第190話 城傀1

暗く重い泥の様な微睡みを掻き分けて、歌は聞こえて来た。

停滞と忘却を多くの時間を費やして経験とする八城にとってその歌は心地のいい響きを伴って意識を揺さぶってくる。

思い出せない程平和な時に八城はこの歌声を聞いた事がある。

看取草紫苑が好きだった歌を月下かおるが苦笑いを浮べながら良い曲だと言って、横を歩く八城へイヤホンの片方を寄越して美しい歌声に満たされて耳を塞いで歩く夕暮れの帰り道を三人並んで歩くのは少し窮屈で、気のある二人はきっと三人でいる事が邪魔だったと思っていた八城だが、それでも二人は三人でいる事を望んでいた。

彼女の歌で歌われている様な、愛を感じた経験も、季節を感じる情緒も、花を愛でる心の余裕もなかった平和な時代を思い出すこの曲は、何時か友人と呼べる三人で一緒に聞くと約束した歌声でもある。

微睡みの先に立つ二つの影の内一つが消え一つは変わってしまった。

自分の影の色が一体何色だったのか、振り返れば分かるのだろうが、今は自身の影の色を知りたいとは思えなかった。

いっそ全てを忘れてしまえたなら……

約束も後悔も大切な友人や肉親も暴掠の鬼なすがままに奪われてしまえば八城はずっとこの浅い不快の中で揺蕩って居られるのだろう。

だが心地よいこの歌は、八城がこの場に居留まる事を許してはくれない。

一際強い光と、途方も無い疲労感が八城の身体を足の付く沼から引っ張り上げる。

「あぁ……クソッ……最悪の気分だ……」

目覚めればそこは何処かの校舎内。

何処か……と言っても先ほどまで多山大学内でクイーンの討伐を行っていたのだから、此処が多山大学内という事は、八城も朧げながら理解する事が出来た。

身体を起こしながら受けた患部を確認すれば、真新しい包帯が巻き付けられており時折ズキズキとした波のある痛みが発せられている。

「あらあらら?随分早いお目覚めね〜今はどっちの八城なのかしら〜?」

「見て分かるだろ……はぁ、ずっと寝てたい気分なんだが、なんだが目が冴えてな。それより桜はどうした?何処にも姿が見えないが?」

痛みを我慢しつつ、辺りを見渡すと一華、善、天竺、そして後ろに纏わり付く雛が確認出来たが、桜の姿は見当たらない。

八城が断片的に覚えている記憶では『雪』でクイーンの首を刎ね、最後の決着が付いた辺りまでは覚えているが、その先の記憶は霧が掛かった様に定かではない。

「桜さんは……その……」

天竺が何かを言おうとして、言葉が詰まる。

だがそれ以上に八城は一華の在ってはならない違和感に気が付いた。

「待て、一華。お前『花』はどうした?」

有り得ない。

この女は負傷しているとはいえ、たかが身体の数カ所を貫かれた程度で自ら愛用している武装をみすみす手放す筈が無い。

そして何より不自然なのは、一華の傍らにこれ見よがしに置かれている雪の存在だろう。

「それはどういう事だ?」

事態が飲み込めていない八城に対し誰もが口を閉ざす中、一華だけは何時もと変わらず奇妙に笑ってみせた。

「桜ちゃんから伝言よ〜もし桜ちゃんがツインズを倒せなかった場合、これで八城を直せってね〜まぁ私には必要ないのだから別にいいのだけれど、八城には必要よね〜なんたってまだ感染しているんですもの〜」

一華から発せられる言葉は全てが荒唐無稽で、余りにも現実離れしている発言だ。

「ツインズを倒す?何を言ってるんだ!作戦は終わった筈だろ!俺は確かにクイーンの首を斬り落とした筈だ!」

覚えている、記憶も感触も確かに八城はクイーンの首を斬り落とした。

「そのクイーンが問題なんです。八番。確かにあなたは横須賀中央の提示した条件通りクイーンを倒しました。ですが、その後ツインズが現れあなたが斬り落とした……まだ活動途中のクイーンの感染体を捕食したんです。それで手負いのあなたと一華さんを連れ私達は校舎に逃げたのですが、桜さんが一人現場に残って……」

八城は天竺の話を最後まで聞かず、一華の傍らに放り出されている『雪』を取り、立ち上がる。

「何処に行かれるおつもりですか?」

「俺の隊員がまだ戦っている、なら隊長である俺も戦うべきだ」

それは八城が隊長として一度目の八番隊を失った時に堅く心に誓ったのだ。もう二度と隊員だけで戦場へ行かせないと……

だが、天竺はそれでも行かせまいと八城の行く手を阻んだ。

「彼女はあなたを生かす為に一人で戦っているんですよ?その事を少しも考えないのですか?」

天竺葵は、ずっと見ていた。

迎えに来た白百合紬を、隊長である東雲八城を、そしてこの作戦中ずっと行動を共にして来た真壁桜の事を。

友人というには気安過ぎるが、他人と切り捨てるには余りにも知り過ぎた。

一方的な親しみではあるが彼女の願いを知る者として、親しみを覚えてしまったからには八城に言うべき事がある。

「彼女はきっと隊長であるあなたが好きなのでしょう?だからあなたを守って一人戦場に立っている。それを無視するおつもりですか?」

仮に天竺の言う事が真実だとしても、八城は感情だけで動く事を隊長として認める訳にはいかない。

「確かにそれは桜にとっては綺麗な死に方なのかもしれないな。だが俺にとって重要なのは俺の望んだ勝ち方が出来るかどうかだ。それ以外の勝ち方をしても、俺にとっては全てが負けと変わらない」

何を賭しても、八城は八番を持つ者として桜だけは死なせる訳にいかない。

「勝つ、と……今状況に置いてもそうおっしゃるんですね?」

「当たり前だ。俺は最初に誰も死なせないと約束したからな」

誰も信じてなどいないのかもしれない。

……そんなことは夢物語に等しく、子供の夢とも笑い飛ばされてしまう現実味の無い発言だが、八城だけは最初の一人が潰えるまで諦める訳にはいかない。

「……そうですか、なら急ぎましょう。私も微力ながらお手伝いします」

手のひらを返した様に、言葉を返す天竺は、外していた装備を付け直し始める。

「……いいのか?お前は視察が目的だったはずだ。ツインズとの本格戦闘に参加したら……」

「クイーンは約束通り倒して頂きました。ですからここからはタイムカードを切った後の残業です」

「……おいおい、横須賀は随分隊員に優しくない働き方改革を推進してるんだな?」

「知らないんですか?横須賀中央は超ブラックなんですよ?」

バトルグローブを嵌め、天竺が最小限の武装を装着し身支度を整えたのを確認し、八城は後ろで寝転がっている一華へ向き直る。

「一華、一応礼は言っておく。お前が『花』を桜に渡したんだろ」

「今の私には〜宝の持ち腐れだわ〜振るえない刀なんて持っててもお荷物になるだけだもの〜それより、きっと面白くなるわよ〜あの子〜」

奇妙な胸のざわめきを、感じる一華の物言いだが、発言の意図を確認する暇も惜しい。

八城は天竺と共に急ぎ階段を登り、中央広場のど真ん中に到着すると、考え得る限り最悪の状況が八城の瞳に飛び込んできた。

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