不思議の旅の夢語 ~フシギノ タビノ ユメガタリ~

赤田 沙奈

序章:夢と語り手

深く深く迷い込んだ先で


「おやすみなさい…」


ふと、お母さんのそんな声が聞こえたような気がしました。洞窟の奥深く、竜が護るというお宝を探しに来ていた私は、そんな気配に振り向くと、いつしかそこはお城の長い廊下のようでした。何処までも続く廊下は歩いて行くとどんどん傾いていき、気が付くと私の身体はふわりと浮いて、真っ暗な底にどんどん落ちていくだけでした…。


底ぬけの穴のさらにその先で、いつの間にか私は小さな椅子に腰掛けていました。なんてことのない木製の椅子に柔らかなクッションが敷いてあるだけのものなのですけれど、とても座り心地が良いものです。その椅子に深く腰掛け、ぼんやりとした視界で ーーー えぇ目が眩んだりしたわけではないのですけれど、私の目ははっきりと像を捉えていないのです。まるで、眩しい朝日の中で夢に取り残されて微睡む時のよう ーーー 私が辺りをくるりと見渡すとそこは暖炉が炊かれた温かい小さな部屋でした。煉瓦作りの壁には猫のタペストリーがかかり、大きな書棚には少しばかり日に焼けた古びた分厚い本が並びます。西洋の家、というものを余り知らない私にとってそれはテレビや映画、或いは絵本の物語の世界に迷いこんでしまったかのようでした。でもこの物語の世界は迷いこんでしまった私を拒むことはなく、その雰囲気は優しく迎え入れてくれているみたいで、私はまるで…


「あら、いらっしゃい。お客さんが来てたのね。」


私がその声に少しだけ驚いて、後ろを振り向くとそこには白くてふわふわのガウンを纏ったお姉さんが私に微笑みかけていました。


「ゆっくりして行くといいわ。私は…、そうね、あなた達で言う所の語り手マザー・グースって所かしらね。あっ、そうだ。ほら、あなたも飲むでしょ、温かい飲み物。」


マザーグースは手に持っていたティーポットを少し上に上げて私に問いかけます。


「さて、このポットの中身はなんでしょう?」


マザーグースの楽しそうな問いかけに、私は正解を探してみます。ポットの口から白い湯気が立ち上るのが見えますが、その他にヒントになりそうなものはなくて私は困ってしまいます。


「全く分からないわ。でも珈琲コーヒーだと私は嫌だな。だって、昔お父さんのをちょこっともらって飲んだのだけれど、とても苦かったのだもの。」


そう言うとマザーグースは「ふふ、苦いのは嫌いなのね。」と言って微笑みます。


「でも、大丈夫よ。安心して。きっとあなたも好きなものよ。」


「私も好きなもの?」


私は「うぅん」と唸って考えます。私はポットと睨めっこして温かくて私の好きなものを思い出します。


「えぇと、そうね、檸檬レモンを絞った蜂蜜ドリンクなんてどうかしら。ちょこっと生姜ジンジャーの入ったやつよ。おばあちゃんがよく作ってくれるの。身体がポカポカしてきて、とっても私が好きな飲み物よ!」


私が答えるとマザーグースは「そう、それは良かったわ。」と言い、ポットから蜂蜜ドリンクを大きなマグカップに注いで渡してくれました。マグカップは蜂蜜ドリンクに温められてほんのりと熱を持っていました。私はマザーグースにお礼を言うと、火傷をしないように気を付けながらそっと口を付けます。すると私の口の中にふわりと蜂蜜の甘みが広がり、舌の上では檸檬の香りがくすぐったく、のどの奥からは生姜がじんわりと身体を温めます。私はホッと一息をつくと、安楽椅子に座り編み物を始めていたマザーグースに訪ねました。


「とても美味しいわ!ありがとう、マザーグース。でもね、1つだけ教えて欲しいことがあるの。なんで私が蜂蜜ドリンクを飲みたいってわかったのかってことよ?」


「えーとね…、あはは…」


マザーグースは頬を掻いてちょっと困ったように笑いました。


「そんな大層な事じゃないわよ。ただね、ここはそういう所ってだけ。そうね…、いつもとは違う深い穴とかを抜けた先の世界ワンダーランドって言えば伝わるのかな?」


マザーグースは始めたばかりの編み物を脇に置いて立ち上がると、書棚から1つの本を取り出しました。


「ここにはね、色々な物語可能性があるの。もちろんあなたのもね。だから、なんだけど、、、」


マザーグースはパラパラとめくっていた本をパンッと閉じると私のことを見つめました。思わず私は背筋をピンと伸ばして佇まいを直してしまいます。


「あなたはどうしたい?ここで私が別の世界のおとぎ話聞いたこともない物語を語ってもいいし、ほらっ、そこの扉から不思議の国の探険あなただけの物語を紡いでもいいの。さ、どうする?」


マザーグースが大きな木製のドアの取手に手をかけるとドアはすっと開き、草原の柔らかな風がふわりと舞い込んできました。ずっと夜だと思っていた外は少しだけ眩しく輝いていて、その原っぱから不思議の国の案内人シルクハットを被ったうさぎが顔を覗かせると私は「あっ」と声を出してしまいました。私がドアから顔を出した時にはもううさぎの姿は消えていて、私にはどこに行ってしまったのかさっぱり見当をつきません。


「どこかに行ってしまったわ。私にはご縁がなかったのね。また来てくれるかしら?」


「そうね、世界は猫のように気まぐれだから、そのうちまた来てくれるといいね。」


マザーグースはそっと優しく私の頭を撫でてくれます。


「あのね、マザーグース。お父さんは本当に体験することは本を読むよりも大事な事だってすぐお外に連れ出そうとするの。だけど私はね、本を読んだりすることだってお外に行くのと同じくらい大事な経験だと思うのよ。私はね、あなたのとっておきの物語が聞いてみたいわ!」


私がそう言うと、マザーグースは嬉しそうに頷きます。


「そうね、じゃあそうしましょうか。さて、どの物語がいいかな?なにせ、私のとっておきだもんね。」


マザーグースはハミングをしながら本の背表紙を優しく撫でて、どの物語にしようかと選んでいました。そうして選んだのは深緑色の立派な装丁の古びた本でした。表紙には少しだけ掠れた『Schooren-NcMarvel's Adventures《シューレン・ニクマーヴェルの冒険》』と書かれていました。タイトルの下にも小さく副題のようなものがついていましたが掠れていてanotherもう1つのー…としか読めませんでした。


「これはね、今から話す物語の主人公のアリスって子の世界じゃ有名な昔話なの。これも聞かせてあげたいんだけど、また今度の機会があったらね!アリスにも私にとっても大事な物語なの、これは…。」


そう言うマザーグースの少しだけ寂しげで、愛おしそうにその本を撫でていました。私がその様子を何も言わずに眺めていると、マザーグースはハッとして、何か振り払うようにしてまた笑顔を作ります。


「あっ!それでね、そのアリスって子は勿論あなたの知る不思議の国の少女アリス・リデルじゃないわ。名前は『アリス・ウォーカー』。世界の果てまで旅をした家の子で、アリスもまた旅に出たわ。」


大事そうに本を胸の辺りに抱いてマザーグースは安楽椅子を揺らしながら語り始めました。


昔々の話ではない、こことはちょこっとだけ別の世界の話 ーーー

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