Ⅰ-Ⅹ あの日と同じ星空の下で ②
今、太郎って呼ばなかったか。
後にも先にもその名で呼ばれたのはただ一人。
「あ」
朱音さんと言おうとして俺は言葉を飲み込む。
そんなはずがない。目の前にいるのは確かに碧依だぞ。
「誰だよそれ。どうしたんだ碧依――」
「私が最初に名前を聞いたときにそう答えたでしょ? 朱音さんの記憶力を舐めないで欲しいなー」
「いや、だからあれは偽名だって説明したでしょって、え?」
今碧依が朱音さんって言わなかったか?
「どしたの太郎?」
「それはこっちのセリフなんですが」
マジで頭が追い付いてない。
碧依どうしちゃったの、これじゃあまるで――。
「それもそうかー。説明してなかったもんね。端的に言うと私は朱音です」
どやと言わんばかりに踏ん反り返って碧依は言った。
「今は碧依の体を借りてます。以上」
「以上って――」
「だって、言ったじゃん。『俺だって、朱音さんにさよなら言えてないんだよ』って」
「は?」
「だからこうして朱音さん自ら出てきてあげたんじゃない」
つまり、こういうことか?
俺の言葉を聞いていた朱音さんが、霊的な何かの力で碧依に憑依して、今俺の目の前に立っていると。
「信じられない――、けど」
けれど、朱音さんが俺を太郎と呼ぶのは俺と朱音さんが二人きりの時だけだ。
碧依が一緒の時は、『涼太』と本当の名前で呼んでいた。この事実は碧依が知る由もないはず。
ということは……。
「本……、物?」
多分俺の声は震えている。
だって、もう会えないと思えていた人が急に出てきたんだから。
そんな俺の問いかけに碧、いや、朱音さんは笑顔で頷いた。
「久しぶりだね、太郎。大きくなっちゃって、朱音さんちょっとびっくり」
朱音さんは俺の近くでまで来て、ポンポンと頭を2回、ゆっくりと撫でるように叩いた。
この叩き方、朱音さんそのものだ。
懐かしい、懐かしすぎて――。
「あっ」
気が付くと、俺の目からはポロポロと大粒の涙が零れていた。
手で拭っても拭っても、溢れる思いが止められない。
もう一度会えた、その嬉しさで。
「ったく、しょうがないなーもー」
朱音さんはどこからかハンカチを取り出すと、俺の涙を拭ってくれた。
「もう私と同い年なんでしょ。メソメソ泣かないの」
そういう朱音さんも、涙声じゃないか。
「それにね、時間もあまりないのよ」
朱音さんはハンカチをしまうと、ポツリと零す。
「太郎とお別れがしたいっていう願いを神様に叶えてもらっただけだから、それが済んだら私は帰らないといけないの」
「そんな……」
せっかく会えたのに。
「だからね太郎……、ううん、涼太。今晩だけ、私と一杯お話ししよう」
そう言って、朱音さんはにっこりと笑った。
「涼太と最初に出会った思い出のこの場所で――」
☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆
それからどのくらい話しただろうか。
朱音さんと二人きりで、昔話とか、離れ離れになった後の話とか、碧依と偶然出会った話とか、とにかく色々な話をした。
ある程度の話が終わったところで、俺は一つの話題を切り出す。
「ねぇ、朱音さん」
「ん?」
朱音さんは「何?」と言った表情でこちらを向く。
「俺、朱音さんが好きでした」
唐突な告白。でも今のうちに伝えておかないと、と思った。
「ずっと、ずっとずっと好きでした」
朱音さんは黙ったまま何も答えない。
しばらくの沈黙の後、朱音さんは笑顔で言った。
「ありがとう。でも、ごめんね。私は涼太の気持ちに答えられない」
知っている。
朱音さんには好きな人がいたこと、それからもうこの世の人ではないということを。
「いいんです。俺の気持ちにケジメをつけたかっただけですから」
「ケジメ?」
「はい。いつまでも朱音さんを引きずったままじゃだめだなと思って。でもこれでやっとスッキリです」
俺は晴れやかな笑顔で朱音さんに告げた。
「素敵な恋を、ありがとうございました!」
「ふふっ。どういたしまして、ていうのも変かな」
クスクスと朱音さんは笑った。俺も笑う。
これで、俺の初恋は終わった。思い残すことは、もう、ない……。
その瞬間、遠くの山から光が溢れてくる。
「もう、こんな時間……」
朱音さんがそうつぶやいた。
俺もなんとなく、分かる。あれは日の出、つまりはタイムリミットを意味する。
そうだ、いつかは終わりがくるのは分かっていた。
だからこそ、俺は、思い残しがないように……。
「そろそろ、本当にお別れだね」
朱音さんが寂しそうに言った。
嫌だ。
急にそんな思いに駆られる。
でもそれは俺の我がままだ、だけど。
「じゃあね、りょう――」
「嫌です」
「え?」
「逝かないでください」
「……」
「俺はっ……」
声が詰まる。
「まださよならなんてしたくないですっ!」
俺は、思わず朱音さんを抱きしめた。
「りょ、うた?」
何故そんなことをしたかって? 俺が知るわけがない。体が勝手に動いたんだ。
思い残したことはないんじゃないかって? そんな訳ないだろっ!
「昔みたいに、また3人で遊びたいです」
「うん」
「お酒も一緒に飲みたいです」
「うん」
「もっと話がしたいです」
「うん」
「だから……」
「うん」
わがままだ。単なるわがままが連なっていく。
けれど、それを分かったうえで、朱音さんは優しく返事をしてくれる。
朱音さんは、ゆっくりと俺の後頭部を撫でながら、優しい返事をくれた。
「逝っちゃ、嫌ですよぉ……」
朱音さんの肩を俺の涙が濡らしていく。
せっかく会えたのに、なんで、もう『さよなら』なんだよ。
「涼太、ありがとう」
そう言うと朱音さんはギュっと俺を抱きしめた。
そして、すっと離れていく。
朱音さんの顔を見ると、朱音さんは満面の笑顔だった。
「私を好きになってくれてありがとう」
朱音さんの頬を一筋の涙が伝う。
「私のこと忘れないでね」
「嫌だっ!」
俺は手を伸ばす。
キーンという耳鳴りの中、必死に朱音さんを繋ぎとめようと手を伸ばす。
彼女の手を掴めば、まだ彼女はここに残ってくれるんじゃないか、そう思って手を伸ばす。
そして俺は朱音さんの手を握った。温かい手の温もりが伝わってくる。
一瞬安堵する、繋ぎ止められたんじゃないかって。
だけど、俺は悟った。
「さようなら」
紡がれたその言葉、それが意味することを。
東の空にある朝の光は、残された一人の男と、その胸に倒れこむ一人の女の子を照らし始めていた。
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