星へのきざはし
三角海域
星へのきざはし
今晩の仕事がなくなったので、意味もなく車を走らせていた。
冬の冷たく乾いた空気をヘッドライトが照らし出す。どこかへ行こうというわけではない。ただ、この道が続く限りは車を走らせようということだけ考えている。
どれだけ走らせたのか。時計はダッシュボードにしまい、車の時計も隠しているので、今が何時なのかすらわからない。
どれだけ深くなろうと、夜は夜でしかない。
陽光が淡く空を照らし出すまで、夜はただ闇であり続ける。
街の光や人の息遣いがなければ、夜はただの闇なのだ。
煙草に火を点けようとするが、箱は空だった。
ライトはまだ道の先を照らし続けている。
どれだけ走るのだろう。このまま朝まで意味もなく車を走らせることになるかもしれない。
そんなことを考えながら、カーブを曲がった時だった。
真っすぐ伸びていた道は、唐突に終わった。
車を停め、周りを見てみる。どうやら、ゆるい坂を延々と上り続けていたらしい。高台になっており、近くには公園がある。
ダッシュボードから時計を取り出し時刻を確認すると、深夜二時をまわっていた。
どうするか。このまま戻るのも面倒だ。
風が吹いた。冬の空気を孕む、冷たい風だ。高台の分、冷たさが際立った。
吐き出した息が白く染まり、空へとのぼっていく。それにあわせて視線をあげると、星が見えた。
やたらと綺麗な星空だった。冬場で、あまり光がない高台だからだろうか。
車からコートを引っ張り出して着込むと、俺は公園へとむかった。たまにはゆっくり星を見るのも悪くないだろう。そう考えたからだ。
公園は、遊具が置いてある遊び場というよりは、憩いの場という感じだった。ベンチがいくつか並び、遊具はブランコしかなく、あとは小さな砂場があるだけだ。
誰もいない深夜の公園は、どことなく寂寞を感じさせはするが、悪くなかった。
展望スペースのような場所があるらしく、そこへ続く階段があった。そこをのぼっていく。
星を見るなら少しでも空へ近い場所から。それが正しいのかはわからないが、まあいいだろう。ただ俺がそうしたいだけだ。正しいかどうかは関係ない。
階段をゆっくりとのぼっていく。
空を見上げながら一段ずつあがっていくと、俺が単純なだけなのかもしれないが、星が少し近くに感じられた気がした。
頂上にたどり着く。
視線をおろすと、なんと先客がいた。
向こうも俺に気付いたようで、こちらを振り返る。
女だった。
それも、夜遊びして酔いつぶれるようなタイプじゃない。カフェで本でも読みながら洒落たカフェオレでも飲んでそうな見た目の女だった。
無視してもよかった。こんな夜更けに、人気のない公園に一人でいるような女はろくなものではない。場合によっては面倒なことに巻き込まれかねない。
相手もそう思ったのか、しばらくこちらを見た後、視線を戻した。
俺は女から少し離れた場所に立ち、星を見上げた。
夜明けまであとどれくらいだろうか。
音がした。枝が折れるような音だ。
女がいた方からその音がした。そちらを見ると、女が柵を乗り越えようとしているところだった。
「あんた」
声をかけると、女はこちらを見た。
「俺は夜が明けたらここから消えるから、死ぬのはそれからにしてくれないか。隣で飛び降りられたら気分が悪い」
女はきょとんとしている。
「なんだ? 止めてほしいのか? 俺はあんたを知らない。どんな理由であんたが死のうとしてるかを知らない。そして、俺はそれに興味がない。だから止める意味もない。ただ、すぐ近くで死なれちゃ気分が悪いだろう?」
「変な人ですね」
女はきょとんとした顔のまま言う。
「ろくな人間じゃないのは認める」
女は柵から足をおろし、深く息を吐いた。
「バカらしくなっちゃいました」
「そうかい」
「ええ」
「じゃあまあ。とりあえずやめか?」
「そうですね。とりあえず」
女は星を見上げる。月明かりが女の顔を白く照らし出す。
綺麗な女だった。夜が様になる容姿だ。夜の空気が似合う女はたくさんいるが、夜そのものが似合う女はなかなかいない。
「あんた、何してる人なんだ」
「職業ですか?」
「ああ」
「教師です。国語教師」
「先生か。いいのか? こんな夜中に出歩いてて」
「よくないですね」
女はそう言って小さく笑った。
「あなたは?」
「ジャズピアニスト」
「おしゃれですね」
「響きだけはな。やってることは店回りさ」
「やっぱりおしゃれじゃないですか」
「そうか? プロになれなかったいい歳の男が、いつまでも音楽にしがみついているだけだよ」
「でも、音楽でご飯を食べているわけじゃないですか」
「まあね」
「それだけでもすごいことですよ」
「さっきまで死のうとしてた人間に励まされるとは思わなかった」
俺と女は笑い合う。
「どうしてここにきたんですか?」
「今晩演奏するはずだった店から急なキャンセルを受けてね。車で店に向かってる最中だった。もうすぐ着くってところでのキャンセルさ。引き返すのもなんだかバカらしくなって、意味もなく車を走らせてたらここに着いた」
「大変でしたね」
「まあ死のうとは思わなかったし、あんたよりはマシだろ」
女は気まずそうにそっぽを向いた。
「何があったかなんてことを訊くつもりはない」
「すいません」
「だが、俺がいる間は死なないでくれ。気分が悪くなるし、こうして話してるのが、いい暇つぶしになってる。あんたが良ければ、夜明けまでこうして話していないか?」
「いいんですか?」
女は言う。少しだけ、すがるような目をしていた。
「ああ。たいした話はできないけどな」
女は色々と話をした。
和歌が好きなこと。そうした言葉の持つ美しさや面白さを伝えたくて、教師の道を選んだこと。だが、担任になったクラスでの問題や、同性の同僚からの嫌がらせや、異性の同僚からの執拗な誘いに嫌気がさしていること。
「面倒なことが多いんだな」
「ええ」
「そういう積み重ねか」
「……ええ」
「そうかい」
深くは踏み込まなかった。聞いたところで、俺がどうこうできることではない。それでも、話を聞くくらいのことはできる。
「理想と現実を理解しているつもりでした。けど、全然でした。私は、自分が思ってる以上に、夢見がちだったんです」
「夢見がちね。胸に刺さるよその言葉」
「なぜですか?」
「俺は確かに音楽で細々と飯を食えてるが、やっぱり心のどこかにはプロへのあこがれと、プロになれなかったって思いががくすぶってる。俺も夢見がちさ。あんたと同じでね」
俺は言い終えると、空を見上げた。女も釣られるように空を見る。
しばしの沈黙。冬の夜は相変わらず冷たく、澄んだ闇に満ちている。
「鵲の……」
女が何かを呟いた。
「ん?」
「あ、すいません。和歌です。百人一首の六番」
と言われてもわからない。それを悟ったのか、女は続けていった。
「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」
「呪文にしか聞こえないな」
「鵲はその羽で天の川に橋を架け、織女星を対岸に渡したという伝説があるんです。でも、歌自体は冬のことを歌ってるんです。天の川が淡い光を放つ冬の夜空に、羽を広げた鵲の上に積もる霜を幻視する。その美しさを、この短い歌の中で表現してるんです」
女はつま先で柔らかい土をつつく。
「まだここに霜はないですけど、冬の冷たい夜空の輝きも、喩えの力で霜に見えてくるんです」
「なるほど。イマジネーションの力ってのはすごいね」
「私が和歌に興味を持つきっかけになった歌なんですよ」
「ほう。それが今の状況に不思議とあっていると」
「はい」
再びの沈黙。女は夜空を見つめている。
「夜明けまではまだ少しありそうだ」
女がこちらを見る。
「だが、あんたはもう大丈夫そうだな」
言ってから、少し恥ずかしさを覚える。女から目を逸らし、夜空を見上げる。なるほど。確かに、さっきの説明を踏まえてみると、なんだか幻想的に見えてきたような気がする。俺が単純なだけかもしれないが。
「聞いてみたかったです」
女の声。視線を、そちらに向ける。
微笑みだった。とても美しく、見惚れてしまうほどの。
「あなたのピアノ、聞いてみたかったです」
真っすぐな瞳で、言う。
「少しなら」
「え?」
「少しなら聞かせられる」
俺はスマートフォンを取り出し、ピアノのアプリを起動した。
「時々、ベッドに入ったあとの暇つぶしに使ってるんだ。曲はなんでもいいか?」
女は頷く。
ゆっくりと画面をタップし、音を奏でる。冬の乾いた空気に、ピアノの柔らかいメロディが溶け込んでいく。
「綺麗な曲ですね」
「ああ。星へのきざはしって曲だ」
「階(きざはし)。星へのぼる梯子や橋ってことですか?」
「あんたが星にまつわる歌を教えてくれたから、俺も星にまつわる曲をと思ってな。歌詞付きのものもある。洒落たラブソングだ。あんたが教えてくれた歌とはまた違ったロマンティックさがある」
演奏を終え、並んで夜空を見上げる。
「星って綺麗なんですね」
「突然だな」
「私、死のうと思ってここにきたんですよ」
「知ってるよ」
「けど、今はもう星が綺麗っていう気持ちと言葉以外出てきません」
「そうかい」
「ええ」
「いいことなんじゃないか? わからんけどな」
「そうですね。わかりませんけど、きっといいことです」
夜明けはまだ遠い。
けれど、こんな風に夜明けを待つのも悪くない。
俺たちは、互いに名前も知らない。そして、互いの事を知らないまま夜明けとともに別れるだろう。
それでいい。
俺たちは並んで、ただ静かに星を眺め続けた。
星へのきざはし 三角海域 @sankakukaiiki
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