第286話 旅程7


「八城……?八城だよね!」

聞き覚えのあるその声に顔を上げれば、駆け寄って来たのはよく見知った、八城にとって日常の象徴である看取草紫苑が十字路に夕日を背に立っていた。

「……お前、看取草?なんで一人でこんな所に……一華と他の奴らはどうしたんだ?」

「そんな事より今は八城の事だよ!大丈夫?足がフラフラだけど?何処か怪我してるの?やっぱり無茶だったんだよ……あんなにいっぱい感染者が居る中に一人で残るなんて!」

どうにか立っている様子の八城へ看取草はすかさず駆け寄り肩を貸しながら、八城の顔色の悪い顔を覗き込んで来る。

「ほらやっぱり今の八城顔色も悪いし、体調が良くないんでしょ……それなのに一人で無茶して、八城が噛まれたらどうするつもりだったの……」

怒り半分悲しみ半分の看取草に支えてられてようやく八城は重い足取りを前に進ませる事が出来た。

ゆっくり一歩づつ、看取草も八城の歩幅に合わせて歩き出す。

「私、あの一華?って人に聞いた。あの子達を八城が安全な場所まで守って来たって……それで何度も八城が囮を引き受けたんだって……だから今回も大丈夫だってあの女の人は言ってたけど……やっぱり探しに来て良かった」

「悪い……心配かけたみたいだな」

肩を借りながら歩き、曲がり角を抜けて後は道を真っ直ぐに歩けば四階建てのビルがある。

そして、薄暗いビルの入り口、土埃が薄らと積もった受付ディスクには行儀悪くあぐらをかいている一華が居た。

「あらあら、どうにかこうにか帰って来られたってところかしらね〜でも、これじゃあ今日の八城は使い物になりそうにないわね……ってあら?八城?私があげた刀はどうしたのかしら?」

人の心配よりも、まず武器の心配をする辺り腹立たしい気持ちがない訳でもないが、一華なら仕方がない。

八城はそれよりも、一華に確認しなければいけない事がある。

「感染者相手に使ってたら折れて使い物にならなくなったんだよ……それよりお前に話がある」

一華がフレグラと言っていた丸薬だが、八城はその味に憶えがあった。

それもここ数日、一華が食料調達を請け負ってからずっと『フレグラ』からは憶えのある味がした。

「ここじゃダメなのかしら?」

「お前がここでも良いならここでしてやる」

憶え、と言うにはあまりにも最近の事だ。

それは三日前から、今日の昼にも感じた甘さ。

その味を八城は間違える筈もない。

「お前……ここ数日の俺の飯に何か混ぜただろ……」

「フフッ混ぜたぁ?具体的にはなんのことかしらぁ?」

「とぼけんなよ!お前がこの三日間作った飯の後味と、お前が寄越したあの薬、全く同じ甘い味がしたのはどういう理屈だ!」

八城はあの味に確信があった。

この三日で食べて来た一華の食事に毎回あった異様な甘さだ。

そして思った通り、八城の言葉に一華は悪びれる気配もなく、八城の追求を笑い飛ばす。

「フフッハハハッ!よくもまぁ気付いた、と言ってもまぁ気付くでしょうね〜でもね八城、三日前から私がフレグラをアナタのご飯に混ぜておいたからこそ、今日の八城は生き残れたのよ〜アナタは私に感謝こそすれ、文句を言うなんてお門違いもいいところだわ〜」

いつも以上に一華の声が不快に感じるのは気のせいじゃない。

何が起こっているのか分からない看取草は、何故八城が怒っているのか見当もつかず、あたふたと二人の顔を交互に見ているだけだが、一華は看取草など眼中にないと視線を払いのけ八城の胸元を掴み上げる。

「それはそれ、これはこれ。今のアナタが怒っているのは別の問題よ。八城、アナタは今『これ』が欲しくて欲しくてたまらないだけなんだから〜怒ってる振りをして私の気を引いたって無駄よ」

指先でヒラヒラと振る半透明のビニールの中には八城が恋い焦がれたあの丸薬が入っている。

そして八城は、その揺れる指先から視線を切る事が出来ない。

そうだ、きっと食事に混ぜ物をされた事に怒っているのではない。

いや、通常時であるなら依存性の高い薬を混ぜられ身体に異常をきたしている事に怒りを覚えるのだろうが、今は違う。

何故、あの丸薬を寄越さない?

何故勿体ぶっている?

それを寄越せ……

早くこの根底から湧き出る欲望への乾きを、その小さな丸薬で癒してくれ……

欲求が止まらない。

欲しい……

今はあの錠剤の事以外を考えられない……

背中を抜ける快感が今も身体にこびり付いて離れない。

「分かった、混ぜた事ももういい。だから頼む……一華……もうこれ以上は……」

「これ以上は?なにかしら?ちゃんとお願いしてみなさいな八城〜そしたら考えてあげるわ〜」

ヒラヒラと袋に入った錠剤を指先で弄ぶ一華に、焦りを募らせる八城を見て蚊帳の外だった看取草は八城と一華の間に割り込んだ。

「八城に何をしたんですか!八城こんなに苦しがってるんですよ!それなのになんでそんな事を平気で言えるんですか!」

怒りを露わに八城を庇う様に立つ看取草だが、一華は見下す様に看取草の前に鞘に納めた刀を突き出した。

「そうね〜建物で奴らに囲まれるような馬鹿丸出しのアナタ達を助けたせいで、八城はしなくてもいい苦しい思いをしているわ〜まぁ、いずれ通る道ではあるけれど、これはアナタ達が愚かだったから招いた結果よ〜あら!そう考えたらとんだとばっちりね〜八城〜」

「私達のせいなら私が謝ります!だから八城を責めないであげて下さい!」

どうやら、一華が責めているのだと勘違いした看取草は挑発し続ける一華へ犬歯を剥き出しに食って掛かったが、一華はさして面白くもなさそうに鼻で看取草の言葉を笑っている。

「アナタ〜何も分かっていないのね〜今八城が必要なのはアナタじゃなくて私なのよ〜無能なアナタが私に謝ってそれがどうしたのかしら?私はね〜その言葉を八城から聞きたいの」

一華の手で八城を陥れたのにも関わらず、悪びれる事なく服従を要求する姿勢は、悪趣味もここまで来れば付け入る隙がない。

悪人に善意を訴えた所で、響く余裕などある訳がない。

「さぁ、言いなさい八城。もう限界でしょう?アナタ最初に四錠あげたフレグラを一気に飲んで、更にその後極め付けの一錠も服用した。死んでもおかしくないぐらいの過剰摂取よ。ここから少しずつ薄めていかないと、八城の身体が保たないわ」

「八城そんな人の言う事聞いちゃ駄目だよ!私がなんとかしてあげるから!そんな人に頭なんて下げないで!」

看取草の言う事は正しい。

だが正しさで我慢など出来る乾きではない。

八城は抗う理性に反して、地面へ座り込む。

「待ってよ八城!それってやっぱり私達が八城に助けてもらったからでしょ?ならなおさらだよ!今度は私が八城を助けるから!だから……ね?」

引き止めようとする看取草の手を八城はソッと引き離す。

「……これは、お前のせいじゃないし、誰のせいでもない。これは俺のせいだ……」

あの時、判断を誤った。

看取草を助けに行く事か?

『それは、違うな』

一華の用意し食事に疑問を抱かなかったことか?

『いや、きっとこれも違う』

なら、一華の強さに憧れを見た事か?

『……違う、判断を間違えたのはもっと前の自分自身だ』

あの時、子供達を助ける姿を見て野火止一華を一瞬でも『まとも』などと思いあまつさえ八城が野火止一華の手を取ってしまった事にある。

なら責任を問うのであれば、その責任の発端は八城にこそあるのだろう。

「これは俺の責任だ、だから看取草は気にしないでくれ」

一華の言う事は八城を知り尽くしているかの様に正確だった。

もう一分一秒たりとも、抗えない。

この苦しみから解放されるなら何でもいい。

どんなに惨めでも、この乾きに勝る苦痛はないのだから。

「お願いします、俺にその薬を分けて下さい……」

力の入らなくなった足を揃え、八城は惨めにも地面に頭を擦り付けた。

一華の笑い声は聞こえないが、八城を満足げに見下した後に看取草へ指に挟んだ錠剤を放り投げた。

「はい〜よく出来ました〜全部で五錠あるわ〜苦しくなったら一日一錠ずつ飲みなさい。どんなにのみたくなっても一日に一錠だから〜きっちり守らせなさいね〜」

悠々とビルの上層へ上がっていく背中を、渡された錠剤を握りしめ睨みつける。

「看取草……頼む、それを早く俺に……」

看取草の手に持つ薬が欲しい。

八城は抗えず、看取草へ手を伸ばすと看取草は頬を赤らめながら身を捩る。

「あっ!ごっごめん八城!今あげるから!ちょっと待って!」

看取草から手渡された錠剤をのみ込み、噛み砕きじっくりと味わう。

脳天までむせ返る様に突き抜ける甘さと、弱い快楽が八城を包み全ての疲れが一斉に押し寄せる。

「八城?ねえ!大丈夫!?八城ってば!」

看取草の絶叫を聞きながら八城はようやく、疲労と眠気の中に落ちて行く事ができたのだった。

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