100枚目の写真

西田彩花

第1話

 誰にだって、忘れられない恋があると思う。


 なんて、こんなこと僕が考えているって、1年と3ヶ月前の僕に言ったら驚くだろうな。恋愛なんて無縁だと思っていた。僕はそれに、少しだけ憧れて、少しだけ嫉妬して、見て見ぬ振りをするだけだった。


舞乃マイノちゃん。


 もう取り出さないと決めたのに、引き出しに入れていた彼女の写真を眺めている。彼女の眩しい笑顔は、すぐそこに、手に届きそうだ。小学生の頃怪我をしたという左頬下の傷。彼女は気にしているようだったが、僕にはそれすら愛おしかった。


 彼女と約束したんだ。100枚一緒に写真を撮ろうね、と。その約束は果たせたけれど、舞乃ちゃんはもういない。残ったのは写真だけだ。なんだか惨めで、滑稽で。何度も捨てたいと思った。でも、100枚目の写真だけはどうしても捨てられない。


 どうして突然いなくなっちゃったんだ。僕が悪いことしたなら謝るよ。なんで何も言わずにいなくなっちゃったんだ。あんなに愛していたのに、ひどいじゃないか。


 去年の冬は特段寒く、写真で笑顔を見せる舞乃ちゃんは、もこもこしたニットコートを着ている。華奢な体を強調するようだ。その身体に触れることは許されなかった。「結婚してからにしよう、お願い」。照れながらそう言う彼女にやきもきしたけれど、今時そんな純粋な女の子は珍しいと思うようになった。僕は彼女との生活を夢見て、彼女に触れることを夢見た。


 写真の彼女の首元には、僕があげたネックレス。左手の薬指には、僕があげた指輪。彼女が欲しいと言ったもので、僕にとっては少し高かったけれど、喜んでくれる顔が嬉しかった。


 彼女の横に写る僕の姿が、今となっては寂しい。100枚写真を撮るために、柄にもなくインスタントカメラを買ったんだよなぁ。確かに思い出を作りたかったんだけど、思い出だけになってしまった。


 誰にだって、忘れられない恋があると思う。


 僕には似合わないフレーズだと思っていた。だけど、本当に誰にでもあるのかもしれない。


 写真を引き出しに戻し、PCに向かう。未練たらしい自分を忘れるには、ネットサーフィンが一番だ。そういえばインクの在庫がないし、大人買いしておくか。


 フリマアプリページに行く。いつもまずはここでチェックしている。安く手に入れられないか、念のため調べておくのだ。


 ふと、トップページにある新着画像が目に入った。僕が舞乃ちゃんに買ったネックレス。不審に思い、商品ページに飛ぶ。ブランド名やネックレスの良さが書いてある。彼女がよく使っていた顔文字付きで。


 そのID をクリックしてみると、僕が買った指輪の写真も出てきた。頭が混乱した。女性はこうも簡単に忘れてしまうのか。どうして僕との思い出を、こうも簡単に売れるのか。ずっと大切にするって言ってたじゃないか。


 いや、売れば気持ちがスッキリすると思っているのかもしれない。もしかしたら、僕と同じように苦しんでいるんじゃないか。だから、思い出を手放したいのではないか。


 そう考えたけれど、なんだか腑に落ちない。どうして高価なものをねだったのだろう。僕は騙されたのだろうか。


江野舞乃エノマイノ


 検索ワードに入力する。ずっと検索してこなかった。彼女のSNSを見るのが怖かった。SNSはやっていない。そう言っていたけれど。


 検索結果はゼロ。やっぱりSNSはやっていない…いや、ちょっと待てよ。


 引き出しから写真を取り出し、スキャナにかける。PCに取り入れ、舞乃ちゃんの姿を画像検索にかけてみた。


「…あっ」


 舞乃ちゃんの写真がいくつか出てきた。SNSのURLになっている。クリックして青ざめた。


大瀬和希オオセカズキ


 見慣れた舞乃ちゃんアイコンの隣に書いてある名前だ。


 小学生の頃、ボロボロの服を着ていた女の子。いつも髪の毛がボサボサで、おまけに名前が男みたいで。僕はその女の子をいじめていた。いじめていたと言っても、名前や服装をからかったくらいだ。


 だけどある日、じとっとした目で睨みつけるものだから、頭にきて殴ってしまった。ちょうど手に持っていた文房具を持ったまま。運悪くその文房具の先端が顔を引っ掻き、教室は騒然となった。血を流す女の子を見ながら、冷や汗が出た。両親や先生に怒られる、と。


 こっぴどく怒られ、2日間ご飯を食べさせてもらえなかった。学校では全部の当番が僕に押し付けられた。あいつのせいだと思い、僕は最後まで謝らなかった。


 僕はあいつに嫌な思いを抱いたままだったが、いつの間にか忘れていた。


 舞乃ちゃんが、あいつだったなんて。…僕は舞乃ちゃんに謝らなければならない。そうすれば、舞乃ちゃんは戻ってくるかもしれない。舞乃ちゃんは触れさせてくれるかもしれない。


 電話番号をメモした紙がないか、必死で探した。あるはずがない。メモなんてしていないのだから。だけど、狂ったように探した。舞乃ちゃん。舞乃ちゃん。舞乃ちゃん。


「いや、舞乃ちゃんじゃなくて和希ちゃんか…」


 ふと口から出た響に、妙な違和感を覚えた。何かが変だ。


 メモ紙とペンを取り、2つの名前を書く。


–えのまいの、おおせかずき


 …きず。おまえ。2つの単語が入っていることに気づいた。アナグラム。


 ずっとその紙を眺めていて、行き着いた。


–かおのきず、おまえのせい


 背筋がゾッとした。


 やっぱりあいつは嫌いだ。舞乃ちゃんじゃない。大瀬和希だ。百年の恋も一時に冷めるとは、こういうことなのか。あいつのじとっとした目を思い出した。


 腹立たしくなって、デスクを殴る。PCに付いていた画面を消そうとしたとき、目に入ってきた。あいつの笑顔とともに投稿された文章。


「顔の傷は一生残るし、心の傷も一生残るんだよね。だけど、やった方は覚えていない。この世はなんだか不公平だなと思うよ。いつかは顔の傷も、心の傷も、受け入れられるのかな」


 傷に手を添えた写真で、そこにはたくさんのイイネボタンと、励ましの言葉があった。


 僕の中にいろいろな感情が巻き起こり、嗚咽を漏らした。…その感情の意味は理解できない。


 ふらつく足で引き出しに向かい、そこを開けた。見慣れた笑顔、見慣れた傷。その笑顔と傷が愛おしいのか憎いのか分からないままだ。だけどなぜだか涙が落ちた。彼女の傷の上に落ちた涙。この涙で、彼女の傷がふやければ良いのにとぼんやり思った。

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