第276話 あの日3
灼熱に茹でられた釜の様な炎天下の中を振り返る事なく走り続け、後ろに何も居ない事に気付いて立ち止まった。
長距離を得意としていた八城はこの時ばかりは呼吸の方法も忘れて、がむしゃらに走り続けた。
一キロ、二キロと十分に引き離し、奴らの影が見えなくなったのを確認し、渇きをどうにかしようと幹線道路沿いにあったコンビニに入る。
無人のコンビニの奥へ進み、適当に飲み物を手に取ると温さが際立つが、今は贅沢を言っていられる場合じゃない。
乾いた喉へ一気に流し込めば、砂漠の様に乾いた喉へ潤いが染み渡っていく。
「俺は……逃げ……切れた……のか……」
早さとしては早歩き程度で奴らの足は決して早くはない。
だが奴らは何時まで経っても疲れを知らないとついて来る。
だからこそ、八城は最初から全力で走り抜けた。
でなければ奴らは永遠についてくる。
だがそれでも引き離すまでに一キロ、完全に振り切るまでに二キロ掛かった。
八城は陸上経験者で、決して足が遅い方では無いし体力も人並み以上には持ち合わせている。
クラスで足の早さを競うなら間違いなく名前が挙がり、学年の代表として体育祭に参加した事もある。
その八城が引き離すのに二キロ掛かった。
「クソ!あの化け物は一体、なんなんだよ!いつまでも……いつまでも!追いかけてきやがって!」
八城自身決して万全とは言えない、だが不調かと聞かれればそれも違う。
ある意味いつも通りの八城で、ギリギリだった。
最初で振り切れなければ、後は体力が尽きた八城の負けになっていてもおかしくはない。
背筋を駆ける嫌な想像を洗い流す様にもう一本のボトルと空け。頭から水を流していく。
八城は予備用に更にもう一本水の入ったボトルを手に持ちバックヤードに箱ごと残っていた水を次来た時飲める様に棚の内側に隠しコンビニを出る。
今来た道を戻るのはあまりにも危険過ぎるだろう。
幼い頃に自転車で遠出した時に見た景色を横目に見ながら、迂回路を進み避難所に置いて来た荷物を取りに避難所へ急ぎ歩き出す。
恐る恐る、また一歩と街を歩く中で気付いた事がある。
一つは、八城自身が住んでいたこの町が本当の意味で変貌しているという事。
そして二つは、人を食う化け物達の事。
今八城の目線の先で、人が人を食っている。
そして、その人の形をした人を食う化け物は数人掛かりで一人の血肉を貪っているが、後ろに居る八城には見向きもしない。
ただひたすら倒れている一人を食いつくす為に夢中になっている。
見つかればまた地獄の鬼ごっこが始まるのだろうが、奴らが此方を振り返る事はなく、血の蟠りに向かって一心不乱に残った肉を食らっている様子から、一人を食っている間は注意が散漫になるのだろう。
こちらに気付いていない合間に、八城はその後ろに回り込み物音を立てず通り過ぎ、無人の街を歩き続け、正午から少し日が傾いた頃、八城はようやく避難所へと到着した。
入り口付近に投げ捨てて来たリュックは無く、八城が開けたまま走り出した鉄扉も今は固く閉ざされていた。
「おい……おいおい!なんだよそれは!」
内鍵が掛かっているのか鉄扉は微動だにせず、少ないとはいえ、唯一の食料であるリュックも何処かへ行ってしまった。
自分のためとはいえ、人を助けた代償が持ち物を全て失ったのでは割に合わない。
「誰か居るんでしょう!俺のバック何処に言ったのか知らないですか!」
扉が勝手に閉まる筈は無い。
鍵までご丁寧にかかっているのだ、中に誰かいるのは明白だろうが、呼び掛ける八城の声に返事は無い。
「……クソったれ!全員死んじまえ!」
ドアに一発蹴りを入れ、八城が後にしようとした時……
「さっきの少年か?」
その声に八城は振り返る。
約一周間ぶりに聞いた人の声は、少ししわがれていて、確かに人の息づかいを感じる事の出来る確かな人間の声。
「一つ確認したいんだが、キミは感染者に噛まれては……いないんだな?」
「感染者?噛まれる?俺は誰にも噛まれてなんてないですよ!いいからここを開けてください!」
噛まれる?
そう扉の向こうの問いかけに一瞬なんの事を言っているのか分からなかったが、扉脇に飛散している血痕の後を見て扉の向こうの主は『奴ら』の事を言っているのだと思い当たる。
「もし俺が噛まれていたら、ここは開けてもらえないんですか?」
「万が一キミが噛まれていたら、もう長くない。だから開ける必要が無い。だからもう一度聞く……キミは本当に噛まれていないんだな?」
噛まれていたら長くない?
扉の向こうの男が何を言っているのか分からないが、八城は何処も噛まれておらず、奴らに触った事も無い。
「だから噛まれてないって言ってるだろ!そんなに気になるなら今すぐ服を全部脱いで見せましょうか?」
リュックを取られ、走った為に体力の消耗も激しい。
それに少しずつ日が西へ傾き始めているため、この避難所がダメなら今日の夜安心して眠れる場所を探さなければならない。
扉の向こうから、少しの話声が漏れ聞こえて来るが何を言っているのか分からない。
「俺をこの避難所に入れたくないないならそれでもいい!ただ、俺のリュックだけは返してくれ!」
苛立ちと共に声を荒げた八城だったが、返答は以外にも鉄扉の施錠の外れる音と共に返って来た。
「……分かった、キミを信用しよう」
閉ざされていた扉が開き、体育館の様な広い空間に男女二十人程度の人間の困惑の瞳が八城を捉えていた。
「やはり、キミがあの時助けてくれた少年だったかのか……」
そう喋るのは扉を開けてくれた三十代前後の男性だった。
「助けたつもりはないですけど、まさか避難所に入れて貰えない事になるとは思ってもなかったですけどね」
扉を開けてくれた男性は八城の一言に気まずげに瞳を逸らす。
「本当にすまなかった、さぁついて来てくれ」
地域に住んでいるなら誰でも入る事が出来る地域指定の避難所に来た筈なのだが、八城を避難所へ入れたがらなかったのには何か理由があるのだろう。
避難民である人々の奇妙な視線に晒されながら八城は男に促されるまま、避難スペースを通過し小さな個室へ入る。
「悪いが、ここで今身に纏っている衣服は全て脱いでくれ」
「脱ぐって……ここで全部脱ぐんですか?」
「あぁ、全部だ。安心してくれていい、俺以外には誰にも見られる心配はないからな」
冗談などが言える雰囲気ではない。
この男は至って真面目に八城に脱げと言っている事は明らかではあるが、真面目に脱げと言われて素直に全裸になる人間など居ないだろう。
少なくとも八城は『脱げ』と言われて素直に全裸になれる人間ではなかった。
「だから!さっきも言ったけど!俺は噛まれてないって言ってるでしょう!」
「そんな言葉は信用出来ない!その嘘を信じてこれまで何人の人間が犠牲になったと思ってるんだ!」
八城に向けて言うというより、その声は扉の向こうに居る住人に聞こえる様に言っている節が感じられる。
だがそれよりも八城は男の『犠牲』という言葉の真意が理解出来なかった。
八城は事態が飲み込めず、ただ男の剣幕に推し負け、ただただ黙るしかない。
「いいから早く全部脱げ、キミが噛まれていないと此処に居る住人に証明できさえすればいいんだ」
しきりに扉の向こうを気にする男は、八城だけに聞こえる様に耳打ちした後、数歩下がり八城が服を脱いでいく姿を見守っている。
全ての衣服を脱ぎ、男は入念にあらゆる箇所を隅々まで見て、八城の身体が噛まれていない事を確認し終えると、ようやく服を着る事が許される。
「それで?俺をこんな個室で脱がしてわざわざキンタマの裏まで確認した理由は教えてくれるんですよね?それから俺としてはアナタ達を助けたつもりだったんですが、あなた達にとっては余計なお世話でしたか?」
追い出される事も覚悟して言ったつもりだったが、以外にも素直に男は八城へ頭を下げた。
「いや、正直助かった。あの状況は俺たちで埒があかなかったからな。住人の皆もキミに感謝しているはずだ」
「……そうですか。その割には、無理矢理裸にさせられたり、あんまり歓迎されている様には見えませんでしたけど……」
「キミに感謝している事は事実だが、キミが噛まれていないかどうかは別問題だ。キミがもし噛まれているのなら、此処に居る避難民全てに危険が及ぶ、その場合俺はキミを殺さなければいけなくなる。……だがその心配はない。キミは噛まれていない。俺が証人だ」
八城の裸を見終わった男性は一安心した様に未だ封の切られていないペットボトルを投げて渡して来る。
八城は態度の変わり様を訝みながらも水の入ったペットボトルを受け取り、帰りの道程で乾いた喉を潤していく。
正直蒸し風呂の様な部屋の温度にこの水は有り難い限りだ。
受け取ったペットボトルのキャップを毟り取る様に開き半分程を勢い良く飲み干すと、八城の飲みっぷりに男は感心した様に笑いかけて来た。
「しかしよくあの数の感染者から一人で逃げ切ったものだ。大の大人、数人でもあの数の感染者から逃げるのには苦労するんだ。キミは大したものだよ」
「……ずっと気になっていたんですが、そのアナタが感染者って言ってるのはあの化け物の事を言ってるんですよね?」
「俺がそう呼んでいるだけだがアレは正真正銘人食いの化け物だ。あの化け物に噛まれれば、人は死に、人食いの化け物に生まれ変わる。だからこそキミの噛まれていないという確証が欲しかったんだ」
男の言葉に息が詰まる。
考えたくはなかった。
何故街に人が居ないのか。
何故至る所に血痕があるにも関わらず、人の死体が少ないのか。
何より、家の前に倒れていた筈の四人家族は何処に行ったのか?
双子の最後は見ていない。
だが双子の両親は共に致命傷を負っていたのは間違いない。
だが吹き出た大量の血溜まりを残して、あの四人家族の遺体は忽然と消えてしまっていた。
「その化け物……いえ、感染者は死んだ人間を生き返らせる事が出来るという事ですか?」
一縷の望みを掛けて問い直した八城の問いに男は首を横に振る。
「死んだ人間が生き返る訳じゃない。感染者とは人の形をした人を食う化け物だ。人が人を食う……つまり、感染者に噛まれれば感染者になる。強いて言うなら死体が動くと言った方が分かりやすいかもしれないな」
居なくなった……いや、家の前にあった筈の死体が消えた理由。
噛み付かれ、襤褸切れの様にアスファルトに転がっていた遺体。
あの四人家族は今も……
その様子を想像すれば、水しか入っていない胃袋からまたしても吐き気が込み上げる。
「どうした?顔色が良くないな、何かあったのか?」
「……いえ、少し前に家の前で四人家族が襲われていて、その遺体がなくなっていた理由が分かって……」
つまり、あの四人家族は今もこの町の中を彷徨っているということだろう。
『助けて』と訴えた瞳の少女も、今頃何処とも知れない夕暮れの道を歩いているかもしれないという事実が八城の脳裏をキリキリと覆っていく。
「あまり気にしない方がいい。ここの避難所も最初の一日は百人近い人数が居たが、半日もしないで半分以上の人間が感染者に食われた。この数週間で犠牲になった人間なんて数知れない。キミが見たというその家族だってそんな大勢のほんの一部だ」
気休めだ、間違いなく『助けて』と唇を滑らせた少女の求めに俺は応える事が出来なかった。
少女は知っていた。
八城よりも早く現実と直面して、自分がこれからどうなるかを知っていた。
そうだ、最初に避難所の中を見た時、目の前のこの男も戦っていた。
後ろに女子供を庇い、避難所の中で彼は感染者と呼ばれる者たちを殴り倒していたではないか……
それに比べて八城はどうだ?
友人を助ける事も出来ず。何もせず、ただこの数日を消費して助けを求めて此処に来た。
保身に走る事が悪い事だとは思わない。
ただそれでも、無力な双子を助ける方法を考える事すらしなかった自分自身の薄情さに嫌気が差す。
方法を全て試したか?
あらゆる考えを巡らせたか?
助けられた筈の命だったのではないのか?
誰も知らず、黙っていれば咎められる事も無い。
それでも、初めて求められた助けに八城は自分が安全な場所に居たからこそ、最も愚かな選択をしたのではないのかと、自身に問い直し。
八城は何かを出来たにも関わらず何もしていなかった事に気が付いた。
「俺は……臆病者だ」
呟くと力無く項垂れた八城だが、男は項垂れた八城の肩を強引に掴み、
「それは違う!キミは俺達を助けてくれたじゃないか。それにキミがもしその少女を助けてキミ自身が感染者になっていたら元も子もない!キミは自分の出来る事をやったんだ。出来なかった事を悔やむ必要なんてないだろう」
良いから来いという男に無理矢理に追いやられ、八城は引きずられる様に避難スペースの壇上に立つ。
「見ると良い」
そう言って、八城が連れて来られたのは、学校の体育館の避難スペースである。
そこには、少なくない人たちが壇上に立つ八城を見上げている。
「此処に居る21名、キミが身を挺して守った命だ。キミがいなければ此処に居る誰も助からなかったかもしれない。助かったとしても誰かが犠牲になっていたかもしれない。キミは誰とも知れない、我々の危機をキミ自身の危険を顧みず、救ってくれた」
小さい拍手を送って来る住人に対して俯いた八城に男は震える八城の肩を掴み、眩しいぐらいの笑顔を見せる。
「キミは立派だ!此処に居る誰にも出来ない事をしたんだ。胸を張っていいだ」
男に背中を押されそのまま壇上を下りていくと、色々な人が八城を囲み笑顔を向けては食料を手渡してくれる。
彼らだって手持ちの食料は多くはない。
にも拘らず彼らは笑って、八城への感謝を伝える為に、老夫婦が、家族連れが、若いカップルが、幾つもの『ありがとう』という言葉と共に、命と同等の価値のある食料を分けてくれた。
涙が出る程嬉しくて、それでも受け付けない胃袋と格闘しながら、八城は無理矢理に食料を胃の中へ詰め込んだ。
一スペース、寝床を分けてもらい、全体が就寝組と見回り組に別れて夜を過ごす。八城は避難民を助けた功労が大きく、先に就寝する為に寝床についた。
そう言えば、あの男性の名前を聞き忘れていた。
起きて朝が来たら、尋ねよう……
ここの住人の人たちと、これからの話をしよう。
そう思って瞼を閉じて。
八城が望んだ朝はやって来なかった。
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