03 事の裏側と時間外労働

3




 時間は昨日の夜にさかのぼる。

 彩乃が豪の格好から普段着に着替え、リビングに入ってくる。

 ひと足先に着替え終わって、ソファに寝転がっていた豪篤が気になっていたこと口にした。


「なあ、姉貴。このごろ北川さんと大山さんを見かけないけど、どうかしたのか?」


 彩乃の表情が一変し、ふてくされたように唇をとがらせた。


「どうもこうもないよ。そっちに行ってないだけで、隙あらば外回りと言う名のサボりをやってくれてる」


 ソファの前に足を投げ出すようにして座った。


「上は『取材の一環だからいいんだ』とは言ってるけどね。でもね、その分の仕事が私ともうひとりに降ってきて、こっちはひーこらひーこらよ」


 はあーと深いため息を吐き、ぼんやりと正面を見やる。


「取材なんてその気になれば、短期間で終わるって。わざと何かにつけて、ちんたらやってるのが本っ当気に食わない」


 豪篤は上体を起こして体勢を変え、彩乃の肩を嫌な顔ひとつせずにもみ始める。


「なんとかならんもんかね。大山くんは新人だからともかく、あのバカ主任」

「北川さんは明日休み?」

「金曜日に代休を取って、出勤。大山くんも金曜日代休取らされたみたい。あーあ、かわいそうにね。日曜出勤なんて」

「そっか……」

「ま、愚痴をアンタに言っても仕方ないけどさ。あ~、そこそこ。思いっきりやっちゃって」

「……あ!」

「ん? どうしたの?」


 彩乃が思わず振り返る。何かいいことでも思いついたのか、豪篤の口元が緩んでいた。


「明日、優美と俺の元カノが出かけるんだよ」

「何日も前から言ってるじゃん。何を今さら」

「北川さんたちがよく通る通りとか店ってある?」

「あるけど」

「じゃ、そこに優美たちにうろつかせておとりになってもらおう」

「ほー。で、どうするの?」

「かかった瞬間、兄貴が割って入る」

「兄貴って豪のこと?」

「もちろん。兄貴にこう、なんて言うんだろ……」


 豪篤はうーん、とうなる。恐喝、強請(ゆす)り、たかりなどの危険なワードしか出てこない。


「そう、説教をしてもらおう!」

「説教か……」


 彩乃は親指と人差し指で自分の頬肉をもみながら、考えをめぐらせる。


「ありね。豪篤、ナイスアイディア」


 彩乃の顔に明るさが戻ってきた。


「あとは、兄貴がやってくれるかだけど」

「全然問題ないよ。さっきからうるさいくらい暴れてるから」

「じゃ、大丈夫だな」


 そう言うと、彩乃の肩もみを再開する豪篤。

 しばらく身を任せていた彩乃だったが、不意に含み笑いを漏らした。


「どうした? 痛い所でもあった?」

「違うよ。アンタには感謝しなきゃね」

「なんだよ、突然」

「アンタのおかげでコスプレと人格――豪を表に出すことが、また楽しくなってきたからだよ。この件に関しても、私ひとりじゃ解決できるもんじゃないし」

「そうか? でも、俺も姉貴のおかげでいろいろなことがわかった。俺も姉貴に感謝したいよ」

「そ、そう?」


 お互い褒め合ったことで、場が気恥ずかしい空気に包まれた。

 ふたりは言葉を探すが、こういったときに限って、何も思い浮かばないものである。

 10分ほど経ってようやく彩乃が、


「……もう、いいよ。ありがとう」


 豪篤が肩から手を離すと、彩乃が身軽に立ち上がった。


「あー、だいぶ肩が楽になった。なんか飲む?」

「じゃ、ホットコーヒーで」




「お待たせしましたー。抹茶パフェです」


 抹茶パフェが優美の前に置かれ、渚の前にはチョコレートパフェが置かれる。

 優美と渚は、喫茶店に一時的に避難していた。

 昨日とは違う喫茶店である。


「こっちはこっちでおいしそう」


 先ほどまでのおびえて震えていた渚はいなかった。今は子どものように目を輝かせ、チョコレートパフェを食べる。

「おいしいけど……やっぱり、郷子さんが作るのが一番だね」


 抹茶パフェを食べ進めていた優美も相槌を打った。


「郷子さんのは全部手作りなのよ。でないと気が済まないとか」

「職人って感じなんだ」

「雰囲気からしてそうじゃない?」

「ああ~、そうかも。気に入らないと、壺を叩き割っちゃうおじいちゃんみたいな」


 優美は渚の例えがツボに入ったらしく、小さく声をあげて笑った。


「そんなにおかしかった?」

「壺を割る郷子さんを想像したら、結構おもしろかったのよ」

「なるほどね。……ねぇ、優美」


 いたずらっ子の笑みを口元にたたえる渚。


「時間外労働ってしたいと思う?」


 優美は渚が言わんとしていることが、瞬時に理解できた。


「いいよ。食べさせてあげるぐらいのことは」

「えー、ほかのことは?」

「ものには限度があるわ」

「ちぇっ」

「それじゃ、スプーンとパフェを交換しましょうか」


 お互い交換して優美は、いったん渚から視線をはずしてパフェに向ける。パフェの核であるアイスを、スプーンですくい取る。


「おっ、抹茶パフェもおいしいね」


 顔を上げて見れば、優美自身が使っていたスプーンでパフェを食べているではないか。


「優美が使っていたスプーンだから、なおさらおいしく感じるよ」


 舌先を出して渚はおどける。優美は目が点になってしまい、反応しようがなかった。


「はい、あーん」


 渚はまったく意に介してない。パフェがすくわれたスプーンを差し出してきた

 優美はなすがままに口を開ける。自分の舌とスプーンの下部が触れた。間接キス――という言葉が浮かんだが、それ以上の想像は口を閉じることで強引に掻き消した。渚の手によりスプーンが引かれ、唇の内側に食材がぶつかって口内に取り残される。食材を必要以上に噛み砕き、優しくのど奥に落とし込む。


「たまには食べさせてもらうのも、うれしいものね……」


 優美は恥ずかしそうに言う。渚は笑顔で応えた。


「じゃあ、今度は優美があたしに食べさせる番ねっ!」

「わかったわ」


 優美が食材をすくい直して、渚の口内にスプーンを運ぶ。


「う~ん、格別格別~」


 渚は満足気に吐息を漏らして味わっていると、頭に心地よい感触が広がってきた。


「これもよね」

「そうそう。はぁ~、極楽だわ~。そうだ! ねぇ、優美」

「ん?」


 唇に人差し指を当てて、渚は上目遣いで切に願った。


「口移しで食べさせてくれない?」


 たった今食べさせてもらったものが、口から出そうなほど驚く優美。少しキツめの口調で断った。


「正直、これも結構恥ずかしいのに、できるわけないじゃない!」

「だよね……」


 風船がしぼむように、渚のテンションも急激にしぼんでいく。目を伏せてちびちびと優美のチョコレートパフェを食べている。


(仕方ないわね……)


 優美は身を乗り出し、耳元でささやく。


「それより、とびっきり甘いものをあとであげるから、我慢しなさい」

「本当っ?」

「本当よ」


 顔を輝かせ、優美の目を見て訊き返す。優美は勢いにたじろぎながらも答える。


「おお~、なんなのか楽しみ!」


 それからふたりは雑談をしながら、パフェを食べさせあった。

 食べ終わったところで、渚が紙ナプキンで口元を軽く拭きながら訊いた。


「今日はどこに行くの?」

「実はね、知り合いから演劇のチケットを二枚もらってるのよ。よかったらそれを観にいかない?」

「全然オッケー! 早く行こ!」


 渚はさっさとレジカウンターに向かう。


「もう、せっかちなんだから」

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