昭和半分・平成半分
中村 離(はなれ)
第1話 あと何日の明日
私が生まれたのは昭和のまん中である。31歳の時に元号が変わった。そして平成を30年とちょっと過ごし、令和を迎えた。つまり私という人間は、昭和と平成、ほぼ半分ずつで出来ているというわけだ。そしてほぼ確実に、令和の時代にこの世に別れを告げるだろう。
山田風太郎さんに『あと千回の晩飯』というタイトルのエッセイ集がある。私も還暦を過ぎて、残された時間はあとどのくらいかと切実に考えるようになった。明日はあと何日あるのか。残された時間は少ないのに、残してきたものも少ない。それなら、もうちょっと、言葉だけでも残しておきたいと思った。昭和と平成の個人的な記憶をたどり、書き留めていく。その記録がこのエッセイである。
60年という時の長さを思う。ここで思考実験。もし万一、いや億一、いやいや兆一か、輪廻転生というものがあり、人間として60年ずつ生きて死んでを繰り返すと仮定する。死んだらすぐに、前世のことはきれいさっぱり忘れ去った、新たな「私」という人間に生まれ変わるのだ。
私の年齢をいま60歳という設定にすると、遡って3人めの「私」は、180年前の1839年に生まれたことになる。立派に江戸時代だ。元号でいうと天保10年で、高杉晋作やセザンヌやムソルグスキーが生まれた年だという。
遡って5人めの『私」は、1719年の生まれ。これまた江戸の世で、享保4年。あの徳川吉宗の治世で、享保の改革の時代だ。そして、10人遡ったら1419年、室町時代である。60年のたった10倍の歳月を逆戻しすれば、「私」は一休さんが生きていた時代にいたのだ。
こういう計算をしてみると、歴史というのは、長いようで案外に短いという気もしてくる。逆に、60年という歳月には、歴史がぎゅっと詰まっているとも言える。歴史は動く。社会は変わる。
昭和と平成にまたがる個人史を振り返るだけでも、書くことには事欠かない。ウラジミール・ナボコフの『ナボコフ自伝』のサブタイトルをなぞるなら、「記憶よ、語れ」というところ。実生活で鮮明に記憶に残っていることや、好きな本や映画のこと、病気のことなどを書いていく予定である(音楽については、別タイトルのシリーズ『音楽脳』を執筆中)。記憶の中から、書くに値すると思えるどんな素材にめぐり逢えるか、私自身も楽しみだ。
その楽しみを、少しでも分かち合っていただければと願っています。
次回は、本編の前に、まず「書く」ことについて一言。
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