず重要な役割を担っているのだという認識ができないと、不満で一杯になり、決して幸せにはなれまい。
他人に気持ち良くものごとをやってもらえる物腰物言いというのがあることに気づき、そのように動くように心がけると、目の前が明るく開け、幸せが集まってくる。
41.水と空気
まわりに無尽蔵にあるから、普段意識もしないし感謝もしないでその恩恵に与かっているが、水って一体何なのであろうか。
命を永らえるために必要だということのみなのであろうか?
水が情報を転写するということが言われるが、だとしたら人間が得る厖大な知識や記憶は、水を介してということになる。
一方、超空間的にもたらされるヒラメキとか第六感とか言われるものがあるが、それは気とも呼ばれる意思をもった空気を介してということなのであろうか。
内にそもそも無いものに反応する気づきや理解は無いのだというけれど、誰もが本来持っていて開花していない才能というのも無限にあるように思える。
意識がそこに向けば、違った世界が開けてくるとしたら、目を曇らせているものは一体何なのかということが気になる。あまりに沢山あるということで、意識しないでいるものが実は大切なのかも。
42.堤防の木
戦後、材木としての使い勝手がよいのか、植樹が奨励されて杉苗などが山に沢山植えられた。
私も、学校で植林に何回か行った記憶があるが、針葉樹だけしか植えなかった。
他の雑木は邪魔者にされ、切り倒された。
山から木を切り出すのに原価がかかり過ぎるのか、育った木が使われないままになっている山が多く、杉花粉が花粉症の原因となっていることもさることながら、針葉樹は根の張り方が広くはないせいか、台風や大雨の後に行って見るとよく倒れている。
保水力も少ないから、洪水の原因ともなっている。
昔、河川の氾濫を防ぐために作られた堤防は、コンクリートなど無い時代、広葉樹が並木のように隙間無く植えられ、さして手入れをしないでも、それが育って広く張った根が堤防の強度を保ったのではないかと思われる。
防災林として、根が張って強い樹木を、隙間無く植えたらどうであろうか。
43.天の摂理に背く?
休み無くせっせとフェンネルの葉を食べ続けた黄揚羽蝶の幼虫は、ようやく蛹になる段階を迎えた。
生き延びた10匹は、外敵に見つからない場所に移動してサナギになったと信じるが、サナギの状態を確認できたのは、そのうちの2匹でした。
サナギになりたての身動きができないところに、蟻がどこからともなく集まってきて群がるので、このままでは蝶々になる前に食べられてしまいそう。
それも自然の掟なのかも知れないが、見過ごすには忍びないので、時々見回ってハケで蟻を振り払ってやっていました。
なんとかサナギの殻も硬く固まったらしく、蟻も寄ってこなくなりました。
この先は羽化するまで、飲まず食わずで長い時間を過すことになる。
44.天使様がいると思えるか
先祖の墓参りをするのが良いということは、誰に教わったのではなくても知っている人が多い。
そこは、天使とのコンタクトがとりやすいのだといわれる。
天使というのに抵抗があるなら、何か偉大なエネルギー体と言い換えてもよい。
しかし、自分の中にそれを感じる力があることに気づいていないなら、天使とのコンタクトは無理ということになる。
感性が目覚めていないと、絵を見ても、音楽を聴いても、美しい風景を見ても、見ても見えず聞いても聞こえず、馬の耳に念仏・猫に小判ということになるが、本当はそんなことはない。
誰もが、気づけば自らのうちに神の領域を備えているのだと思う。
45.同乗・同情
ブログを見ていたら「同乗するなら金をくれ」というタイトルがあって、思わず笑った、
うめえもんだ。座布団1枚。
金をくれ、で思い出したことがある。
昔は、メールも携帯電話もなくて、緊急時の連絡は電報という時代があった。
「カネオクレタノム」と打ったら、「ノムナ」と返事が来たのだとか。
「カネ送れ頼む」を「カネをくれた飲む」と読み違えたのだというが・・・
46.内なる心霊スポット
人間は、そもそもが神様の分身なのであるから、常に護られている筈の存在なのであるが、自分が何者なのであるかということに意識を向けたことが殆どないため、本来持っている能力に気づくことがない。
全ての物事は、必ず原因があって結果があるとしたら、それが今生のものなのか前世のものかわからないが、誤った想念が今、苦悩という形で目の前に現れているというほかない。
ただ、顕れれば必ず消えるものであるというのも真理であるから、この苦悩は表れたことにより消え去るのだという強い信念を持てればよいのだが、気持ちがそんなに強くもない生身の人間としては、その苦悩を改めて抱え込んでしまい、新たな原因としてしまう。
抱え込まないで、それは顕れたから消え去り、今からよくなるのだという善念に変えることができるためには、そう宣言してみるのがよい。
神霊の領域は、だれもが自分の内にあると気づくのには、なんらかの形で偉大なるものにシンクロすることが必要なのかも知れない。
そのためのきっかけとなるものとして、神社仏閣に詣でたり、先祖の墓参りをしたり、“墓石クリーニング”をしたりがある。
それとは別に、極端な困難に遭遇したとき、人は神の領域としかいいようがない精神性を、たくまずして顕現することがあることをみても、それは人の実の内に本来在るのだと信じる。
47.破るるは新なり
大切にしていたものを壊してしまったり、案に相違した失敗をしてしまったりしたとき、気持ちが落ち込んでしまうのは無理の無いことではある。
しかしながら、こういうときにそれに捉われ過ぎて、いつまでもそこから脱却できないでいると、そのマイナスエネルギーの影響が与える被害は甚大なものになる。
こういうときには、「破るるはあらたなり」と宣言して気持ちを切り替えるのがよい。
新たなよりよいチャンスが必ず訪れると信じるのである。そして必ずそうなる。
気合負けしていると、心にも体にも良くないばかりでなく、次への発展をつかみ損なう。
48.望みと願い
望みとは、「こうだったら良いな」とか、「こうありたい」とかのように、まだ具体的ではなく漠然とした状態のことが多い。
それが願いということになると、具体的に叶えたい状態のものということになり、人様であったり神様であったり頼む先が必要となります。
しかし、聞いても貰えない先に頼んでみても埒はあかない。頼む先や頼み方というのが自ずからあるということに気付かねばならないことになります。
49.解らないことは
解らないのだから、「教えて下さい」とか、「気づかせて下さい」とか、素直になれるかどうかということが、その後を分けることが多い。
理解を超えることを、自分の判断だけで頭から排除したり避けたり、甚だしくは 「そんなことは常識的にあり得ない」と攻撃したりするに至っては、論外と言わざるを得ない。
解らないけれど在るものは、まだまだ一杯あるのだと思うようにしている。
50.無惨やな
無残やな 兜やぶれて アゲハチョウ
蛹になれたアゲハチョウの記事をアップしたことがあるのは、何年前のことだろう。
この固体が無事に羽化できるように願っていましたが、本日、日ざしのなか頭の部分を蟻に食い破られて敢え無い最後をとげた蛹を見ました。
サナギの中が空っぽになって、風に揺れていました。自然の摂理は、人間の気まぐれな保護くらいでは、いかんとも為し難い。
エッセイ「普通に考えてみると(十)」 @SyakujiiOusin
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