心に住まう自己
ふり
序章
01 晴れ晴れとした冬のある日
下宿先に手荷物を放り投げた前野(まえの)豪篤(たけあつ)は、興奮した気持ちを抑えきれずに周囲を散策していた。姉が住んでいる所へ来るのは初めてであり、見るものすべてが新鮮だった。
季節的に雪の降り積もる地元は白一色に染まり、降らない地方の人間からすれば、逆に新鮮味にあふれるのだろう。だが、豪篤は18年以上も物理的に雪で隔絶された冬を過ごしていたからうんざりだった。
耐えるしかない冬、行こうと思えば行けるが、時間もかかる上に積雪具合や路面凍結の影響で速度が出せやしない。だったらどこにも出かけたくないのが冬。スキーもスノボーもしないし、雪遊びをする年ごろもとうに過ぎた人間からすれば、冬と言えばもはやこんな認識しかない。
だから、目の前の景色が鮮やかでカラフルに映し出されていた。憎いまでの真っ白な雪と、いつまで経ってもどかない不気味でぶ厚い雪雲がないだけなのに、である。カラッとした日差しを浴びたのは久々で、それだけでも心が華やぎ、自然と口笛も吹いてしまうほどだ。
「太平洋側最高!」
時折吹く風が人々の身を縮こまらせるようだが、豪篤には関係なかった。風の中に雪やみぞれなどが混じっていれば寒い。だが、ここで吹くのはただの少し寒いと感じる風である。着ぶくれするほど着こまなくてもいいのだ。
(こんなにあったかいなら、セーターを脱いでTシャツにダウンジャケットでもよかったかもな)
上機嫌に口笛を吹きながら大通りの歩道を歩いていると、歩道橋の上り口に老夫婦がいた、ふたりとも杖をついていて、奥さんらしきばあさんが先に階段を何段か上り、旦那さんらしきじいさんが空いた片手で奥さんの尻を押し上げているようだった。
やっとこさっとこ一段一段上っている具合で、このままでは誇張抜きで日が暮れてしまうだろう。しかしそれ以前に、じいさんの体力が尽きてしまうのが先かもしれない。
(よーし、ここはいっちょ人助けと行きますか!)
細身の長身だが骨が太く、力には自信があった。親戚の手伝いで米袋の運搬も毎年欠かさずやってきた。その経験を活かすときが来たのだ。
「じいちゃん。俺がふたりのこと反対側までおぶってあげるよ」
「あんちゃんいいのかい?」
「おう、任せといてよ!」
「近頃の若者は貧弱モンしかおらんと思ってたが、あんちゃんは違うのう。それじゃ、ばあさんから運んで――」
「ちょっと待ってください」
高くも低くもない中性的で落ち着いた声が降ってきた。
「ふたりをおんぶするのは大変でしょう。あたしがおばあちゃんのことをおんぶします」
突然現れた女に、豪篤は返事すらできず驚きで目をパチクリさせるだけだった。
(なんだこの、カッコいい美人は……!?)
白いYシャツに青いネクタイを締め、その上にネイビーのカーディガンとさらにその上にデニムのボーイッシュコートをまとっている。
染めていないだろう黒髪がセンターに分けられ、綺麗な額が知性を主張しているようでもある。顔に無駄な肉などない。細い眉に奥二重の瞳、通った鼻筋、薄い唇。メイクも薄く、まるで美少年のようにも見えなくもない。が、ボーイッシュな格好をしてても、胸の主張が隠せておらず、結構なものを持っているものと思われた。
女が動くたびにポニーテールが揺れ動く。黒のスラックスから伸びる足を折り曲げ、女はばあさんを軽々とおんぶした。
(スタイルもいいなあー、めちゃくちゃ色気あるわ。正直顔はドストライクじゃないけど、俺に足りないことを知ってそうだ)
「ええのう。わしもピッチピチの女の子がよかったわい」
男の偽らざる本心に、豪篤は不快な気分にはならず、思わず噴き出してしまった。しかし、納得できない人間がひとりいた。
「じいさん!」
妻の一喝に夫であるじいさんは、首をすくめて小さく悲鳴を上げた。
「人様のご厚意に、みっともないことを言いなさんな!」
ばあさんが女の背中に捕まりつつ半身を振り返り、片手で杖を振り回す。じいさんに当たりそうだったので、豪篤がじいさんを持ち上げて距離を取った。
「すまんすまん、申しわけないのう。わしは若い男も大好きじゃよ」
(そう言いながら背中に捕まられると、ソッチの意味に捉えかねねぇよな……)
そんなことを思いながら、愛想笑いを浮かべてじいさんの冗談話しに付き合う豪篤だった。
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