求楽の城下

第1話 奴らは来たりて人を食う

始まりは小惑星探査船の帰還から始まったと誰もが口を揃えた。

しかし、その実体は不透明なままこの世界は始まった。

四年前の夏、世界は産声を上げたのだ。

それは東雲八城という名前が、簡素な八番という記号ではなかった頃。

高校二年の夏に校庭の蜃気楼に向かって走り続けていたあの頃。


『東雲八城』は高校時代。

この日々の始まりの日も陸上の大会に向け、陸上経験の無い顧問の言葉を参考に走り込みをしていた。

二週間もすれば夏休み、その前にある期末テストが憂鬱な頃合いだ。

だが、それを過ぎれば夏のイベントが待っている。

夏休み期間に入れば、花火に夏祭

それから海に山に肝試し。

気になるクラスメイトの女子と一夏の思い出が生まれる季節に心を弾ませるのは思春期と呼ばれる年頃の特権である。

しかし、その夏にそれら全ての物が開催される事は無かった。

「あれ」が現れた。

「あれ」を見た者は一様に言うのだ……

世界が産声を上げたと。

しかしながら、東雲八城はその産声を見も、又は聞いてもいなかった。

だから遅れた。

事態に気付くのが遅れた。

行動を起こす事も遅れた。

あの時は誰しもこの四年間で生き残った人間は一様に遅れたのだ。

家族を失い。

友人を失い。

恋人を失い。

果ては自身に生きる意味を見失った。

そうして失った者からこの世界では居なくなる。

だからこれ以上に失わぬため、奪われぬために東雲八城は四年経った今も戦い続けている。

八城が初めて「奴ら」と相対したのは高校の部活の帰りでの事だった。

おぼつかない足取りでヨタヨタと道向こうから歩いてくる人影を友人と笑いながら見過ごそうとして、その友人が噛まれた。

東雲八城が生き残ったのはただの偶然だ。

不気味な人外に、人の形を写した化け物に視線を移す間もなく、気付けば隣を歩いていた友人が噛み付かれていた。

友人は噛まれた腕を必死の形相で抑えて、悶え苦しみながら八城の名を何度も呼んでいた事を覚えている。

だが「奴ら」は友人の傷もお構い無しに、次は倒れている友人の首元に噛み付いた。

ミチリ、

という濡れた音を皮切りに、溢れんばかりの血が友人の首元から噴き出し、熱せられたアスファルトが友人の血液を煮えあがらせた。

据えた血生臭さと共に友人の動きが鈍くなるのを見て、八城の行動は一つだった。

走り出していた。

恐怖から、おぞましい光景から逃れるために、ひたすらに走り出していた。

最後の力を振り絞り何かを叫ぶ友人を置き去りに、無力な自分を守る為に自宅へと駆け込こんだ。

あれから幾日か経ち、この事態が普通でない事を理解した八城は、あの日以来両親も妹も帰って来ない家の中に引きこもっていた。

この世界を変えた生物は「感染者」あるいは「奴ら」と呼ばれている。

そういえば世界がこうなって少しした頃、この異形に名前を付けた人間が居た。

「感染者」「奴ら」の他にもう一つ「ネグレリア」という名前が付いた。

これは何かの寄生虫の名前らしいが、人を食い、食った人を人食いの化け物に変化させ、生者を求め徘徊する。

「あれら」を呼称する場合八城はいつも「奴ら」と呼んでしまっている。

友人の声がやがて耳から離れ、あれから数日が経ったある日、八城は帰って来ない家族を捜そうと外に出た。

外には未だに逃げ惑う人々と「奴ら」が終わりのない追いかけっこを続けており、時折自衛隊による防衛の銃声が木霊する。

八城はそんな戦場の中で、偶然にも鬼の様に強い女に出会った。

八城がその女に会った事で生き残れたのは事実である。

だがその事実は決して幸運とは言えなかった。

と言うのも、この世界において必ずしも生き残る事だけが幸運とは呼べないからだ。

千葉県の片田舎で、その女は子供十数人を守りながら、右手と左手に何処から手に入れたのか二振りの日本刀を携え、迫る「奴ら」から子供達を守り抜いていた。

だが、繊麗されたその技を持ってしても、大人数の子供を守るのには限界がある。

奴らは四方八方から数を増やし子供に食らいつこうとその数を増やしていくなか

追いつかない女の攻防は綻び、ついに子供が噛まれそうになった時……

気付けば八城は、動いていた。

家に居ても誰もおらず

生きている人間に……

いや、人を守ろうとしているまともな人間に久しく会っていなかった。

八城がその女を、その時は「まとも」だと思ったのは、ひとえに人の為に戦っていたからだ。

なにしろ子供を守っている。

それもたった一人でだ。

だから八城は動いた。

ここに至る道中で拾った金属バッドで、人の形をしたそれを思い切り……


振り抜いた


その一撃が東雲八城の長い旅路の幕開け。「奴ら」の一体を葬った始まり。

鈍い音と共にそいつはぐらりと倒れ、アスファルトの上で動きが鈍くなっていく。

「アハッ!やるじゃない!」

二振りの古びた刀を持つ不審な女が八城に喋りかける。

相当疲弊しているのか肩を上下に動かして呼吸を整えながらも、獰猛な肉食獣を思わせる瞳は奴らより危険だとすら思うのだから不思議だ。

「これからどうしますか?」

八城は自然と、その女に指示を乞うたが、女は初めから決まっている事を聞くなと両手に持つ二刀を構え直す。

「決まってるでしょ!」そう、喋りながらも煌めく両刀で目の前の三体を切り伏せながら、女はニッコリと歪に笑ってみせた。

「全滅させるのよ。あんたも手伝いなさいな」

女は巧みな刀捌きと凄まじい膂力と勢いだけで「奴ら」を切り伏せていく。

八城は子供だけは守ろうと、目の前に来た奴らを金属バットのフルスイングで退ける。

「あなた名前は?」

「東雲……東雲八城です」

多少の個人情報に悩んだが、世界がこうなっては個人など瑣末なことだ。

「ふ〜ん……東の雲!良い名前ね!私の名前は野火止一華よ!ろ!し!く!ね!」

剛の剣とはこの事だろう。

最早切れる、切れないは彼女の前では関係ない。

空中に線を描くたびに、刃は目の前の「奴ら」を押しとどめていく彼女の力量には畏敬の念すら覚える。

そして、八城も負けじとその金属バットをフルスイングで振り抜きながら、視界の端に広がる最低最悪の世界の状況を初めて理解したのだった。










そしてこれが後の四年後。

一番と八番、

東京中央街区での二代トップとなる二人の始まりである。




そして月日が流れ、アレから四度目の夏。

微睡みの中で小さなバイブレーターの音を控えた微かなアラームの音が鳴り響いた。

寝返りをうつ度に軋むベッドが何とも心地よい二度寝の誘惑をもたらしてくる。

八城は僅かに瞼を開けてアラームを止めると再び布団に入り直し瞼を閉じる。

「最低、にわかには信じられない……」

もうこの四年間で聞き飽きた声がするがそんなことは、気にしない。

「八城君起きて、また柏木に怒られる……」

「……知るか、今日はあの女の夢を見て完全に寝覚めが悪い。もう一度寝ない事には何処に行くにも気力が湧かないんだよ」

「また、私も怒られる」

「今日は隊長の体調が悪いって言っといてくれない?」

「嘘はつけない」

口煩い同居人の言葉に八城はしかたなくベッドから状態を起こす。

寝ぼけ眼で周囲を確認して壁に掛っている時計を見ると、俄に信じ難い時刻を指し示していた。

「……ん?あれ?今日、何の日だっけ?」

「隊長招集会議」

「マジ?」

「マジ」

八城はすぐさま支度を整え、教会を出た。

「やばい……やばい!やばい!」

「だから言った」

呆れながらも走りながら付いてくる同居人は四年前この中央街区が設立されるまでに拾った子供の一人だ。

名前は白百合紬。

身長は低く、少したれ目でその印象を眠たげに見せる寝癖の様な癖毛が特徴的な少女である。

「お前がもう少し早く起こしてくれてれば!」

「八城君は年々精神年齢が下がってる」

紬も昔はこんなんじゃなかった。

もう少し可愛げがあったし何より年上を敬っていた気がする。

まあ気がするだけだ。

そうして会議室に着いたのは丁度集合時間から一分が過ぎた頃。

八城はバレてしまわないように匍匐前進で、なんとか自分の席まで辿り着き。椅子を引いた所で……

「おや八番、朝から訓練かい?」

お呼びが掛かかった

「………」

「呼んでいるんだよ?八番、答えてくれるかい?」

呼び止めたのは議長席に座る柏木という、偉そうなおっさんだ。

「なぜ遅れたのか理由を聞かせてくれないかな?」

全ての、円卓に座る隊長の視線がこちらに向く。

「え〜と……その……」

八城は寝起きの頭をフル稼働して、どうにか言い訳を絞り出そうとしているが、意思に反して冷や汗だけが絞り出て来た。

そんな八城の様子を見かね、紬が一歩円卓の前に歩み出た。

「八城君は、今朝四度寝から目覚め今ここ居る」

「いや二度寝だけじゃん?」

「いいえ四度寝。間違いない」

周りの隊長が、ざわざわとざわつき。柏木議長は大きくため息を一つ。

「今この場所で一桁……シングルNO.が持つ意味を、八番はどれだけ理解しているんだい?」

「……No.って何か意味があるんですかね?」

八城が聞いたその言葉にまた会場がざわついた。

柏木は一つため息つき、苛立ちを露にコツコツと机を指で叩き始める。

「八城、今この中央に遠征隊シングルNo.が一体何人が残っていると思う。」


「一・三・八・九の四人」


議長の問いに対して、八城の代わりに紬が答える。

シングルNo.とはこの中央が出来てから付けられたNo.であり、その数字が若ければ若い程中央創設から居る人間という事になる。

そして八城の持つNo.は八、つまり中央では、かなり早くこの遠征隊に入った人間に当たる。

「では言わずとも分かるだろう?シングルNo.とは今まで中央を守りその周辺番街区の統治を任されているいわばルールそのものであり、成り立ちの一部だ。そして、シングルNo.は特別街区への出入りが許された精鋭のみが所属する。その八番である君が、隊長招集会議によもや四度寝で遅刻では周りに示しがつかないだろう?」

「そうですかね……」

「まったく八城分かっているのかい……」

「大変申し訳ない。八城君には私からきつく言っておく。この場は許して欲しい」

紬が九十度のお辞儀をして、なんとか場を納めようとするが、それで収まらないのが東京中央という場所だ。

「はは!駄目ですよ、議長。彼に何を言っても。彼は野火止一華の弟子というだけでシングルを譲り受けたようなものです。そんな彼に規律や礼儀など求める方がいささか酷というものです」

そう発言したのは前プレートに三十一と書かれた隊長の男だが、その発言に食って掛かる女が一人。

「控えなさい。彼は決して彼女の名前だけでその番号を持っている訳ではない。彼の功績と実力はシングルを持つに相応しいものだ」

と、八城を擁護したのはNo.十七の女だった。

だが、No.三十一はそれも気に食わないと言いたげに、反論してきた十七番の女を睨みつけている。

睨み合う二人を見て柏木は疲れたと言わんばかりに咳払いを一つして、全員の視線を集めた。

「諸君!そこまでだ。今回集まったのは君たちに口喧嘩をさせるためじゃない。今回集まったのは遠征隊各隊における人員補充、並びに番街区周辺地域のクイーンの位置確認。そして四桁の番街区までの物資補給の伝達を主に行ってもらう」

柏木議長の言葉に全隊長の表情に緊張が走る。

なにせ四桁の番街区までという今回の任務は相当な時間が掛かる。

というのも四桁の番街区とは中央を起点に、中央が管轄する中で最も遠い番街区ということになる。

「今回君達隊長各員には、現在隊長不在の一番と九番以外の全隊員が、この任務に当たってもらうことになる」

この会議において隊長席の空白は二席。

シングルNo.の九番と一番だ。

「なお三番と八番、十一番並びに十七番には、別途新規経路探査作業と住人の状況によっては、避難の手助けを行ってもらう予定だ」

「はぁ?」

新規経路という単語に八城は思わず間抜けな声が出てしまったが、十七番は毅然とした態度で冷静に聞き返す。

「それは移動したクイーン位置確認と住人の避難の両方行うということですか?」

「そうなるだろう……上位四つの精鋭隊には、それぞれ新人隊員を一名ずつ送る予定だよ」

「いやいや、新人って……お守りしながら遠征なんて無理だ!それに四桁の番街区は別の中央が担当してる筈だろ?!」

そう意見を募らせる八城の発言に被せる様に柏木は重い口を開いた

「その担当している西武の中央が、先日クイーンの襲撃を受けた」

その言葉に今度こそ会議室全体が緊張に包まれる。

「向こうの中央は落とされてはいないが、住人の半数以上が未確認になっている。つまり新たなクイーンが確認されてもおかしくないという事だ。そしてここから出向ける限界地点である四桁の番街区までは、此方の東京中央でなんとかしなければ……今度こそ取り返しのつかない新たなクイーンが生まれるかもしれない。君たち上位四班に向かってもらう未確認ルートにおいては、最もクイーンの移動が懸念されているクイーンの密集エリアでもある。だからこちらのルートに従って四桁の番街区まで向かってもらう必要性がある。非常に危険ではある事は否定できない。だがやるしかない。出発は三日後だ。全隊奮闘を期待するよ」

柏木は一方的にそう言い残し、奥の扉に消えて行った。

そう、あれから四年

これが今の現実であり、日常の風景になっている。







番街区と呼ばれる人の住まう内と外の世界を分ける境界線。

急造で作られたバリケードの外に出れば、奴らが闊歩する世界が広がっている。

「奴ら」とは何か?

それは元々人だった者達の事である。

奴らはクイーンと呼ばれる別個体を中心に、まるで軍隊のように動く。

なぜ人がおかしくなるのか。

分かっている事は、「奴ら」となった者に噛まれると人は死に、その代わりに人喰いの化け物「奴ら」になる。

そして「奴ら」になった人間はクイーンの元に集い洗礼を受ける。

洗礼とは噛まれた個体がクイーンに捕食される事を指すのだが、クイーンは捕食した人間のDNA情報を体内に読み取り、個体の複製体を作る事ができる。

つまり、幾ら切り刻んで「奴ら」の数を減らしたところで、同じ人の個体をクイーンが産み出すのだ。

人間が人間を潰してはクイーンに同個体を作られ、その繰り返し。

軍隊としての絶対数が減らないのである。

クイーンは何故か、減った個体の複製体しか作らない。

無限に増える事は無いが、決して減る事の無い軍隊。


人類唯一の不幸中の幸いだと言えるのは、

「噛まれた以上の人間より増殖をしない」

というただ一点である

しかしながら、クイーンは一定数の軍隊規模になると、新たなクイーンを作り分裂するのだ。

だからこそ、八城たち遠征部隊が仕事をする必要がある。

クイーンの分裂した、個体の位置情報並びに東京内に点在する番街区、つまり人が生存している居住区の生存確認をするのが中央に所属する遠征隊No.sの主な仕事となる。

世界がこうなる前には、もちろんこんな番街区など日本のどこにも存在しなかった。

都道府県の区分けがあり、日本単一で法律があったが、今では中央の数だけ法律があり番街区の数だけ区分けが存在する。

まさに悲劇だ。

人と人との交流が分たれ、土地を自由に行き来出来るのは遠征隊のみである。

だが、この惨状になるまでに誰も抵抗しなかった訳ではない。

自国の軍隊も戦った。

しかし生き残りが点在する状況下で、大規模攻撃を掛けられなかったことが勝敗を明らかなものにした。

それでも十を越すクイーンを屠り、戦況は有利なものかと思えた。

しかしそれが奴らの進化をもたらしたのだ。奴らは四段階に分けられる。


「第一フェイズ」人間を捜し徘徊する者これは一番スタンダードな奴らだ。


次に人の記憶から人のように動くもの。

これは、「第二フェイズ」と呼ばれ、人間のように走ったり拙いながらも肉体的な技を使う者も確認されている。

これは、奴らの中に混じっており油断をすると最も危険とされる。


そして「第三フェイズ」

ここからは普通の人間が相手に出来る次元ではなくなってくる。

これはもはや昆虫や食物に近い形態になる。

人とは思えない動き。

そして何より、人を殺戮するという目的がそのまま形になったような形状になっているのが特徴的だ。こいつらはクイーンの近くを守るように徘徊し、クイーンに近づく人間、又は害をなすものを狙って攻撃してくる。


次に、確認されている中でも、最上位の「第四フェイズ」

こいつらが日本の自衛隊を壊滅に追い込んだと言っても過言ではない。

クイーンの直近に数個体しか存在しないが、その脅威は人類の尺度では計り知れない。

ある者は人の形をしていたと証言し。

またある者は植物のような形だったと言う。

だが、それが居るという事実だけは覆りようもない。

そんな「奴ら」がクイーンを円形に囲み、守りを固めているのだ。

クイーン同士は通常一定の距離を保ち静観をきめているが、それも絶対ではない。

今回のように生き残っていた人間を捕食し、軍隊の数を増やした場合には、『巣わけ』と呼ばれ、新たなクイーンが誕生する。

そうなると生まれて落ちた新たなクイーンは、生まれ落ちた場所に居るクイーンから一定の距離を保ために移動を始める。

そのとき生まれたクイーンは親のクイーンの軍隊を約半数引き連れていく。

それが同時多発的に起きればどうなるか?

距離を保つ為に動き出す一個体が、次の一個体を動かす。

波はドミノ倒しのように広がり、クイーンの通り道に番街区があった場合は。街の住人を捕食。

またそこで新たなクイーンが生まれるという連鎖が起こり、被害は甚大なものとなる。

だからこそ遠征隊は逐一クイーンの位置を確認し、かつ個体数の調査を行い新たなクイーンが生まれていないかを調べる必要があるのだ。

そしてその調査をするのが八城が所属する遠征隊の主な仕事である。

「で?紬……新人ってどこにいるんだ?」

「多分先に議長室の部屋に行ってる」

新人は隊長と議長両方からの任命でようやく部隊配属される手筈になっている。

つまり隊長である八城が赴かなければ新人隊員は配属されない。

「紬が俺の代わりに行って来てよ」

「駄目に決まってる。まだ頭が寝ているなら、ケツの穴から鉛玉をぶちこむ」

本気で撃ちかねない紬に仕方なく、八城は議長室の前に立ち扉に手を掛け、一つため息をついた。

「ねぇ、これって本当に行かなきゃ駄目なの?」

「当たり前。今私たちの隊は人数が圧倒的に全然足りていない。貰えるときに人も物資も貰っておくべき」

紬の言う通り、自分が生きる為に最善を選択する。

頭では分かっているが八城は、もう一度深いため息と共に扉を開ける。

新人と思われる四人が規律正しく横並びに整列していた。

扉前から遠征隊隊長である三番、十一番。そして俺の事を庇ってくれた十七番が奥に整列していた。

「遅かったな?八番。三十一番みたいに言いたくはないが、そろそろ紬と隊長を交代した方がいいんじゃないかい?そうすれば私の隊で八城をこき使ってあげるよ?」

「それは願ってもないな、十七番。だがお前の隊には絶対に行かない。お前の隊員はいつも疲れた顔をして、任務から帰ってくるからな」

十七番とはいつも軽口を叩き合うぐらいには仲がいい。

「なら紬を貰おうか。さぞ彼女も私の隊が気に入ると思うんだが?」

「俺は別に構わないけど。そういえば、十七番隊に行くと皆同性愛に目覚めて帰ってくるって、親御さん泣いてたぞ」

「それは酷い誤解だ。私は彼女達の新しい可能性を引き出してるに過ぎない。それに男性に魅力がない事にこそ問題があるんじゃないのかい?」

そんなこんなで十七番と喋っていると、前から聞こえる柏木の咳払いに全員が口をつぐみ背筋を正す。

「今回君たちの隊に入る四名だ。右から三番隊、八番隊、十一番隊、十七番隊に配属される。全員隊長に挨拶してくれるかな?」

右から男、女、女、女つまり今回八城の八番隊に配属されるのは女の確立が高いということだが、正直戦力になるなら誰でも良い。

一人目の自己紹介が終わり。次八番隊に配属される奴の自己紹介が始まる。

「第11番街区より来ました真壁桜といいます。遠征隊No.三百三十三です。」

丸みを帯びたショートボブ、意志の強そうな瞳が八城を真っ直ぐに見つめて来た。

「あぁ、よろしくな」

やる気を感じさせない返事に肩すかしを食らった桜だが、初対面の八城に対して規律正しいお辞儀を返す。

「そうか。もう。三百三十三番まで来たのか……」

八城は今しがた桜が紹介したNo.を再度確認した。

No.とは遠征隊に配属された時、本人が貰う番号の事だが、そのNo.が若ければ古参という扱いになる。

そして死んだ場合は空き番。

つまり空白になる。

このNo.も今は三分の一ほどしか人員が居ない。

言うまでもなく、そのほとんどが戦死もとい奴らに食われ空き番となっている。

かくゆう八番隊も前作戦である89作戦で、その殆どの隊員が戦死し、現在は八城と紬の二人だけしか残って居ない。

八城と紬、そして他一名が辛くも生き残ったが、その一人も戦闘における心的ショックから他の所属に移っていった。

だから正直この補充は待ち望んでいた節もある。

八城は全員の紹介を聞き流し、各々がそれぞれの隊に散って行く中、桜が八城の元へ駆け寄ってきた。


何処となく大型犬のような人懐っこさを感じる新人隊員である桜を連れて、八城は紬を追いかける様に作戦室と言う名の溜まり場に向かっていた。

「あの、八城さんですよね?八九作戦の……」

八九作戦。

それは二ヶ月前にあった奴らの突発的襲撃事件の事だ。

「……あぁ、一応参加はしていたけど?」

「やっぱりそうでしたか!最後、孤児院前での撤退殲滅戦を、たった二人でやってのけ!そして見事孤児院内に収容した負傷者に誰一人被害を出さなかった!まさに英雄の中の英雄!そして、たった一人でクイーンを倒した一華さんの唯一弟子とされる八城さんの部下になれるなんて!私感激です!」

八九作戦。

最終防衛ラインを任された八番隊が見たのは最悪の光景だった。

撤退してくる別隊の人員、特に怪我人や動けなくなった者を孤児院に押し込めながら、その過程でみるみるうちに奴らは数を増していった。

当然奴らが数を増やせば、人間の数は減り。

そしてもう一つ最悪が重なった。

そうして残った隊員はたった二人。

紬も八城もお互いが死ねば、もう一人も死ぬと分かっていた。

孤児院を放棄して逃げれば、間違いなく負傷兵や孤児院の子供は奴らの餌食になっていた。

「まぁ、あれだ桜……これからよろしく頼むな……」

「はい!よろしくお願いしますね隊長!」

「おう、じゃあ早速仕事だ」

そう言って、八城が開けた扉の先には先んじていた紬が赤ん坊のおむつを取り替えていた。

「おかえり、随分遅かった」

紬は淡々と、しかし確実に赤ん坊におむつを履かせる。

あの早技に、赤ん坊はきっと自分の下半身が露出されているとは夢にも思うまい。

もし、オムツ替えに上限速度があるならば、そのスピードは十六歳が出せば間違いなく速度超過で掴まるレベル。

流石紬、腕をあげた。

八城も新人を連れて来た手前、手持ち無沙汰な桜に何か指示を出すべきだろう。

「桜ボーとしてるな。お前の八番隊所属の初仕事だ。早く粉ミルクを作ってこい」

「え?は?……へ?」

まったく固まってしまうとは、最近の新人は情けない。

隣に居る紬もあたふたとしている桜に白い目を向けていた。

「八城君こいつ使えない。返品してきて」

「まだ決めつけるな、早計すぎる。桜、作り方が分からないなら裏にあるレシピを見ろ!話はそれからだ!」

八城も赤ん坊をあやしつけ、桜は入り口手前の立て看板を見直した。

「えっとここは?作戦室じゃないんですか?」

「いや、ここは作戦室で合ってる。そして孤児院でもある」

桜は外の扉の標識を確認すると『マリア』とカタカナで書かれている。

桜は、おむつを履かせ終わり手を洗っている紬へ近づいていく。

「確かにここはなんか別棟だなとは思いましたけど……他に部屋は無いんですか?」

「確かに元々、あるにはあった」

「じゃあ、そこに行きましょうよ……」

「だけど取り上げられた……」

「なぜですか!八九作戦功績者の部屋なのに!」

「まぁあれだ、今の八番隊は俺と紬しか居ないからな」

「え?」

またしても桜が固まってしまった。

だが、粉ミルクが固まるよりましだろう。

「そもそも!奴らに、おーよしよし元気でちゅね〜作戦なんて……あーいっぱいしましたね〜今!取り替えまちゅからね〜通用する……おい紬!替えのおむつ切れてるから倉庫から取ってきてくれ!と、大丈夫でちゅからね〜すぐおむつきまちゅからね〜今気持ち悪いのとりまちゅから〜」

「あー!もう!隊長!赤ん坊をあやすか、喋るか、どっちかにして下さい!」

桜が怒るので、八城は赤ん坊の世話を一旦紬に任せ、やれやれと言った調子で答える。

「いいか?奴らに作戦なんて通用しない。その場その場での判断が、最も重要になる。俺達は万全の準備はできても、万全の対策はできないんだよ」

「でも……」

何かを続けようとする桜の言葉を遮るように八城は問う。

「お前は前線で戦った事はあるか?」

「……ありません」

「救出作戦は?」

「……ありません」

「じゃあ一度でも奴らを倒した事は?」

「それ、なら何度かは……」

「その時思わなかったか?怖いって」

「……思いました」

「だろ?怖いうちは思うように身体が動かない。そんなお前が、まともに作戦を完遂出来ると思うか?」

「……思いません」

「だろ〜?なら早く粉ミルク作ってこいよ。お腹を空かせた赤ん坊と化け物は待ってくれって言っても待ってくれないだよ」

八城は軽い調子で哺乳瓶を桜に渡し、それを桜も自然な形で受け取ってしまった。

「はい!じゃあ作ってきま……ってそれとこれとは話が別です!」

その言葉を聞いた紬は桜をビシっと指差す。

「八城君やっぱこいつ使えない。返品」

「だな。俺も今そう思った」

ひそひそと話し始めた八城と紬を見て、これは本格的に除隊されるかもと思った桜は

「なっ……分かりました!作りますよ!作ればいいんでしょ!」

そんな悲鳴が孤児院の教会に木霊した。












子供の世話を終え寝かしつければ、もう夕方も近くなっていた。

「それで隊長。何で私まで一緒にご飯食べてるんでしょうか?」

「食事中に喋るなよ、行儀が悪いな。お前何処の隊の奴だよ」

八城は桜を小馬鹿にするように手に持ったフォークを向ける。

「本日付けで、八番隊になった者ですが……隊長、私のことバカにしてますよね?」

桜は八番隊を含む、孤児院の面々と晩を囲んでいたが、中でも一際目立つのはブロンド髪をしたシスター姿の女性だ。

「桜さんごめんなさいね、八城君は隊長の権限を自分の都合のいいように使うから、嫌なら嫌とちゃんと言った方がいいわ」

「あっいえ、マリアさんが謝ることじゃないですから!」

桜は斜向かいに座るマリアに小さく会釈を返すと、マリアはたおやかな笑みで小さく笑ってみせた。

マリアは見窄らし孤児院には似つかわしくない整った顔立ちに、日本人離れしたブロンド髪を靡かせ、翡翠の瞳を宿した生粋のイギリス生まれ。

だが、四年前の事件以来帰国出来ず空港内で一華と八城に拾われ、仕方なく孤児院で子供の世話をやいている。

「隊長には言うには言ったんですけど、聞いてくれなくて……」

「ふふ、ちゃんと言えば八城君優しいからきっと分かってくれると思うわよ」

微笑むマリアに対して苦い笑顔で答える桜。

「私だって隊長を少し前まで尊敬していましたけど……」

「なにその口ぶり?今は尊敬してないみたいに聞こえるんだけど?」

「……ほら、これですよ?」

桜は自分が抱えていた八番という英雄像が崩れていくのを感じていた。

それに、もぐもぐと口いっぱいに物を詰め込んで隣に座る少女も隊員だと言っていた。

それはつまり紬も八九作戦の英雄の一人ということだろう。

「はぁ〜……」

「むぅ……人の顔を見てため息をつくなんて失礼極まりない。故に大迷惑」

桜は睨む紬の視線から逃れるように周りをぐるりと見渡すと、笑顔の子供と目が合った。

「あれ?そう言えば八九作戦の時、最終防衛ラインになったのが孤児院だって聞きましたけど、ひょっとして……」

「ん?ええ、私たちの孤児院よ。避難勧告が出たから全員無事だったし。逃げ後れた子達も八城くんのおかげで全員無事だったから良かったんだけど……建物はね……それで代わりに八城君がここを紹介してくれたのよ」

マリアは八城に薄く笑いかけ、八城は逃れるようにそっぽを向く。

「たしかに、隊長は悪い人じゃなさそうですけど……でも!」

どうも今の八城と英雄のイメージが乖離していると桜は思う。

着々と食卓のおかずが無くなり、釈然としない桜を他所に、全員が夕餉を済ませひと心地ついていると内線の電話の音が部屋中に鳴り響いた。

「はい八番隊」

紬はすぐさまそれを取り「了解」と一言後電話を切った。

「八城君、八時じゃないけど、全員集合」

「……お前、何処でそんな事覚えたんだよ……そもそも年代じゃないだろ。まぁいいや、じゃあ行くか?桜、支度しろ」

「?」

どこに?と聞く桜の表情を前に八城はニヤリと笑って見せた。

「ババ抜きだ」

三人が向かったのは中央のド真ん中にある建物。

通称コロシアムと呼ばれる場所である。

道すがら他の隊員達も同じ場所に向かっているのを見れば本当に全員集合なのだろう。

コロシアムの自動扉が開き、地下に向かうと中央ほとんどの隊員がそこに居た。

そして先頭に立つのはもちろん議長である柏木だ。

「今回の候補ルートの決定を行う。隊長は前に出て一枚カードを引いて行ってくれ」

前を見ると三、八、十一、十七とその他と区分分けされている。

「しゃあ!行ってくる」

「八城くん、いいの求む」

「急の事で何が何だか分かりませんが!とにかく頑張って下さい隊長!」

全員でハイタッチしながら八城を壇上へ送り出した。くじの順番はNo.順。

つまり、八城のクジは二番目だ。

絶対にいいルートを引き当てなければと思いながら八城はカードを一枚引き。



膝から崩れ落ちた。


「八番すまないね、私の隊にこんないいカードを残して貰って」

横目に笑いながら十七隊の隊長が壇上を降りて行く。

壇上から動かない八城を見た桜は、横にいる紬へ向き直る。

「八城さんはどうしたんですか?」

「多分……八城くんは新規のルートを引いた」

「新規のルート?」

「今回の任務は新たなクイーンが誕生しているかと、他の番街区がちゃんと残っているかを確認することが私たちの役目」

「?でもそれで、何でそれで新規ルートが駄目なんですか?」

「私たちがよく使う通常のルートは、「奴ら」と戦闘にもなるかもしれないけど、比較的安全で、道中の道も確保されている。でも新規ルートはそれがない。新規ルートを行く場合は、新たなクイーンを確認する事も、そのルート探索の内に組み込まれている場合が多い」

「それは……つまりどういうことでしょうか?」

「つまり、フェイズ3〜4の奴らとばったり出くわす。なんてこともある…最悪行った先でクイーンと鉢合わせになることも……ある」

「……そんな事今までにあるんですか?」

「何度か……」

紬の尻窄みになっていく声がより悲壮感を掻き立てる。

八城のがっくりと項垂れる後ろ姿に、誰もかける言葉がみつからないままその日の候補ルートが決定。

通称「ババ抜き」は八番隊が見事ババを引いて終ったのだった。


そして、次の日の朝。

「行きたくない……」

「死にたくない……」

前者は八城の声。

後者は紬の声だった。

昨日はそのままの流れで解散してしまい、いまいち状況が把握できていない桜は起床した後すぐに二人が居る孤児院に向かったのだが……

「で、二人は何をしているんですか?…違いますね。何がしたいんですか?」

八城は布団に潜り。

紬はハンモックで揺れていた。

そして時間は訓練開始時間をとうの昔に過ぎ去っていた。

「ご飯が出て来たら布団から出て、食べ終ったら布団に戻る生物になりたい」

「私は見ての通り地震に備えている……」

新規ルートを引いたショックからか、二人ともやる気を昨日の会場で落としてきたらしいが、桜は憤然と転がっている八城の布団に掴みかかった。

「そんな生物は淘汰されますし!ハンモックで地震に備える事はできませんから!二人とも!いい加減起きて下さい!」

時刻は午前九時。

初夏の日は高く上り他の部隊は各々必要になる訓練をし、孤児院の子供達ですら家庭菜園の手入れをしていたのに、この二人はどうしたものか。

「急になに?ご飯?何だよ……桜かよ……で?飯なの?え?ご飯じゃないの?紬、飯じゃないってさ……」

「はいよ〜」

どうあっても二人は動こうとはしないらしい。

「紬さん、とりあえず起きましょうよ……ほら隊長も、マリアさんが作り置きしていってくれた朝ご飯がありますからとりあえず食べましょう」

「え?飯?飯あるの?紬〜飯だってさ〜」

「あいよ〜」

やる気は無いが、飯を食う気はあるようで二人はもそもそと寝床から芋虫のように這い出てくる。

二人は寝起きそのままにテーブルに着くと緩慢な動きで食事に箸を付け、これまた緩慢な動きで咀嚼していく。

そんな様子をイライラを抑えながら見つめていた桜は、テーブル上の丁寧に整頓されて置かれている資料へ視線を移す。

今時珍しい紙の表紙には、四桁番街区のルート候補とデカデカと書かれていた。

「あぁ……桜それ目通しておいてくれ……」

温め直したスープを啜りながら、八城は桜に促した。

桜は初めての作戦資料に少しドキドキしながらその紙を手繰り内容を見ていく。

「お前は、番街区についてどれ位知ってるんだ?」

「基本ぐらいですかね。東京中央は東京湾を背にして建てられて、それを扇状に囲い込むように番街区が点在していると。かくゆう私も訓練用の二桁の番街区から来ましたから」

「二桁か……」

二桁と言うのは、東京中央をゼロ。

東京中央を要に一つ目の扇状に囲い込むのが一桁。

二つ目の扇状が二桁となる。

そして八番隊が最終目的地となるのが7777と称される四桁の番街区だ。

東京中央から一番近い番街区が大体十キロから一五キロ。

一桁の番街区は、一日で行けない距離ではないが、最終目的地となる7777までは直線距離で七十キロ程もある。

「私たちが通る新規ルートって77番街区から先になってますけど」

「ああ、行きの半分は規定ルートを通れるけど。もう半分は知らない道だ。どうだ?最高に仕上がるだろ?」

その言葉に桜はその下の路線概要に目を通していく。

「言いたい事はわかりますけど、そんなドロドロした目で言われても……それにこんなに長い道のり……絶対武器も弾薬も足りなくなりますよ」

桜の懸念に紬は口の中の物を無理矢理に流し込む。

「第777番街区には武器庫がある。問題ない」

紬は平気そうな顔で言ってのけたが、そもそもそれが問題なのだ。

「それって!逆に言えば東京中央から777番街区までは武器の補充ができないってことじゃないですか!」

「そうだね。節約しないとね」

規定ルートで行っても戦闘にならない事の方が珍しいぐらいだ。

その計算でいくのなら間違いなく装備は最終目的地7777番街区に着く前に底をつく。

「桜、そろそろ俺と紬が絶望していた意味が分かって来たか?さぁ紬!今こそ彼女にこの作戦がどれだけ無謀な作戦なのかもっと詳しく教えてあげてくれ!」

「……了解した。一度しか言わないからよく聞くといい。私たちたった三人で、四桁の番街区まで行かせるのが、そもそも無謀。無理難題。あのババ抜きで死の片道切符を八城くんは引き当てた」

八城は紬に続き言葉にを連ねる。

「加えて言うなら、桜が言った通り、弾薬もどんなに節約したところで777番街区につく前に底をつく」

二人とも何処か自信満々にいいのけるが、ここまで全く具体案が出ていない。

「じゃあどうするんですか!」

自信気な経験豊富な二人には何か打開策があるのだろう。

そして二人は仕方の無い新人を見るような目で桜を見ていた。

「やっぱり!隊長には何か策があるんですね!」

「ふぅ……これだから新人は。紬も何か言ってやれ」

「あぁ?お前どこ中だよ?」

「何か言えとは言ったけど。意味分かんない返答は桜が本気で困ってるから辞めような」

「一昨日来やがれ」

「と、まあ……このように紬が壊れてしまっている事が、良い例です……え〜と。つまりだ。三人で死ぬ気で……いや違うかな、死なない程度に頑張るしかありません」

深い沈黙の後、八城の言葉の意味を理解した桜はがっくりと膝を折った。

「……………終った、私の人生……」

「違う」

紬が、口の中の物を飲み込み、桜の言葉を遮る。

「何が違うんですか!もう終わりですよ!物資も!弾薬も!人も!足りない!足りない!足りない!命が幾つあっても足りない!足りないずくしですよ!」

「だから違う……」

「だから何が!」

紬は手に持ったフォークを桜にビシッと向け宣言する。

「人生が終ったのは、私と八城君も同じ」

ついに桜は地面に腕を付き、地面に叫ぶように呻く。

「終った……私の人生!」

八城は桜の肩に優しく手を付く

「まずは飯でも食えよ?な?こんな冷たい世の中でも飯だけは温かくなくちゃいけないだろ?」

「うぅ、いだだぎまず……」

「まずは顔洗ってきて、話しはそれから」

紬は涙と鼻水でぐちょぐちょになった顔の桜を、冷ややかな目で見つめていた。








翌日朝食を食べ終えた三人は、コロシアムと呼ばれる場所に向かっていた。

というのも食事中の桜が「やっぱり実力を知っていない事には不安」とか、かなり遠回しに、四回程会話に挟み込み、とうとう紬がキレたのだ。

つまるところ桜は隊員の腕試しがしたいらしい。

「いや確かに隊長の強さは気にはなりますけどそんな急に手合わせなんて……」

「気になるならやる。それではっきりする」

「俺はやりたくないんだけど。ねぇ、なんでさっきから俺の事無視するの?」

「ほら、隊長もこう言ってますし……今日はやめて後日に……」

桜も言った手前ではあるが、まさか隊長と刃を交えるとは思っていなかった。

だが、紬は相当イラついたらしく額に青筋を立てたまま、桜へ振り返る。

「それで、もし昼飯の時。同じ話しをしたら、迷わず桜の頭をぶち抜く。それで構わない?」

「あ!やります!やりたいです!腕試し最高じゃないですか!」

しかし、桜自身隊長である八城の実力が気になっているのも事実だ。

そして今回の提案は桜にとっても、またとない機会でもあるが八城は頑なに首を縦には降らなかった。

「だから俺はやりたくないってば!」

八城は出来る事なら面倒は避けたいし、仮に桜に負けるような事があればそれはそれで隊長として問題になる。

「八城君も部下から、なめられてたら終わり。それに桜は多分理解していない。…奴らの事」

「それって感染者の事を言ってます?」

桜は紬の『理解していない』という言葉に、苛立ち混じり聞き返す。

「私だって作戦行動は無いですけど、一応訓練は受けましたし!それに!感染者を倒したことぐらいあります!」

「それは何人?どういう状況で?」

紬もあからさまにむきになり、桜の言葉に向かっていく。

「5人規模の部隊で、二体ぐらい……」

「お笑いぐさ。滑稽の極み。それじゃ、腕なんてあてにならない」

「ムカっ!そんな事やってみないと分からないじゃないですか!」

一触即発の空気が二人間に立ちこめる間に八城はすかさず割って入った。

「ストーップ!そこまでだ!紬も言い過ぎだから。桜も!こいつなりにお前の事を心配しての事だ。気を悪くしないでくれ」

「別に私は気にしてません。ただ仲間を信頼していない人とチームは組めません!」

「役立たずと組む程、怖いチームも無い」

二人の間の熱は冷める事無くより苛烈さを増している。

「分かったよ……桜、これから俺と模擬戦をしよう。お前は俺を感染者だと思って攻撃してこい。それで多分紬の言った事を大方は理解出来る筈だ」

「分かりました……」

ギスギスした三人がコロシアムに着くと二つの隊が訓練を兼ねた動きの確認をしていた。

「十七番お前も訓練か?」

「おや?八番か?ここには布団も、枕も用意されていないけれど?一体何をしに来たんだい?」

「いや別に……」

「フフッ冗談だ。しかし珍しいな。八番が訓練場に訪れる姿を見るとは、とうとう私の頭もおかしくなったのか?」

「いやだから……その、なんだ?訓練に……あぁ!面倒くさい!いいじゃねえか、別に」

「ハハッ!まあいいさ。で本当にどうしたのだ?珍しいじゃないか?」

「うちの紬と。新人が少しな……」

「なんだ?また紬の癇癪が起きたのかい?だから言っているだろ?紬を私の隊に置けば何の問題もないと」

「そうなんだが、紬が中々了承してくれなくてな」

八城は何度となく言ってはいるものの、紬本人が望まない隊の移動は原則できない。

そして何故か八番隊からの移動を拒み続けているのが紬だった。

「八番は紬に気に入られているからね仕方ないさ」

「気に入られるって……冗談でもやめてくれ」

紬は今年で十六歳になる。

出会った頃はまだ十二歳、まだ中学生だったが紬はトラウマになるであろう経験を数多くこなしてきた手練れでもある。

中央が出来るまでの四年間はまさに激動と言って差し支えない。

戦闘に出れば人数の半分が帰ってこないのは当たり前。

帰ってきたとしても、生存者の中に感染者が混じり、東京中央内部でも混乱が起きることもあった。

当時の一華と八城が東京中央があるこの場所に辿り着いた頃には、自分の明日食べる食事でさえもままならないこともあった。

だからきっと不本意ではあるが、八城は紬の親代わりになっている。

紬はそうやって幼い心を保っていなければ崩れてしまうのだろう。

「八番、きみはそう言うけれど、私から見れば紬の気持ちはそれだけじゃないと思うけど……おや、どうやらご到着だよ?」

十七番が視線を送る先には遠征隊の標準的な装備に身を包んだ桜が立っていた。

と言ってもほとんどが軍隊の落としていった流品ばかりだが、一つ違う事を上げるのなら腰に時代遅れの技ものが携えてある事ぐらいだろう。

もちろん訓練用の模造品ではあるが。

「準備出来ました」

桜がコロシアムに入ると、訓練をしていた十七番隊の隊員は隊長である十七番の元に集まっていく。

どうやら十七番隊は事の顛末を見届けるつもりようだ。

もう一つ演習をしていた隊も居たが、いつの間にかどこかに行ってしまった。

紬は、全員から少し離れた場所に体育座りでちょこんと座っている。

この場で対峙するのは八城と桜の二人だけだ。

「はぁ〜さっきも言ったけどな。感染者に向かっていくと思って来いよ!いいな?三百……え〜と、いくつだったけ?」

八城は挑発するようにわざと桜のNo.を間違える。

「私のNo.は三百三十三番です!」

それが戦いの合図だった。

不意打ちの様に踏み込んで来た桜の刃を八城は軽々と鞘で受け止める。

続けざまに桜は横薙ぎに一線。

こちらの刃を滑らせながらの突き。切り払い。

技の冴えだけいうのなら桜の技は一級品の早さと言えるだろう。

人相手なら間違いなく強い部類に入る桜の剣技は確かに腕試しをするに値する代物だ。

鍛え上げた膂力で、女ながらに鍔迫り合いからの押し込み。

そして二人の間に僅かな距離が生まれる。

だが、それでも八城はおもむろに構えを解き、桜を見て馬鹿にした様に笑ってみせた。

「甘いな」

「何がですか!今のは誰がどう見ても、隊長が押されているようにしか見えないですけど!」

再度、一足に距離を桜が詰めそこからさらに押し込み、すれ違うように八城の服を刃が掠める。

「隊長!こんなものですか?」

桜は少し肩の力を抜きながら、熱のこもった頬を上気させる。

「最初に俺を感染者だと思って打ち込んで来いって言ったよな?」

「そうですね。だから全力で打ち込みました」

「ハハッ!やっぱお前駄目だな。紬の言った通りだ」

八城は模造刀を肩に担ぎながら八城は哀れんだ目で桜を見る。

あの余裕そうな表情を崩したい。

そう思うままに桜は姿勢を低くし加速する。

正面からの突きと、見せかけ、八城の顎下から突き上げるような姿勢で桜は刃を突き上げる……筈だった。

「だから甘いって。お前の技術は一級品だが、それは人間ならの話しだ」

その突きは八城の鞘と剣の両刀によって受け流されていた。

「今から俺が奴らの殺し方を教えてやる」

八城の構えに桜は背中に伝わる感覚に従い本能のままに距離を取る。

それは野生の勘とでも言えばいいのか、八城の纏う雰囲気ががらりと変わった気がしたのだ。

「おいおい、なんで距離を取るんだ?一度奴らに見つかれば、時間と共にその数を増やす。訓練ではそんな事も教えてくれなかったのか?」

桜は八城を突き崩そうと、何度となく刀を振るが、その全てがギリギリの所で届かない。

周りから見たら決して一方的には見えない打ち合いだが、桜には分かっていた。

それは、絶対的な力量差。

息が上がり呼吸が乱れるたびに額の汗が鬱陶しく頬を伝い滴り落ちる。

だが拭っている暇はない。

そんな隙を見せれば、あのでたらめな構えからどんな攻撃が飛んでくるか分からない。

そう、桜から見た八城の剣筋はまさにでたらめの一言に尽きる。

鞘を使い攻撃してくる、剣を地面に突き立て防御したかと思えば、即座に大振りの一薙ぎがくる。

だがそれでいてことごとく、桜の研鑽した剣術の全てを、ギリギリで防ぐのが腹立たしい。

そして今八城が見せている技術全てが、防御を前提に組み込まれているという事が、より一層桜を掻き立てた。

桜を一切攻撃せず、防御のみ。

距離を取りたいときだけあからさまな牽制。

数少ない訓練生の中でも、桜は剣術にかけては飛び抜けてトップだったにも拘らず、その剣先を八城には掠める事すら許さない。

中央に来るというのは一握りだ。

選ばれた精鋭だけが許される前線という場所。

桜は両親を食ったあの化け物を殺す機会を与えられるなら何でもした。

地獄のような訓練に耐え。

昨日までいた隣人の脱落を見送り。

ようやくここにたどり着いた。

日々の恐怖に怯えて暮らすぐらいなら、桜は修羅を選ぶ。

そう思ったからこそ、桜はこの場所に立った。

だからシングルNo.の隊長の元に来れたのは幸運だったと言える。

そしてそれが89作戦を生き抜いた英雄だというのだから、歓喜したのは言うまでもない。

先に修羅に至った先人が、どんなものか興味があったし、憧れもしていた。

だが何より、四年という時間を掛けて磨いた技術をこの不真面目が服を着て歩いているような隊長に一笑符にされた事が腹立たしくて仕方がない。

「……私は甘い……ですか?」

桜は刀の柄を堅く握りもう一度構えを作る。

隊長である八城の方が多くの経験をして来たに違いないのは分かっている。

だが桜はあの地獄が始まってからの四年間に

自分が積み重ねてきたものが「甘い」の一言で片づけられるのはどうしても許せない。

「私は……私の磨いて来た技術は……甘いですか?」

ムキになる桜を嘲笑う八城の声音に頭の中で何かが溢れそうになるのが分かった。

「この一刀で分かる。いいから来い」

このとき初めて八城が抜刀の構えを取る。桜もそれに応えるように正眼に構える。

「八番。殺すなよ」

真剣な声音で止める十七番の隊長に対し、八城は軽い言葉で笑いながらこう返す。

「こんな奴を殺すわけないだろ」

隊長同士のやり取りを聞いた直後、桜の中で何かが弾けた。

言わせたままでなるものかと、心が叫ぶ。

桜はその刃の間合いに八城を捉えた。

「とった!」

そう思ったときには自分の手のひらから剣がこぼれ落ち。激しい痺れが手のひらに伝わり、桜の首筋には鈍色に光る刀身が手を添えた状態で止まっていた。

誰が見ても完全な決着だ。

「はい、終わり」

八城は模造刀を鞘に戻すと桜の落とした刀を拾い上げ手渡す。

「ほらよ、落とし物だ」

「なんで、ですか……私……あんなに……」

「え?」

八城は嫌な予感を感じていた。

「だっで!わだじっ……剣以外ざいのうないがらぁ……」

詰まる声、艶やかに濡れる瞳。

桜の震える指先がそれを顕著に訴えていた。

「まて!泣くな!頼む!」

「また!ひぐっっうぅ。またわらぁじぉ馬鹿にじぃでぇ!」

どうやら八城の懇願は逆効果だったらしく、桜は瞳いっぱいに涙を溜め、次第に声をしゃくりあげていく。

「いや……なに?お前、その……強かったよ?」

「うわぁぁぁん」

泣き出した。

ギャン泣きだった。

八城は頭を抱え周りを見ると、十七番隊の女子隊員はゴミを見る目で八城を見ている。

十七番隊の隊長に至っては桜に寄り添い「大丈夫かい?痛かったろう?酷い男だ」とか言っていた。

紬の姿を探すといつの間にか後ろに立っていて、八城の肩をポンポンと叩く。

「やりすぎ」

「お前まで!」

「そこまでやると思わなかった」

「そこまでって、じゃあどうすればいいんだよ」

「なんかこう、いい感じに実力を知らしめるものだと思った」

「なに?そのふわっとした説明、もうちょっと具体的にしてくれない?」

「八城君、部下相手。それも新人相手なら普通手加減する。でもしなかった。だから泣いた」

「ないでぇまじぇん!」

「ほら、本人も泣いてないってさ」

「泣いてる。ギャン泣き。間違いない。八城君が手加減に手加減を重ねて、利き手を使わず目を瞑っていれば、いい勝負になった」

「いやそれ、最初の一刀目で、俺死ぬから……」

紬はどれだけ桜の事を煽りたいのか。桜のその泣きっぷりを見て、どこか誇らしげである。

「私は八城君の本気があんなものじゃないのを知っている」

「俺はあんなもんだよ。あれ以上を期待されても困る」

紬はその言葉にむくれ、十七番に視線を移す。

「十七番も、そう思う?」

「私か?まあ聞かれたら応えるしか無いかな。確かにあれが八番の実力の全てとは言えないだろうね」

紬は自信満々に桜へ向き直る。

「つまり桜は手加減されていた。そういう事」

桜は泣き腫らした目で周りを見渡し八城を見て視線を止める。

八城は何かを誤摩化すように視線を外す。

「うわっぁぁぁぁん。やぶっばりでがげんでだんじゃないでずかぁ〜」

「八城君また泣かした」

「いや、今のはお前が泣かしたんだろ」

コロシアムでは夕方まで新人隊員のすすり泣く声が聞こえたのだった。

それから数時間駄々を捏ねる桜を連れようやく孤児院に戻って来てみれば、丁度マリアが歓迎会を催す為の準備が終わったところだった。

「あ〜……そのさ、うん……桜さんの歓迎会を執り行いたいと……え〜」

昼の訓練を引きずり、ずっと俯いている桜とは対照的に、いつもより豪華な食事に早速手を付けている紬というなんともミスマッチな食卓が出来上がっている。

「八城君コレ最高に美味い。早く食べるべき」

「あらあら、コレは……八城君?何があったのかしら?」

マリアが笑顔ながら威圧的な目をこちらに向けてくる。

八城は昼にあった事のあらましをマリアに説明すると、非難する瞳を八城へむけて来る。

「あら、それは八城君がやりすぎたんじゃないかしら?」

「俺のせいか?」

「まあ八城君一人が悪い訳じゃないとは思うけど。作戦決行日は明後日よ。そんな中で新しい子を不安にさせるような事は、三人のこれからの安否にも関わる事だと思うわ。そしてあなたは隊長。一人で生き残れば良いというわけではないでしょ?」

「それは、その通りだな……」

「あなたは若いし、人を助ける力もある。でも一華じゃないわ。あなたはあなたよ」

八城はどうもマリアのこの蒼い瞳が苦手だった。

何もかも見透かしたような目や言葉も包み込まれるような優しさも落ち着かない。

だから八城はいつものようにぶっきらぼうに返事をする。

「分かってる」

「ならもうやる事は分かるでしょ?ちゃんとチームなら……」

「ああ!もう、うるっさい!面倒くさ」

一華の話になると、心がざわつく。それはマリアも知っている筈だが、それでもその話を出してくるのはひとえに心配してのことだ。

それが分からない八城ではないが、それでも語尾が荒くなってしまう。

マリアは子供達を慈しむような手つきで八城の頭を撫でる。

八城はその手を振り払い、席を立つ。

「あら?八城君どこに行くのかしら?」

「トイレだよ」

「そう、じゃあ八城君がトイレから帰ってくるまでに、全部食べちゃいましょう」

マリアは八城との不和を払拭させるように、周りの子供達に笑顔を振りまく。

「ほら桜さんも作戦は明後日からなんですから今ぐらいは、いっぱい食べて力を付けて下さいね」

桜も無償の善意を無下に出来る程やさぐれてはいないらしい。

マリアから丁寧に取り分けられた皿を受け取り、八城を除いた全員が食事に付いた。

そしてその夕食の席に八城が戻ってくる事は無かった。

歓迎会が終わりマリアに屋上に行くように促された桜は、よく分からないまま屋上に向かった。

扉を開けると夏の始まりの少し涼しい風が吹き抜ける。

屋上には物干竿と木で出来たテーブルとベンチが置かれていて、その一つに八城が座り、丁度てっぺんに登った月を眺めていた。

「桜……ようやく来たか」

桜はそれを見た時反射的に戻ろうと思ったが、マリアは多分八城と話しをさせたくて私をここに寄越したのだろう事は、分かっていた。

「座ったらどうだ?」

「はい……」

二人の間に妙に気まずい雰囲気が流れる。

「お前今歳いくつだ?」

「十八歳です」

「両親は?」

「いません。四年前に……多分、それっきりです」

「兄妹は?」

「三つ歳の離れた妹が111番街区に居ます」

「剣術はいつから?」

「中学からやってました」

「四年前のあの日は?」

「正直憶えてません。先生の指示に従って避難してたと思います」

八城の質問に桜は淡々と応えていく。

「私も聞きたい事があるんですが……先に良いですか隊長?」

「ああ、いいぞ」

桜は大きく息を吸い、意を決して、次の言葉を紡ぐ。

「私は弱い……ですか?」

桜はあの昼から蟠っていた事を、八城に問いただした。

のらりくらりと剣戟を躱され。思い返せば桜はたった一度の八城の攻撃を防ぐ事も出来なかった。

まるで今まで積み重ねて来た努力が無意味だと突き付けられたような気分だ。

「強い弱いをどう決めるかにもよるが……戦いの技術だけ言えばお前は強いだろうな」

「でも隊長には負けました。それも手加減されて!」

「あ〜……あのな、技術うんぬんの前に、男と女で単純な力を比べれたらそりゃ負けるだろ。それに実戦での戦いも、俺の方に分があるんだ。それで俺が負けたら、それこそ目も当てられないだろ?それに手加減の事を言うなら最後の一撃以外はお前だって殺す気じゃなかったんだ。それならお互い様だろ?」

「でも、隊長には甘いって言われました……」

以外と気にする性格なのか。それとも剣の事になると性格が変わるのか。だが桜が落ち込む事が分かっていても、これだけは言わなければいけない。

「確かに甘いな」

「じゃあやっぱり弱いんじゃないですか!」

「待て!泣くな!違う!いや、違くはないが!とにかく泣くな!」

泣き出しそうになる桜をなんとかなだめ、もう一度ベンチに腰を落ち着ける。

「じゃあなんなんですか……今日で私自信がなくなりました……」

見るからにしょんぼりしている桜は今にもまた泣き出しそうだ。

「一つ質問なんだが、お前は奴らと戦闘になったときもああやって戦うつもりなのか?」

「まあ……それ以外できないですしぃ……」

「おい、いじけんな、面倒くさい」

「どうせ〜わたしは〜面倒くさい女ですよ〜」

「はぁ〜……まあいい。お前の技術は人を対象にした経験がある動作だ。だが俺は違う。人相手に刀を振った経験は、本当に指で数える程しか無い」

「……?それと私が甘いのと何の関係があるんですか?」

「奴らに対して、人に対する技術の癖は命取りになる」

桜はそれを馬鹿にされたと感じたのかベンチから立ち上がり八城に抗議する。

「わっ!私だって!そんな事は分かってます!感染者相手に人相手の技は使いません!」

「だが俺には使った。俺は言った筈だぞ、感染者相手だと思って打ち込んで来いって。だがお前はそうしなかった。俺に勝つことばっかりに頭を使ってただろ?」

桜は身に憶えしかなく、視線を逸らす。

「でも、あの時八城さん刀を持ってましたし。それに剣を持ってる感染者なんて……」

「いるぞ、刀を使う感染者」

「……え!?いるんですか!」

「使うというより振り回してる感じだが。それでも奴らの一撃は重いぞ。それこそ手から刀を取りこぼす位にはな」

桜はあの時の痺れを思いだす。

八城は暗にこう言っているのだ、あの時目の前に立っていたのが八城ではなく、それを使う感染者なら、桜はやられていた。

想像しただけで、桜は堪らず背筋に怖気が走る。

「分かったか?俺と紬がお前を甘いと言った訳が」

「……はい」

「お前は最初の戦闘では前には立たせない。紬の後ろで少し勉強するんだな」

「分かりました……」

そう言って立ち上がり桜はとぼとぼ歩いて屋上を後にする。

八城は一人屋上に残り月を見上げると、途端に空腹感が八城を襲う。

夕飯はもう片されてしまった頃だろうか……

八城は自分の腹がきゅ〜と可愛い音が鳴るのを月の静けさの中聞き届けたのだった。

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