第42話 黒い炎


 フローラはダウムから一瞬視線を外し左のほうを見て、驚きのあまりに目を見開いて固まってしまう。かなり離れた所ではあるが決して見間違いはしない。


 そこにいたのはまごうことなく金髪にアイスブルーの瞳を持つ美貌の人ジークハルトであった。そして彼が愛おしそうに見つめるその先で、プラチナブロンドの女性が彼の腕を取りぴったりと寄り添っていた。


 フローラは自分の見た光景が信じられなかった。そして本来の目的を思い出し、ダウムに怪しまれないようすぐに視線を戻す。

 あれはジークハルトだった。そして、その横にいたプラチナブロンドの女性は誰?

 プラチナブロンドの髪を持つ女性で、フローラが思い当たるのはアグネスだった。彼女は昨日クラッセン邸でジークハルトの昔からの想い人が自分だと言った。

 でも、ジークハルトはフローラを愛していると言ってくれた。フローラはそれを信じている。でも先程のジークハルトの彼女を愛しそうに見つめる様子が目に焼きついて離れない。


 フローラはこれまでに経験したことのないような、どす黒い感情が胸に沸きあがるのを感じる。黒い炎がフローラの胸をじりじりと焦がす。これは嫉妬……?


「……ブ。」


 フローラははっと我に返る。レオがフローラの顔を覗き込んでいる。


「イブ、少し気分が悪くなったようだね。会長、少し席を外させていただきます。」


 レオはそう言ってダウムの前を辞すると、フローラの腰に手を回し会場の端の椅子が置いてある一角へ連れていく。そしてフローラを座らせ、レオが尋ねる。


「フローラ、どうした? 顔色が悪いし俺が話しかけても上の空だ。」


「いえ、あの……。」


 フローラは思わず目を逸らしてしまう。

 そんなフローラの態度を見て何を思ったのか、レオが会場をぐるりと見渡す。


「……ああ、君の挙動不審の原因はあれか。」


 レオが一方向を見て呟く。


「ジークハルトと、あの側にいるのは……うーん、ここからじゃよく見えないな。あれは……クラッセン侯爵令嬢か?」


 フローラの肩がびくりと跳ねる。フローラは怖くてそちらを見ることができない。黒い炎が依然フローラの胸を焦がしているからだ。自分は今どんな醜い顔をしているのだろうか。

 そんなフローラを見かねてレオが話す。


「……フローラ、これは国家機密だから君の胸にだけ閉まっておいてほしい。君だから話すけど、彼、ジークハルト副団長はもうひとつの顔を持っていてね。彼は国の暗部の統括責任者でもあるんだ。」


「暗部……?」


 フローラが恐る恐る顔を上げてレオに尋ねる。


「ああ、だからきっと今まで本人からは君に言えなかっただろうけど、俺の権限で君に教えるよ。彼の女性との交際の半分以上は諜報活動によるものだ。」


「諜報活動……。」


 半分以上ということはそれ以外の女性もいるということか。

 フローラとジークハルトはお互いの気持ちを確認しあったが、かといって婚約時に交わした契約をなくすとは明言していない。だからジークハルトが自分以外の女性に愛情を持っていてもフローラはそれに干渉することはできないのだ。


 ジークハルトがフローラを愛してくれていることが本当だとしても、フローラ一人だけを愛するとは言っていないし、他におつきあいしている女性がいないとも言っていない。

 もしかしたら、結婚しても愛人とか愛妾とかを持たれるのかしら……。そしてわたしはそれに対して何も言えない。そういう契約だから……。


 フローラとて、自分のわがままでリスクの大きい女優という仕事を続けさせてもらえるのだ。夢のためには全てを犠牲にすると誓ったではないか。ジークハルトが自分を愛していると言ってくれただけでも十分すぎるのではないか。

 フローラは懸命に前向きに考えようと努力するが、やはり胸の黒い炎は消えてくれないようだ。せっかくレオが重要な秘密を教えてくれたというのに。


「フローラ……。俺は君が欲しいと言った。だから君が弱っているならそこにつけ込みたいよ。だがそんなふうに顔を曇らせる君を見たくはない。彼らに正体を偽って近づいて確かめるか?」


 フローラはぶんぶんと首を左右に振る。確かめるのが怖い。もし彼女を愛しているとジークハルトが言葉にするのを聞いてしまったら。きっと自分は立ち直れない。きっと傍にいることができなくなる。


「レオ、ありがとう。貴方の気持ちは嬉しいけど、さっきわたしは何も見なかった。今日ここに来た目的を果たしましょう。」


 フローラはレオの袖を必要以上にぎゅっと力強く握って訴える。


「君がそう言うなら……。それじゃ、君はここで待っているか?」


「いえ、一緒に歩くわ。そのほうが自然に見えるでしょ?」


 フローラは背筋を伸ばし、笑顔を浮かべながら気丈に振る舞う。これ以上レオに哀れみの目を向けられるのがつらい。それにジークハルトがアグネスといるのは、諜報活動の一環かもしれない。

 もう考えない。今日の目的に集中しよう。


 再びダウムに接触するレオ。そしてそれに追随するフローラ。レオはダウムをはじめ数人の関係者と会話を交わしていたようだが、フローラはその内容があまり頭に入ってこなかった。

 考えまいとしても、ジークハルトがアグネスを見つめる様子が目に焼きついて離れないからだ。そしてフローラの胸で依然燃え続ける黒い炎。フローラは早く帰りたかった。そしてできることならジークハルトに直接話を聞きたかった。


 1時間半ほどしてレオがフローラに気づかわしげに声をかける。


「それじゃフローラ、帰ろうか。屋敷に送るよ。大体の証拠の裏付けになる証言は取れたから目的は果たせた。ありがとうね。それと、つらい思いをさせてごめん。」


「ううん、いいのよ。わたしこそ心配かけてしまってごめんなさい。明日ジーク様に聞いてみるわ。しばらく帰ってこないって言ってたから、会えるかは分からないけれど……。」


「そうか……。うん、2人でちゃんと話すのが一番いいよ。俺から彼に何か言ったほうがいい?」


「いえ、いいわ。何も言わないで。ここで見かけたことも、令嬢のことも。わたしが尋ねるわ。」


「分かった……。それじゃ、帰ろうか。」


 フローラたちは未だたくさんの人でざわめく会場を後にする。

 レオは優しくフローラの手を取り馬車に乗せてくれた。そして馬車の中では何も話さなかった。フローラにとってはその沈黙がありがたかった。口を開くと次々に醜い言葉を吐き出しそうだったからだ。

 そして早く屋敷に帰りたかった。今はレオの哀れみの視線がつらい。


 侯爵邸に到着して馬車から降りる前にレオがフローラに告げる。


「もしフローラがこのままつらい思いをし続けるんだったら、俺はもう遠慮はしない。ジークハルトから君を奪いに来る。君が何と言おうと、君の気持ちがどこにあろうとね。君をあいつに任せてはおけないからね。覚えておいて。」


 レオはそう言ってフローラを馬車から降ろし帰っていった。

 フローラは大きな溜息を吐き、部屋に戻って入浴を済ませ早々にベッドに入った。その夜はなかなか寝つけず、珍しく芝居のことを全く考えることができなかった。




 それから3日、フローラはジークハルトの帰りを待ち続けた。彼は忙しいから帰れないと言っていた。仕事なのにパーティで何をしていたのか。アグネスといたのは諜報活動の一環だったのか。フローラの胸で黒い炎は衰えるどころか、嫉妬に猜疑心も加わってますます激しく燃え続けていた。


 自分にこんな醜い感情があったとは本当に驚きだ。恋愛ってこんなに醜い一面もあるのね。恋愛なんかしなければこんな思いもしなくて済んだのかしら。

 フローラは基本前向きな性格ではあるが、胸の中に初めて抱く昏い感情をどうしていいか分からず持て余していた。そしてどんどん考え方がネガティブになっていく。フローラはそんな自分が嫌だった。


 その日の夜、ようやくジークハルトが帰ってくる。フローラはここのところ夜半過ぎまで起きて彼を待っていた。

 どうしてもジークハルトと話さなければいけない。そう心に決め、フローラは私室に戻ったジークハルトに、疲れているかもしれないと思いつつも面会を申し込む。


「ジーク様、フローラです。今よろしいでしょうか?」


「……フローラか。どうぞ。」


 低く暗い声でジークハルトから返事がある。フローラは扉を開き部屋へ入る。

 さあ、勇気を出すんだ。尋ねたいことはいっぱいある。


「お疲れのところを申し訳ありません。お尋ねしたいことがあってまいりました。」


「なんの用だ?」


 久しぶりに会えたというのに、ジークハルトの表情は暗いままだ。フローラを見る目にも光がなく、放たれた言葉は冷たく響く。フローラは嫌な予感がひしひしとするなか、背筋を伸ばしてなんとか言葉を絞り出す。


「ジーク様はお仕事でお忙しいから屋敷に帰れないとおっしゃっていましたよね?」


「……ああ。」


「先日ダウム貿易商会のパーティに参加させていただきました。そしてそのときにジーク様とプラチナブロンドの女性をお見かけしました。」


「……なんだって!? なんで君はあんな危ないところにまた!」


 ジークハルトの瞳に怒りの炎が揺らめく。ああ、また怒らせてしまった……。


「あのご令嬢とはお仕事でいらっしゃったのですか? それとも契約だからわたしにそんなことを聞かれるのは不本意ですか?」


 フローラの言葉を聞いてジークハルトの表情に悲しみとも落胆ともいえる色が浮かぶ。そして彼はこめかみを押さえながら冷たい声で答える。


「……フローラ、私は仕事であの場にいた。あの令嬢は……プライベートだ。君に言う必要はない。契約だからだ。」


 ああ、ジークハルトの口から一番聞きたくない答えが返ってきてしまった。フローラは足元が崩れていくような感覚に襲われた。




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