第17話 妻との話

 家には妻が送ってくれた。妻は相変わらず黙ってハンドルを握っている。病院と違って車内なので間が持たない。勇気を持って話しかけた。

「博人は元気かな?」

 だが妻は一切答えない。やはり怒っているのだろう。

「すまない。俺が悪いと思っている。今からは----」

 妻がそれを強く遮った。

「静かにしてください。家で話しましょう」

 それ以上は何も言えなくなった。車はやがて家に着いた。玄関に入ると息子の博人はそこには居なかった。


 一人で着替えて来ると、妻は正座して座っている。 吸い込まれるように彼女の前に移動して脚を伸ばしたまま前に座った。まだ痛くて足が曲げれないからだ。

 そして妻はゆっくりと口を開いた。顔が思い切りこわばっている。

「退院おめでとうございます。あなたが身体的にも精神的にもお疲れだったので健康が回復したらお話したいと思っていました」

 彼女が私にとって楽しいことを言わないことは分かっていた。何も私が言わないので彼女は続ける。

「一週間くらいほとんど喋れずに入院して寝てたでしょう。私あなたの生徒さんからの連絡とかの対応をしたの。分かるよね? あなたは授業が出来ないんだから、もちろん携帯も見させてもらいました。生徒さん達と連絡する為にね」

 ここで妻は泣き始めた。聞かなくても内容が分かるような話なのだが、逃げることは許されなかった。彼女は振り絞るように話を再開した。

「もちろん、あなたが携帯に残したファイルの写真や動画も全部見させていただきました。はっきり言って吐き気がしたわ。下品すぎて、、、 考えただけで怒りで手が震えるの。

あなたはあの騙された女の人と再婚する予定だったんだよね?

私達を捨てるつもりだったんだよね?

騙されていい気味よ!」

 本当はもっと私を怒鳴りつけたいのだろう、でも必死で抑えて話している姿が痛々しかった。

「申し訳ない」と小声で返すしかなかった。

「携帯もパソコンも今はココには無いです。翌日には警察の人が押収しに来ましたので、いろいろ疑わしいことがあるんですって、、、あと塾のビルの管理会社が連絡が欲しいそうです。

 最後に、週刊誌は見ない方がいいですよ。おもしろおかしくあなた達のこと書いてありますから、退院したというのがばれて、週刊誌の記者達もここに沢山来ると思います。対処するの大変だと思いますが頑張ってください、、、」

 まだ怖い顔で妻は話を続けている。

 いろいろなことを妻に言われているのは分かったが、妻が言った「いろいろ疑わしいことがあるんですって!」のフレーズが頭にもつれるように引っかかって離れない。

 警察は二人の死に何か不自然さを感じているかもしれない事に恐怖を覚えた。

「ねえ! 聞いてるの!」

 妻の声が大きくなった。驚いて彼女の顔を見る。

「どうせ、あんたなんかいつも私の話なんて聞いてなかったしね! いいわ、とにかく私が言いたいのは今日で私達最後にしたいってこと!」

 彼女はツカツカと歩いていき封筒を鷲づかみして戻ってくると、紙袋の中から茶色で印刷された用紙と私の印鑑を取り出し目の前に置いた。

「分かるよね。これ書いたら出て行くから早く書いて」

 なかなか動かない私の手を、志穂が強い念力で動かしていく。私がペンを取って名前を書き出すと、ようやく妻は私から少し距離をとった。

 もう離婚を回避することは出来そうになかった。

 まだ遠くから鋭い妻の監視は続く、監視だけなら良いのだが、とにかく私と絶縁したいのだろう。合間合間に口を挟む。

「博人とは絶対に会わないでください」

「慰謝料はたぶんあなたじゃ無理だから結構です」

「生徒さんは全員辞めたし、誰もあなたの塾にはこないでしょう」

「今後一切私たちには構わないでください」

「一切連絡もしないでください」

途切れ途切れに入ってくる彼女の念押しが胃を押し潰しそうだった。

 事件の前は、妻に無理やり書いてもらう筈だった離婚書類を、妻に厳しくせかされながら無理して書いている自分が情けなくて、惨めで涙が溢れてきた。

「あなたの離婚証人のところは、あなたのお父さんが書いてくれたから、それも泣きながらね」

 離婚届の保証人欄にはお互いの親の名前と印が押してあった。

 やさしい妻の両親達が、これを書いてる姿と、80歳近くの心臓病でよぼよぼの父が泣きながら離婚届を書くのを想像すると、胸がえぐられそうなくらい痛かった。

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