第17話 フローラとイザベラ
真夜中のことだった。ジークハルトの手を取り、祈るように瞼を閉じていたフローラの耳に聞き慣れた声が聞こえる。
「……イザ……ベラ?」
「ジークハルト様……?」
見ると彼はうっすらと目を開けてこちらを見ていた。だがその目の光は弱く、意識はいまだ混濁しているようだ。
「う……。」
「ジークハルト様!」
彼は再びぎゅっと目を閉じ、苦しそうにその身を捩る。フローラは彼の手を両手でしっかりと掴み、再び呼びかけた。
彼はまた少し目を開け、こちらを見る。
「イザベラ……。」
自分のことをイザベラと呼ぶ彼に対し、それでも目が覚めるのならともう一度呼びかける。
「……ええ、ええ、イザベラですわ、ジークハルト様。どうか目を覚ましてください。」
「ああ、イザベラ……会いたかった……。」
「わたしも会いたかったです。貴方に会えて嬉しい……。」
そう言って両手で握っている彼の手をそっと自らの額につけると、身を乗り出して祈るようにその頬に口づけをした。
「イザベラ………フ、ローラ……?」
「ジークハルト様、どちらでも貴方がお好きなようにお呼びください。」
心に湧き上がる寂しさを隠しつつ笑うと、ジークハルトはフローラの手からゆっくりと左手を外し、彼女の柔らかい蜂蜜色の金髪を優しく撫でた。
「フローラ、君だったのか……。ありがとう……。」
「……わたしはずっと傍にいますからね。だから早く元気になってください。」
そう懇願すると、彼はフローラをじっと見つめて優しく微笑み、再び目を閉じて眠りについた。
そんな彼をしばらくじっと見守る。彼は先程よりも穏やかな表情で目を瞑り、すうすうと寝息を立てている。
その様子を見てようやく少しだけ安心した。再び彼の手を取り優しく両手で包み、いつの間にかその傍らで眠ってしまった。
◆◆◆ <ジークハルト視点>
ジークハルトがゆっくりと目を覚ます。……ここはどこだ。
辺りを見回すと白い壁と、窓は白いカーテンで覆われており、カーテンの向こうからは柔らかな日の光が零れている。
そして彼の傍らには、自分の手にその手を絡ませたまま、ベッドの上に顔を乗せて眠っているフローラの姿があった。
彼女の長い睫毛は臥せられ、その柔らかい金髪はベッドの上に緩く広がっている。
(フローラがずっと傍についていてくれたのか。……昨夜のことはうっすらと覚えている。最初はイザベラかと思った。その潤んだ蜂蜜色の瞳が重なって見えたから。)
ベッドに広がる彼女の髪を優しく撫でる。
(俺はイザベラと口に出して呼んだ気がする。……フローラは傷つかなかっただろうか。昨夜、彼女が俺になんて言ったのか……覚えていない……。)
悲しそうに微笑みながら細められた、彼女の潤んだ瞳が目に焼きついている。そのまま彼女の髪を撫でていると、彼女がゆっくりと目を開けジークハルトを見て口を開いた。
「ジークハルト様……。」
「……フローラ、ずっと君がついていてくれたのか?」
「ええ。……ジークハルト様、お加減はどうですか?」
「ああ、かなり痛いよ。体を動かそうとすると激痛が走る。それになんだかぼーっとする。」
「きっと痛み止めが効いているのですわ。……あまり動かないでください。傷口が開いてしまいます。先生を呼んでくるので待っててくださいね。」
そう言って立ち上がろうとするフローラの手を思わずぎゅっと握る。彼女は一度動作を止めてこちらを振り向いた。きょとんと可愛らしい顔で彼の言葉を待っている。
「フローラ……、ありがとう。」
彼女は目を細めて優しく微笑むと、そっと立ち上がり病室を出ていった。
しばらくするとフローラが医師と看護師を呼んで戻ってきた。
看護師がジークハルトの包帯を交換する間、医師が彼の脈や熱を計ったりと一通りの診察を行った。
その横でフローラはカーテンと窓を開けて、空気を入れ換えていた。彼女の蜂蜜色の金髪が風でふわりと揺れる。
「……もう大丈夫でしょう。それにしてもあんなにひどい傷だったのに、意識が思ったよりも早く回復して驚きました。侯爵様は普段から体を鍛えられてるから体力があるのでしょうね。背中の傷跡は若干残るかもしれませんが、急所は外れていましたので、後遺症も特にないでしょう。しかしながら、まだしばらくは安静にしていてくださいね。」
医師と看護師は「お大事に。」と言って病室を出ていった。
「本当によかったです、ジークハルト様……。」
「フローラ……。」
フローラはジークハルトをじっと見つめて、その大きな瞳いっぱいに涙を溜めて泣きそうな顔で笑った。そして瞬きとともにその頬に雫が零れる。
何となくそんな彼女を抱きしめたくなり、無意識に手を伸ばそうとする。そのときコンコンとノックの音が聞こえた。
「フローラ様、お着替えと食べ物を持ってまいりました。」
「どうぞ。」
フローラが入室を許可すると扉を開けてオスカーが入ってきた。彼はジークハルトが目を覚ましているのを見て、大きく目を瞠る。
「ジーク坊ちゃん……!」
「っ……!お前それは!」
一瞬動揺したが気を取り直し再び口を開く。
「……オスカー、世話をかけたね。」
「よくぞ……、よくぞ目を覚ましてくださいました!」
オスカーは泣きそうな顔でジークハルトに歩み寄る。
(オスカーめ! この年で坊ちゃんは恥ずかしすぎる!)
そしてフローラはというと、顔を背けていて表情は見えないが肩を震わせている。彼女は……これは笑ってるよな。
「お加減はいかがですか?」
オスカーが心配そうな顔で尋ねる。
「まだしばらくは痛みが続きそうだが、もう大丈夫だそうだ。しばらく入院になるだろう。」
「それはようございました。私は屋敷に戻って使用人達に伝えさせていただきます。皆とても心配していたので……。」
「ああ、心配かけてすまなかった。皆にもよろしく伝えてくれ。」
「かしこまりました。それではお大事になさってください。決して無理はなさらないでくださいね。」
「ああ、ありがとう。」
オスカーはジークハルトに安静を促し、一礼して部屋を出ていった。フローラはそれを見送り、こちらを向いて尋ねた。
「ジークハルト様、お腹は空きませんか?」
「食欲はあまりないのだが……。」
「食べられるなら食べたほうがいいとお医者さんがおっしゃっていました。お薬も飲まないといけないし、ちゃんと召し上がったほうがいいです。柔らかい食事もありますよ。わたくしが食べさせてあげますから。」
フローラはそう言って食事の準備を始める。
「いや、一人で食べれるから。」
「だめです。腕を動かして傷が開いたらどうするんですか! 大人しく食べさせられてください。さあ、口を開けて。あーんってしてください。」
そう言って、彼女が食べ物をスプーンで掬って、ジークハルトの口元まで持ってくる。
(なんだこれは! 羞恥プレイか! わたしの威厳が……。)
いつもよりも強引なフローラに押し切られて仕方なく口を大きく開けると、甘い香りのするスプーンのそれを彼の口の中に入れる。もぐもぐ……。
「ん? なんだこれは。甘くて旨いな。」
「これは屋敷の料理人が真心を込めて作った、特製パンプディングなんですよ。消化がよくて栄養も満点なんです。美味しいでしょ?」
そう言って笑うフローラの笑顔は、いつもの貼りつけたようなそれではなく、本当に楽しそうな輝かんばかりの笑顔だった。そんな彼女を見て、ジークハルトはもはや彼女を地味だなどとは全く思わなかった。
「さ、もう一口。あーん。」
「………。」
彼女の言葉を受け羞恥に耐えつつ再び口を開ける。
その羞恥あーんプレイを、頬が熱くなるのを感じながら皿が空になるまで甘んじて享受するのだった。
(何この可愛さ! なかなか懐かない犬をようやく手懐けたような達成感。ジークハルト様が大きな犬に見えるわ!)
フローラには、自分が口元に持っていくスプーンを羞恥に堪えつつも甘んじて受け入れる彼が従順な大型犬に見えていた。目に見えない耳と尻尾がしゅんと垂れ下がっている。
皿が空になるまでジークハルトには頑張って食べてもらった。そんなにたくさんの量ではなかったし、彼のお腹にも丁度よかったようで、食べ終わった今でもそんなに苦しそうな顔はしていない。
このまま元気になってくれるといいのだけれど……。
そんなことを考えてから、ふと、昨夜彼が自分のことを『イザベラ』と呼んだことを思い出してしまった。
ジークハルトはフローラのことをイザベラだと思ったのだろうか。それとも意識が朦朧として、夢うつつにイザベラの幻を見ただけなのだろうか。
昨夜自分をイザベラと呼んだことについて彼に聞きたかったが、確実に藪蛇になるだろうと予想されたため、とてもじゃないが聞くことができなかった。
昨夜は『自分のことをイザベラだと思ってもいいから、とにかく彼に目を覚ましてほしい』と願っていたために、彼の言葉を否定できなかった。
ジークハルトはフローラと婚約解消して、イザベラと一緒になりたいと思っているのかもしれない。彼の思うようにしてあげたいけどそれはできない。だってイザベラはフローラなのだから。
彼がフローラとして決別して、イザベラとしてともにいることは不可能だ。素で振る舞えないフローラは本来のフローラではないし、逆にイザベラでいる時は本来のフローラのままでいられるのにその姿は偽りのものなのだ。
どうしてこんな複雑なことになってしまったのだろう。全て自分が悪いのか。
そして、自分の気持ちもよく分からない。ジークハルトを保護者のように慕う気持ちはあるけれど、そこに恋愛感情があるのかどうかがよく分からない。
でも昨日は、自分はどうなってもいいから絶対に彼を失いたくないと、そう思ってしまった。夢のためなら全てを犠牲にできると思っていた自分が。
昨日からフローラは感情を表に出しすぎて、イザベラとしての一面もジークハルトにかなり見せてしまっているだろう。
この分だと自分がイザベラだとばれてしまうのも時間の問題かもしれない。
そんなことを考えながら食べ終わった食器を片付け、うとうとと眠り始めたジークハルトに毛布を掛けてその姿をじっと見守った。
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