あの水・この水(アノス・コノス)

山井前

一日目 あの水・この水(アノス・コノス)

朝、パイプベットの上の布団を剥がす。


湿気がこもってカビが生えると嫌なので、掛け布団も敷き布団も、二つまとめて洗濯竿に掛けておく。


布団の重さでギギッときしむ洗濯竿。


よくないと思いつつも、こうする他ない。


玄関の扉を開け、自転車に乗った。


勤労学生なのでバイトに行く。


3時間ほどで終わった。


家に帰って、シャワーを浴びる。


さて、10時半から大学で授業だ。


今9時半で、微妙に時間が空いているので、朝食でも食べようと思った。


が、冷蔵庫には何もない。


いや、生ビールの缶が、一本だけ、奥のほうで冷やされていた…


「中世ヨーロッパの農民にとって、ビールは一番身近な飲料物であり、飲み水の確保が難しかった当時、人々の水分補給、また栄養補給にとっても必要不可欠の存在だった」と、以前文庫本で読んだ記憶がある。


さいわい熱いシャワーを浴びた後なので、冷たいものでも飲みたいと思っていた。


朝から酒を飲むという行為に、後ろめたさを感じはしたものの、そこは「アルコールの入った状態で授業を受けるとどうなるのか」という「実験」と称することによって、うやむやのまま誤魔化した。


飲んだ。


「北海道生ビール」というサッポロの期間限定のもので、軽めのビールで飲みやすく、ホップの香りが効いていた。


味は普通だった。


さて、余裕こいて朝酌(晩酌の対義語;著者の造語である)していると、授業開始まで結構時間が差し迫っているのに気がついた。


座イスからとび起き、慌てて大学へ行く準備をする。


朝から酒盛りしてて授業に遅れただと、さすがにシャレにならない。


あくまで「朝からアルコールを入れて大学に行く」実験なのであって、まさか本当にアホになる気は毛頭ないのだから。


寝癖が鬱陶しかったので、適当にキャップをかぶって誤魔化した。


自転車を一生懸命漕いで、いそいそと大学へ向かった。


急いだ甲斐もあって、授業には余裕で間に合った。生協で「牛たま焼き」を買って、トイレも済ませる。


手を洗っている最中、鏡で自分の顔を見た。


真っ赤である。そう、お酒が入って、頬と額のあたりが紅潮してしまい、真っ赤に染まってしまっていたのだ。


そうだった。元来自分は、それほど酒に強い体質じゃないので、飲むと、すぐ顔に出る。


特に今回は、家を出る前の短時間でかっこむようにビールを飲んだため、いつにも増して顔の赤みが強くなっている感じがした。


うかつだった。お酒が人に及ぼす影響は、精神だけでなく、身体にも作用するものだ。


普段ひとりで酒を飲む時、自らの姿を顧みることなどまずないだろう。


冷静に考えると、それならさっき自転車で通学したのも、飲酒運転だったしマズいだろ…と、鏡を見つめて自らの姿を省みるの(視覚的内省)と同時に、心の中でも今までの行いを省みていた(精神的内省)。


そうこうしているうちに、授業開始のチャイムは鳴ってしまった。


急いで教室へ向かう。ギリギリに到着したので、席は前の方しか空いていなかった。


教授からレジュメをいただく。


そのとき一瞬、僕の顔をまじまじと観察されているような気がした。


(他の学生と比べて、こいつだけ妙に赤ら顔だなぁ…)なんて思われてるのかもしれない。


(ちょっと、最近日差しも強くなってきましたから、)(いやぁ迂闊でした、いつもなら日焼け止め塗ってから来るんですけど、)念のため、とっさに顔の赤さについて応えられるように、心の中でそれっぽいことを考えていた。


しかし、要らぬ心配だったようで、全員にレジュメが行き渡ったのを皮切りに、スムーズに授業は進行していった。


内容をノートに記録しておく。


小学生の頃から、勉強はそれほど好きではなかったが「授業のノートを取る」という行為には無性に執着していたので、たとえアルコールに脳が侵食されていたとしても、脳死で条件反射的にそれを実行していた。


しかし、どうもシャーペンを握る手が安定しない。


いつもなら横一列にスラッと箇条書きできるはずなのに、なかなか文字の大きさが安定しなかったり、線と線の間に文章が収まらず、いわば大学ノートの上をペンが泳いでいるような状態だった。


それに加え、ポストモダン系の現象学とかその辺の講義だった気がするので、つかみどころのない内容の話が続く。結果、


「ちんちん亭クソガキ説」


「あの・この


「バードマン;あるいは(七つの島と失われた竜の王国)」


なんて落書きを、ノートの欄外に書き記す遊びに興じることとなった。


おわり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る