第2話 アーベライン侯爵邸


 翌朝フローラは必要なものだけを準備し、鞄ひとつでジークハルトが用意してくれた馬車に乗り込んだ。

 待ちに待った王都への移住。領地を離れる寂寥感よりも新しい王都での生活を想像して胸が高鳴った。


(ああ、いよいよだわ! 愛想つかされて送り返されないように気をつけなくっちゃ。)


 バウマン領を出発して2日。道程の途中にある町で宿泊しながら、ようやく王都へと辿りついた。

 侯爵家の御者がフローラに声をかける。


「そろそろアーベライン侯爵家に到着いたします。」


「ありがとう。長い間、お疲れ様でした。」


 王都に到着して10分ほど走ったあと、貴族街に入って侯爵邸の門をくぐる。馬車の窓からその大きなお屋敷の外観を見て思わず溜息をついた。


(なんて大きなお屋敷なのかしら……。こんな大きなお屋敷に使用人と侯爵様お一人で住んでらっしゃるのね。)


 停車して間もなく、屋敷の正面玄関から40代ほどの優しそうな男性と数人のお仕着せに身を包んだ女性たちが迎えでてきた。

 御者が馬車の扉を開け、その中の執事らしき男性の手を取り馬車を降りる。


「いらっしゃいませ、フローラお嬢様。私は当侯爵家の執事を任せていただいておりますオスカーと申します。長旅でお疲れになられたでしょう。どうぞこちらへ。」


「ありがとうございます。バウマン男爵家のフローラです。今日からお世話になります。よろしくお願いしますね。」


 正面玄関をくぐり、彼はさらに言葉を続ける。


「早速お部屋へご案内いたします。本日旦那様は仕事で邸にはいらっしゃいませんがどうぞごゆっくりおくつろぎください。身の回りのお世話は侍女がお手伝いさせていただきます。」


 2階の日当たりのよい部屋へ案内され、中に入りその内装を見渡した。

 決して派手ではなく上質で落ち着いた色合いの家具が揃っている。絨毯もカーテンも上品な印象で統一されている。

 先に部屋に入った侍女がフローラに声をかける。


「こちらがお嬢様のお部屋でございます。私はお嬢様つきの侍女を務めさせていただきますエマと申します。」


「そう、エマ、よろしくね。」


 フローラの言葉にエマはにっこり微笑んで答えた。


「はい、精いっぱいお世話させていただきます。ドレスは旦那様がご用意されてますので、よろしかったらお着替えをお手伝いさせていただきます。ご入浴はいかがなさいますか?」


「そうね、さっぱりしたいから先に入浴をさせてもらっていいかしら。入浴は一人でいいわ。」


「かしこまりました。ではご入浴がお済みになりましたら着替えのお手伝いをさせていただきますのでお声かけくださいませ。」


 エマに浴室へ案内され、フローラはその内装を見て目を瞠った。男爵家の浴室よりもかなり広くて立派だ。浴槽もなかなかの大きさである。これは入浴が楽しみだ。


「それではごゆっくりお寛ぎくださいませ。何か分からないことがありましたらいつでもお声かけください。」


「ありがとう、エマ。」


 彼女の言葉ににっこり微笑んで答え、エマが退出した後少しだけ背伸びをした。


「さすがに疲れたわ……。それにしても本当に綺麗なお風呂。お部屋もお風呂もあまり華美ではなくて上品で素敵。わたし好みだわ。」


 少し休憩した後お風呂でゆっくり寛ぐ。体の疲れを取ったあと、クローゼットに用意されていたドレスの中からなるべくシンプルなものを見繕って、エマに着替えを手伝ってもらった。

 エマが退出したあと、ソファーに腰を下ろして少しだけ休むことにした。




 やはりまだ疲れていたのだろう。いつの間にか眠っていたようだ。しばらく微睡んでいたら、夕食の準備が整ったと声をかけられた。

 そのあとダイニングに案内されたが、どうやらジークハルトはまだ戻っていないようである。


「侯爵様はいつ頃お帰りなのかしら?」


 そう尋ねると後ろで控えていた執事のオスカーが申し訳なさそうに答えた。


「申し訳ございません。お嬢様がご到着されたと使いを出しましたのでいつもよりは早い時間にお帰りになるかもしれませんが、はっきりいつとは申し上げかねます。」


「そう、分かったわ。お食事は先にいただかせていただきますね。」


 彼の言葉にそう答えて食事を始めた。テーブルに並べられたのはさすが侯爵家といった豪華な料理の数々である。

 いつも家族と一緒に取っていた夕食を、こんなに広いダイニングで一人きり食べることに少し寂しさを感じながら、ジークハルトの日々の暮らしを想像する。


(きっといつも夜遅くにお帰りになるのね。まあ二人で顔をつきあわせて食事をとるのも緊張しそうだし、毎日こんな感じだと思っていいのかしらね。)


 そんなことを考えながら食事を済ませ、執事に尋ねた。


「わたくしは明日王都を散策したいのですが、街の中心部まで馬車をお借りしてもいいかしら。」


「かしこまりました。では明日はフローラ様に侍従をつけさせていただきます。」


 それは困る。侍従と一緒に居ては入団の申し込みに行くことができない。そう思って何とか断る口実を考えながら話す。


「いいえ、要らないわ。一人で行きたいの。」


「お一人でございますか……。それはお嬢様の安全のためにも承りかねます。」


「大丈夫よ。わたくしこれでもかなり強いのよ。ちょっと腕の立つ男くらいだったら簡単にのしちゃうわ。お願い! どうしても一人で町を歩きたいのよ。」


 渋るオスカーをなんとか説得して、翌日の単独での外出を許可してもらった。

 実際フローラはかなり腕が立つ。父と兄が騎士なのもあり、幼い頃から剣術と体術の訓練につきあってもらっていた。舞台女優の夢が叶ったら夜の活動が中心になるだろうからと、自衛のための手段として日々修練を積んでいたのだ。

 部屋に戻ってからエマに声をかける。


「侯爵様がお帰りになられたら、遅い時間でも構わないから声をかけてください。こんなによくしていただいたことに、ぜひご挨拶とお礼をさせていただきたいの。」


「かしこまりました。旦那様がお帰りになられたらお声をかけさせていただきます。」


 そう答えてエマが退出したあと、先ほど荷物を解いて机の引き出しにしまった1冊の雑誌を取り出す。


(これこれ、月刊『演劇春秋』。これに劇団員の募集要項が書いてあるはず……。定期公演の予定なんかも載ってるのよね。)


 月刊『演劇春秋』はフローラの昔からの愛読書である。

 今のところジークハルトにも屋敷の使用人にも自分がやろうとしている役者の仕事のことを告げるつもりはない。


 明日からの計画を考えながら真夜中までジークハルトを待ったが、疲れもあってさすがにそれ以上は眠気に勝てず、エマに「先に休みます」と断りを入れる。

 寝衣に着替えたあと、フローラは初めて体験するふかふかで大きなベッドにその身を沈めた。




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