荒浜へ、行く。
いずみさわ典易
――仙台市新浜を愛したすべての人へ――
夏休みに入って五日目、土曜の朝である。
成瀬自転車店の前に集合しているのは町内会の小学生のガキどもである。ガキどもは全員、自転車にまたがっている。
早朝のラジオ体操で順調にハンコをもらった真面目な子供だけが参加できるサイクリングが出発しようとしている。
ラジオ体操のハンコが間違いなく五個押されている台紙を持ってくることが参加条件になっているサイクリングではあるが、しかしもちろんそんな物持ってきてないよ、と平然と言い切るガキもいる。でも大丈夫。自転車屋店主の成瀬岩男氏は台紙なんてはなっから見る気なんてないのだから。
「小さい子もいるからゆっくり行くぞぉ! しんがりの六年生はしっかり下級生のことを見ながら走ってくれよぉ! じゃあ、しゅっぱぁつ!」
昭和のど真ん中を五、六年過ぎたばかりだ。自家用車なんてどこの家にもない。いや、そこまでじゃないかもしれない。車も車庫もある家はあるにはあったのかもしれない。しかし少なくとも成瀬自転車店のある町内にはそういう家は五軒となかった。
であるから成瀬自転車店が面している砂利敷き、でこぼこの細道に入ってくる車なんてのは一時間に一台もあるかどうかで、十数人の小学生が路上に集っていたところで、さらにはそのガキどもがすべてかたわらに自転車を立てていたところで邪魔だなどと言う人間は一人も見当たらないのだった。
成瀬岩男氏は、自転車初心者たちを引き連れている関係上、交差点では一々完全に全体に停止を命じ、ガキどもの安全を確認した。心配されたほうは、きょとんとして氏を見つめる目、なんでいちいち止まるのさ、と尖った口、眉間にしわをよせてしっかりブレーキを握る両手、と各々の身体の様々な箇所でそれぞれに自らの疑問、憤り、真面目さなどを氏に伝えるのだった。
アヒルの行列的自転車連隊は、氏の厳選した車通りの少ない細い道をピヨピヨと進んでいった。しかしもちろん100パー車がこないという道は当時とてさすがに皆無だった。氏は自らも居住する地域のガキどもの生命を完璧に守るべく、一台の自家用車でもそれが通るたびに大音声で「一旦停止!」と叫んだ。あまりにも一々の大声なのでそのうちガキどもも慣れてきたものである。車の音が聞こえただけで自分達から停止、しっかりブレーキを握って両足を地面に下ろす癖がついてしまった。これから将来、自分の店で何台の自転車を買ってくれるかしれない金の卵の素直な対応に、氏は大いに満足、ついには思わず微笑んだものである。
四年生の「僕」は列の中の真ん中よりも少々後方で、
やっぱ海、遠いわ、と思っていた。どんどん南のほうに来てる気がすっけど、成瀬さん、本当に海に行く道知ってんだよなあ。交差点でいちいち止まるの、まさか迷ってるからじゃないよなあ。でも奥さんも何も言わない。ってことは大丈夫なんだ。
実際のところ「しんがり」は六年生じゃなかった。真の最後尾には成瀬氏の奥方が付いていたのである。しかし六年生は氏にとっては「明日のメシのたね」である。なんでって中学生になると自転車を買い換えてくれる可能性が高いから。そんな彼らのプライドは最大に尊重されておくべきものであり、ゆえに「しんがり」などと持ち上げたような言い方がそこで使用されていたってわけだ。
アヒルの自転車連隊は一高の脇を抜けて二区画進むと直角に曲がった。それからちょっと走って今度は軽くS字状に曲がった。南小泉小学校の前を通る。その後はたまに南のほうにゆるくカーブするくらいで、ほとんどまっすぐ海へ向かっていったのだった。
どこをどう走っているのか全然わかんない的ちゃんと走れてるのかどうかもよくわかんない型サイクリングは「そんなこともあったなあ」という程度の記憶の中で黙り込んだまま進んでいく。
真っ白な元旦――初日の出なんて見られるわけがなかった。
入学直後に意気投合した四人の内三人は、江藤英寿は公立高校の世界史の教師の、嵐山靖弘は書道家の、柄谷京次は内科医の、とそれぞれに「先生」と呼ばれる父親の子息だった。残る一人は他ならぬ俺だ。父親はすでになく母親も間違っても「先生」などと呼ばれる人種ではなかった。
街のレコード屋に行ったり、城のふもとの渓谷を探検したり、何かといえば一緒だった四人が二年の冬休み前に計画したのが「初日の出詣」だった。海の初日の出って見てみたいよな。誰が言い出したか覚えているわけもないが、とにかくそんなことになった。
ところがその元旦という日が見事に雪だった。起きて玄関から出た所ですでに五センチは積もっていた。でも大丈夫、それでも中学生という生き物は海へ向かうのである。
手段は自転車。当然である。いくら平成に比べ娯楽の豊富さに欠ける昭和の中学生だとはいえ、球場近くの中学校に通う生徒たちからしたら十キロ以上の行程であるから、歩いて行くという選択肢はいくらなんでもありえなったし、だからといって昭和の真ん中を十年やそこら過ぎたくらいの一般的家庭の中学生の家にはまだまだ自家用車など存在し得ず、遠出といえば自転車以外に方法は考えられなかったのだ。
まず俺が内科医の次男の家へ、二人で高校教師の長男の家へ、三人で書道家の一人息子の家へという具合に自転車は一台ずつ増えていった。ちょっと風邪でなどと言ったら後からどんな扱いを受けるかわからない、というわけでもないのだろうが、一人の欠席もなく雪中サイクリングは始動し、雪の中をいつも通り走ろうとしては足をつき、ブレーキが利かないといっては前の後輪に激突し、四人はとにかく走っていった。青春だよなあ、とか思いながら。時に叫びながら。
四人の姿が全員別々の高校の校舎の中に消えていって一年数ヶ月後、俺と自転車のそばにいたのは一つ年下の「彼女」だった。迎えに行った先から美晴は俺の自転車に乗ってきた。荷台に横座りである。そして俺の腰に抱きついている。海へ行く。
高校二年の春。あと二ヶ月で十七才になる頃、陸上競技場の前で俺と美晴は会った。俺は美晴が泣いているような笑顔の口からいたずら半分に零れ出た「小学校五年です」という言葉を真に受けた。実際は一つしたの私立高校の一年だった。
美晴は俺を見上げ、初対面から意味不明に頬を紅潮させて、ずっと目を細めて微笑んでいた。まだ五月、しかし確かに初夏を思わせる陽射しに俺たちは灼かれていた。
初対面ですべてが整っていた。もしかしたら終わりまで。
美晴の家が小学校の時から自転車でよく行った浜から北へ一キロ、内陸へ一キロ入ったあたりだった。小学校の教頭をやっている父親と、数年前まで教師をやっていた母親の建てた家だった。なぜだろう、また「先生」だった。しかもダブル。
俺の家から最も近い車通りのある道から彼女の家のすぐそばまで、幅の広い道を作っていた。作っちゃいるが、まだ俺たちにも最終的にどんなふうになるかわかんねんだよ、作業してるおっちゃんたちに訊いたらそんな答えが返ってきそうな、道路は状況にあった。あっちこちで自転車がパンクしそうな出っ張りができていた。
美晴を乗せていつも向かったのは、あの浜から一キロ北の浜だった。あの浜に対してか関係なんてないのか、新浜という名前がつけられていた。海水浴の季節になってもほとんど人の来ない浜だった。
砂浜には限りない砂があった。一粒ひとつぶを俺と美晴は乾いた綿に変えた。調子づくとその頃にはまだ世にはほとんど出ていない羽毛にまで変えることもできた。
太平洋の波の音もあった。静かな静かなこだまだった。陶酔の音色だった。
あるのはそれだけ――砂粒と波音だけだった。陽射しは強いのか翳っているのか、誰かの姿があるのかないのか、そんなことは二人にはどんなつながりも持たなかった。俺と美晴は砂に包まれ、波音に酔っていた。
いつのまにか三十才になろうとしていた。いつのまにか自動車免許を取れるようになっていた。やっとそれくらい稼げるようになっていた。
中古の軽自動車であの浜を目指した。高校時代に通った新浜は車ではいけないような場所にあったから、小学校の頃から何度も自転車で行った、あの浜をめざしたのだった。
ところが記憶の通りにハンドルを操作しても何かが違う。小中学校の頃には簡単に行けた浜には、どうやら同じ行程では行けないようなのだ。
美晴の家まで行く時に作っていた幹線道路がいつのまにか完全にできあがっていたせいだった。昔は一本でつながっていたはずの道が、真四角が基本の区画整理のせいで南北二本の道に分離していたのだ。
そのあたりは元々、田畑ばかりの土地だった。なるほど。だから簡単に作り替えることができたんだ。
道はほんの少し複雑になったのに、海はなぜだか近くなったように感じられた。真っ平らの綺麗な道のせいだ。何かが壊された気がした。妙に軽薄な感じがした。これが正しいんだ、と血の通わないつまらない物を見せられた気がした。
でも自分だってそうだ。こんな大層な物を操作して、しかもその大層な乗り物にはお前一人だ。何様だ? まるで王様だ。寂しいさみしい裸の王様だ。情けねったらありゃしねえ。
浜のそばに車を停めて、防潮堤を越え、よく晴れた空の下の果てしない水たまりを見ても、しつこく寄せてくる波の音を聞いても、どうしたって靴に入ってくる砂粒を感じても、心の中の感情装置はことりとも音を立てなかった。
三十半ばで結婚して数ヶ月後、あの浜がある海岸線から四キロほど内陸の町にマンションを買った。すぐそばのアパートに暮らしている時に、遠くに眺めていた建物だった。
引っ越した直後は仕事を変わったり、そのせいで感情装置がぶっ壊れたりといろいろあったけれど、一年ほどして元に戻ると数年ぶりかで自転車を磨いた。
いったんついた車体の錆は中々取れなかったけれど、スポークまでなるべく丹念に磨き、空気入れも買ってきて、年に何度かあの浜を目指すようになった。夏のあいだは週に何度かそうした。三回に一回はあの浜へ、残る二回は新浜止まりって感じだ。
海までは歩行者と自転車だけが通れる細い道が整備されていた。初めて見るような気がしていたが、実際に走り始めてみたらなんと、高校時代に何度か走った道だった。そう。美晴を後ろに乗せて走った道だったのだ。なんで全然覚えてなかったのか。
時が経ったから? かもしれない。俺が馬鹿だから? それもあるだろう。でも。そうだ。それだ。
あの頃は砂浜での展開しか頭になかったのだ。だからだ。道程なんてどうでもよかったのだ。去っていく景色でしかなかったのだ。
松島方面へ向かう国道45号線と七北田川の交差するところから海へ向かう自転車道は始まっていた。本当のところをいえば反対方面にも伸びているからそこが起点じゃない。でもそっちは全然どうでもいい。関係ない。だから俺にとってはその地点が起点なのである。
走り始めるとまたすぐに橋がある。梅田川を渡る橋だ。それからまたすぐに、今度は視界に横たわる橋が見えてくる。産業道路が七北田川を渡る高砂大橋である。自転車道は産業道路の下をくぐっている。橋の直前で川沿いの土手道は何メートルか低下し二十メートルほどのトンネルをくぐる。このトンネルは……。
心臓が激しく波打った。
このトンネルは、忘れるはずがなかった。
美晴の体に初めて、直に触れた場所だった。そうして最低でも一時間は過ごした場所だった。頬が緩んで目元に涙がにじむのがわかった。
懐かしのトンネルを過ぎれば今度は上昇、そして再び土手道だ。このあたりから小さな蟹が出動し始める。
目の前をすばしっこく横切るやつ。すでに自転車か犬か人間か、とにかく何者かにつぶされたやつ。とっくにバラバラになっちまってる手足。色もなく、動いてたり停止していたりしてそこにいる。
川の上を鷺が飛ぶ。一羽ずつ飛ぶ。足先が黄色く尖っている。脂の乗ったサンマの口みたいだ。
基本的に一羽の場合が多い鷺にだってツガイはもちろんいる。二羽の白鷺が川面でちょっと離れて一緒にいた。一羽は川面に嘴を突っ込み何かを食っている。もう一羽は、自分は鶴だ、とでも言いたげに片足で立っている。脱力した風情は人間の老夫婦のようだ。
夏の川辺に鴨は一羽もいないが、白鳥はいるのである。もう何年も居座っている七羽の白鳥たちである。
毎年秋が深まるとテレビで白鳥到来を告げるニュースが流れる。そんな放送を見るたびに毎年じんわりした感慨が胸を満たす。あれはやっぱり珍しいのだ。そう思うと自分のことでもあるまいに、自慢したいような気分になるのだ。
七羽の中の一羽に、右側の羽が途中からはげてしまって骨組みだけになっているのがいるのが、この一族の常駐化の原因だろうと思われる。あれが死んでしまったら他の六羽はこの地をあとにするのだろうか。
しばらく行くとまた橋が横たわっている。のでまた短いトンネルをくぐる。
自 転車道周辺はそのあたりから、徐々に海のムードを醸し始める。道を横切る蟹も増えてくる。何度も踏んでしまいそうになる。慌ててハンドルをひねる。鋭さを感じさせる細さの水蛇は、素早いくせに非効率的なくねり前進だから笑える。笑えるんだが、するするっと去っていく姿を見たあとは口の中に奇妙な後味を残す。口に入れたわけでもないのにどうして口がそんな感じになるのか、皆目理解できない。これぞ蛇マジックとでもいうものなのかもしれない。脳神経に不可思議な刺激を与える蛇マジック。
道は断じて平らではない。それは最初に橋を渡ったあたりからずっとだ。道はひび割れ、ひび割れからは雑草が束になって強力に伸びている。邪魔である。だが断じて抜くことはできない。せいぜいが根元で千切れて終わりである。土に絡んだ程度の根っこなら引き抜ける。しかしアスファルトに張った根が抜けるわきゃねえだろ、ってなもんだ。
自転車道の右側に、左側に、右から左に、左から右に、そして中央にざっくりと雑草の群れは次から次へと現れる。もちろん草の突出している箇所のアスファルトは何センチもかさぶたのように盛り上がっている。目に入るたびに慌ててハンドルを切るけれど、時に避け切れず、タイヤをガツンである。
うわっと呻く。くそっと口走る。避け切れなかったことよりも軟弱にも呻いてしまったことに腹を立てている自分に気づく。
二つ目の橋の下をくぐると道は継続してそんな状態だ。そんな中を小蟹が駈ける。蛇がひゅるひゅる向かってきたり逃げていったりする。カエルだっている。でかいのを踏んずけてこっちが大声を上げる。
七北田川は川幅を最高に広げ、もうすぐそこに河口を見せている。しかしそのまま素直に海に流れ込んでいくわけじゃない。蒲生干潟が河口を塞いでいるのである。
あんなに幅を広げていた川が、数本の細い流れになってちょろちょろと海を目指し、最後にやっと2メートルほどの溝となってやっとのことで海に水を送り出している。なんとも不可思議な光景ではある。
満潮ともなればもっと川らしい姿を見せるのだろうか、とも思うが、そうなっているところは見たことがない。直前までは絶対に深さ数メートルに違いない川を、河口では歩いて行き来できる砂地にしてしまっている蒲生干潟、恐るべしである。
もし砂州の上を多少濡れながらでも歩いて渡れば、そこにはやがて山が見えてくる。
「元祖日本一低い山 日和山」である。「標高6・05M」と看板にはある。
元祖というのがミソだ。きっと、もっと低い山が発見されたからもはや日本一の低い山なんかじゃないのだ。しかし言い出しっぺには言い出しっぺの意地がある、というやつだ。証拠に、というほどの証拠にはならないが、元祖、の文字だけが後から足したような角張った字体で刻まれている。
河口の砂州は北側にそのままつながっていってゆるく盛り上がり、人間の活動区域である陸地とのあいだに鷺が立っていられるほどの浅瀬の湿地帯を作っている。 「元祖日本一低い山」の横看板の隣りに、この湿地帯が国指定の「仙台海浜鳥獣保護区」であることを知らせる看板が立っている。ガンやシギ、コアジサシなどが飛来して集団で繁殖をすると、それらのイラストの脇に書かれてある。
鳥に関して言えば、このへんには常駐組の白鳥、カワウ、カモメから、冬の鴨、そして突如として空間をつんざく啼き声を発しながら現れるキジと、やたら野鳥が棲息していることがわかっている。なんともまあのどかな土地に、俺もまた棲息してるってわけだ。
のん気に俺は18段変速ギアつきの自転車をこいでいるようにも見えるが、実はそうそうのん気でもいられないのはアスファルトの裂け目から吹き出している雑草たちのせいだ。風景に気を許すことなく、地面の状態に神経を注ぎながら海への道を行く。
ついに自転車道は右へ直角に曲がる。海岸線にぶち当たったのだ。しかし海の景色も現れず、波音も聞こえてこない。そのかわり、左側に新しい川が音もなく横たわっている姿が現れる。
江戸時代から明治にかけて作られた人工の川――貞山運河だ。
貞山ってのは仙台藩初代藩主、伊達政宗の「おくりな」とからしいが、そんへんの詳細はともかくこの貞山運河、とにかく延々と続いている。とにかく長い。松島あたりからいろいろ名称が変わっていくんだが、どこからどこまでが貞山運河なのかわからないほど長いのである。そんな歴史的大事業の結果として残っている運河は、今となっては両側を鬱蒼たる松林に挟まれた、ただの澱んだ水を満々と湛えた水路に見える。
運河を左に見ながら俺はあの浜を目指し南下していく。浄水場を過ぎると右側には何面もの野球場が散らばっているのが見えてくる。やがてテニスコートも見えてくる。
道は依然として雑草のせいでささくれだっている。この道を三十年以上前に何度も通ってるんだな、と俺は考える。その後の展開ゆえに希薄になっている記憶の中にこの道は絶対に登場しているはずなのだ。美晴を後ろに座らせて走った道として。
なぜその場面をまったく思い出せないんだろう、なんでこうまでも蒸発でもして消えたかのようにこの脳みそに残っていないんだろう、と澱んだ色の水面を眺めながら考える。
結局、十七才から五年間、美晴とはつき合った。愛し合ったといってもいいだろう。そのごく初期段階で俺は、俺たちはこの道を何度も通っているはずなのだ。
確かにいろいろあった。
砂浜での優しいいとなみは、そこに確かにあったこととして、この冷酷で愚鈍な脳みそにも、うっとりするような記憶としてしっかり刻まれている。
でもその後、いろいろありすぎたのだ。そのせいで覚えておきたい最高の記憶以外は脳みその奥の奥に追いやられ、ついには完全に見えなくなってしまったのだ。
惜しいことをした。
今になってやっとそう思う。
細部にこそ繊細に煌めいていた瑞々しい情景があったはずなのだ。覚えていたらそれはどれだけ素晴らしい思い出――宝物になっていたんだろう。美しい風景を灰色、とまではいわないにせよ、混濁した色合いに塗り込めてしまった自分は、なんて情けないやつなんだろう。
もちろん今となってはどんな場面を思い出そうが何の意味もない。現実は今だけであって、美しかろうが混濁していようが思い出は思い出だ。現実に何の効力も持ち得ない、カコだ。
カッコー、カッコー。前方に車止めが見えてくる。
カッコー、カッコー。小さな橋が見えてくる。
あの橋を渡って左に行けば新浜だ。美晴の砂浜だ。
橋を渡って行く。海へ行く。くねくね幹の折れ曲がった、大きな枝を奔放なほど横へ伸ばしていく松の群れのあいだを走る、そこらじゅう大きな石が飛び出ている土の道をハンドルを大胆に左右させながら、俺は行く。
そういや、と俺は思う。雀やカラス、それにトンビだって野鳥には違いない。川には鯉がうようよだ。ボラもいる。蟹、水蛇、カエル。なんとも多種多様な生き物に囲まれていながら、俺はただただ振り回されて生きてきたんだ。何もまともには見ようともせず、幼稚なだけの若さに振り回されて生きてきた。少なくとも、あの頃はそうだった。カッコー、カッコー。海辺にいるはずもない鳥が頭の中で啼く。 カッコー、カッコー。帰りたいか? いや。
自転車を松林を抜けるすぐ手前の一本の松にたてかける。
海へ行く。
三メートルほどの防潮堤を上がる。目の前に太平洋が現れる。そうしてやっと波音が聞こえてくる。
そうなのだ。防潮堤を越えてやっと波音は本物になるのだ。それまでは不思議なくらいかすかにしか聞こえてこない。防潮堤に上がったところでそれは津波のように耳を襲ってくる。
豊かな海のいとなみが一気に体全体を包む。深く、遠い、海原の声。それを聞きに、俺たちはここへ来るんだ。たおやかで豊かな、深く、遠い、海のいとなみの音を聞きに。
自転車のところまで戻ると、松林は半減、いや、十分の一ほどになっていた。ぽつんと立っている松に18段変速の自転車は寄りかかっていた。
橋を渡って貞山堀を陸地側に戻る。左へ、さらに南下する。あの浜に行くのだ。 「先生」の子息たちはもう俺とは無縁で生きている。俺も。成瀬自転車店ももうとっくに閉店した。何もかもが終わった。何もかもが消え去った。
まさか。
そんなわけがない。
(了)
荒浜へ、行く。 いずみさわ典易 @roughblue
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