第275話 あの日2
双子を見捨ててから二日目の朝。
ふと、気になって二階の窓から、遺体が転がっていた道路を見下ろした時の事。
ある筈の物がない……
家の前で倒れていた家族四人の遺骸が忽然と姿を消していた。
だが、彼らが居た確証は今尚赤黒くこびり付いた血痕に刻まれており、あの出来事が現実であった証拠として残っている。
だが八城を焦らせたのは他の事だろう。
数日前に水道が出なくなり、気晴らしに付けていたテレビも電気が通っておらずただの黒い板に成り下がった。
今日が終われば、貯めていた水も食料も底をつく。
極め付けに真夏だというのに電気の供給も止まっているため、エアコンが使えない家の中は蒸し風呂の様に暑い。
それは詰まる所、来るべき時が来るべくして来たという事だ。
八城は学生服に身を包み外に出る為の身支度を整える。
外には人を食う得体の知れない化け物が居る事は確かだ。
出たくはない、だが生き残るために外へ出るしかない。
八城以外は誰も居ない家を後にする書き置きを残し、当分帰る事は無い家の玄関に施錠を施し家から外へ出た。
最初の数日続いていた喧騒はおさまり、今は早朝の朝日と電柱にとまっている鳥の鳴き声が聞こえて来るだけだ。
朝露に濡れた路面と人気が無い事以外は特出した変化の無く、いつも通りの朝の通学路と変わらない風景がそこにはあった。
「ハハッ……なんだよ……思ったより全然大した事ないな……」
虚勢を自分自身に言い聞かせ、朝の日が高くなる前の道路を警戒しながら進み始める。
このまま家に立て籠るには全てが足りない。
水も食料も環境も……何より生きている人と話がしたい。
だからこそ八城は、家の中にあった避難の手引きと書かれている紙に記された避難所へ向かう事を決意した。
家族と合流が望めない以上、指定の避難所を目指す事が最も無難な選択だろう。
避難所に行けば飲み水も食事もある。
そして何より生きている人が居る筈だ。
そう、『筈』だと……今はそう信じるしかない。
このリュックの重さがまだ重い内にと八城は目一杯の勇気を振り絞る……
ズッシリと感じる背中に背負ったバックの重さは、八城の命の重さと同等の価値がある。
この重さの大半は数日分の食料と二日分にも満たない飲み水が入っているが、それはつまりこの重さが底をつけば八城の命がそれまでという事でもある。
静かに……そして確かに過ぎていくタイムリミットに焦りを滲ませなが、日中になるにつれて激しくなる日差しを一身に受けて八城は避難所に向けて進路を取り、車が乗り捨てられている見晴らしの悪い道路を進み続ける。
住宅街を抜け幹線道路を抜け、またしても道の狭い住宅密集地を歩いていく。
物音を殺し、足を忍ばせ不気味な程に誰も居ない住宅街を歩き続けて居ると思わず顔を顰め、匂いの元である鼻を覆い隠した。
「なんだ?この匂い……」
最初に八城が感じたのは匂いだ。
嗅いだことのあるどの匂いにも属さない、知らない匂い。
鼻の粘膜を劈く痛みにも似た刺激臭が風と共に前方から流れて来る。
避難所は地図で見たところ大通りを抜けて一本道だ。
匂いの根源である方角を通り抜けた方が避難所に行くには近道だ。
八城は強くなる臭気に胃から込み上げる吐き気を喉元で押さえ込み、真っ直ぐに最短距離で避難所の方向へと歩き……
それを、見た。
居た……いや……あった。
そう言うのが適切だ。
曲がり角の隅、白い何かが折り重なり液状になった乳白色と赤褐色の混じった橙色はアスファルトの一帯を埋め尽くし、激しい匂いを放って
そこにあった。
一歩八城が近づけば瞬間に凄まじい量の羽虫が飛び立ち、そして我先にとその腐敗した液状へと舞い戻る。
網膜の裏に光景を映し、一つ呼吸をした直後胃から込み上げる衝動によって八城は地面を見ていた。
喉の奥から込み上げる酸味が喉奥を焼きながら逆流し、アスファルトへ新たなクリーム色の豪奢な彩りを加えていく。
嗚咽と共に呼吸を整えてはふとした匂いに吐瀉物を撒き散らし、散々に吐いたところでようやく胃の奥の衝動は収まった。
「何だよ!なんなんだよ!これ……」
一見しただけでは状況を飲み込む事が出来ない。
ただそこにあるのは、折り重なった液状のなにか……
その折り重なった部分から垣間見える白い棒状の物は、見紛う筈も無く人の骨だ……
「これ……全部人の死体なのか……」
言葉にしてようやく八城は合点がいった。
それは紛れもなく何十人という人の人骨だった。
人間を象るために付いていた筈の肉は、この炎天下で腐り落ち今朝方降った雨と混じり合い液状となって腐敗臭を漂わせながら蛆の餌となっている。
化け物に食われたのか、人にやられたのか分からないが見れば見るほど気がおかしくなりそうだ。
八城はバックに入っていた温いミネラルウォーターを一口含み、酸味の残る口をゆすぎ吐き出して、その光景を背に歩き出す。
おかしいのは最初から分かっていた筈だ。
双子を見捨てて、友人を見捨てて彼らがどうなったのかは言うまでもない。
だから今は忘れて進めと八城は重い足取りを前に向ける。
道のりは然程遠くない、焦らず慎重に……
そう自身に問い直し、二つの光景を思い出す。
四人家族と、腐敗臭……
そして友人……
震える足を前に……と、そう思っても涙が零れ落ちて景色が滲む。
「なんで……どうして俺が、こんな目に遭わないといけないんだよ……」
数日前までの退屈ながらも恋しい日常は失われ、八城の前には目を背けたくなる現実だけがベッタリと並べてある。
血に塗れた路地裏を抜けて、車が燃えた後の横断歩道を渡り、光の灯らない信号機を見上げて込み上げて来る涙を袖口で拭う。
「もうすぐだ……もう直ぐ、人に会える……」
気付けば避難所まで数百メートルといったところだろう。
人と会う事冴え出来れば、八城の中で何かが変わるかもしれない。
この曇った気持ちも少しは晴れるかもしれない。
今はそれだけを信じて進むしかない。
「この道を抜ければ、避難所が……」
炎天下の中歩いた疲れも忘れ、八城は避難所への道を駆け抜けた。
そして、八城は本当の意味で知る事になる。
この世界の法則は弱肉強食で、それは誰にでも適応されるという事を……
一歩、先へ進んで八城は異変に気が付いた。
避難所の中、確かに何かが蠢く音が聞こえて来る。
それと同時に、小さな鳴き声と、呻き声……そして、『助けて……誰か助け……』
避難所の鉄扉の向こうから聞こえて来た言葉は、あまりにも決定的だった。
それは避難所で八城が言うための言葉で、誰かに言われる言葉ではない……
「なんで……だよ!どうして……」
鉄扉に触れた指先は震え、この先の現実を拒んでいる。
見れば最後、認めなくてはいけない。
引きこもっていた家の二階の薄いガラスの向こうで起こった四人家族の死。
交差点で見た液状の人々。
此処に来るまでに見た全ての出来事を……
「クソックソ!クソったれが!なんで、俺が……俺が!」
立ち止まって左の指先を震える右手で押さえ込み、半開きになっていた避難所の鉄扉を開け放つ。
物音と共に、一斉に八城へ向かう視線はよく知る視線だ。
虚無と、虚空を眺める
生気を感じさせない焦点を結ばない人ならざる者たちの興味が、立ち入った八城へ向けられる。
恐怖で足は竦む。
それでも高校に入学してからの一年と少し、陸上を齧っていた八城が逃げられない相手ではないはずだ。
化け物に混じり数人の生き残りが確認出来るが化け物の数が多くの割合を占めている。
だが、生きている人がまだ居る。
八城が最も求めた生きた人がまだ此処に居る。
まだ助けられる。
もう、無関係では居られない。
化け物と八城の間には壁はなく、動かなければ即座に八城に向かって来るだろう
なら――
「おい!化け物!コッチだ!こっちに来い!」
なけなしの勇気を振り絞り、腹の底から声を出し奴らの注意を引きつける。
これは人の為じゃない。
これは自分の為だ。
とにかく、生きている人と話がしたい……
食事を共にしてこれまでの事を話したい。
理解して、この訳の分からない世界の事を共有したい……
なら、一人でも生き残って居てもらわなければ困る。
一体目の視線が八城を捉え、続き避難所の中に居た数十体が一斉に動き出す。
「そうだ!こっちだ!こっちに来い!」
リュックを降ろし、相手を引きつける。
限界の限界まで、その恐れを押し殺し……
八城は囮になる為のスタートを切った。
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