◇ 08

***


 三十秒程続いた警報が如き唸り声は、一旦止まった。ただの息切れだ。小さな体躯の真っ白な少女の姿をしたフラン・シュラは大きく息を吸い込み、再び長い長い唸り声を上げた。


「う~~~~~~~」

「息、よく続くね」


 暴れはしないものの耳元で延々と唸り続けるペルルに対し、変わらず穏やかに(笑ってすらいる)リコルは言った。


「アオバ君が大好きなんだね」

「う~~~~~~~~~~~」

「離れたくない気持ちはよく分かるよ。私もテルーナと離れていると、不安になる。無茶をしていないかなって、心配だからね」

「う~~~~~~~~~~~~~」

「でも、ずっと一緒にいるのは難しいよ。寂しい事だけれど、ほんの少しだけ我慢できないか? 明日の朝には会えるから、数時間だけだよ」


 リコルの呼びかけも虚しく、ペルルはただ唸り続けた。苦笑して「駄目かぁ」とぼやきつつも、リコルは抱き上げたペルルに構い続ける。そんな二人を遠巻きに眺めながら、ユラはため息をついて、視線を客室の方に向けた。


(まだ起きているな……)


 寝台の上で体を起こしたまま、痛みに耐えているアオバの反応が見える。力の制御は出来ているようで(単純に、何も想像しないように思考放棄をしているだけかもしれないが)、部屋の中に刃物や工具、檻といったものの出現頻度は減りつつあるようだ。


(痛み止めの効能がいつまで続くか……いっそ眠ってしまった方が楽だろうに、寝ている間に力が使われる事を恐れてしまっているのか)


 有り得るだろうな、と今なら分かる。何となくだがアオバの考え方が理解できる。他者に対するあらゆる加害を恐れる一方で、自分がおざなりになってしまっている。それは出会った当初から感じていたし、精霊と相対した際に防衛本能を無視してペルルを守ろうとした事で証明できている。だからこそ今までずっと、ラピエルがアオバから奪った、アオバから欠けてしまったものは『自身を守る事』だと仮定していた。だが、そうではない。


 自身を守ろうとする考えが欠けている場合、そもそも防衛反応は起きない。アオバは苦痛や恐怖心を感じているし、反射的に自身を守ろうという行動は出来ている。その考えはあるのだ。


(アオバから欠けてしまったのは多分……)


 本棚にもたれ掛かり、閉眼する。からり、と下駄の音が耳に届き、薄く目を開けた。


「──そう、彼から抜け落ちたのは『愛情を受け取る』という行為だよ。これが欠けている限り、君がどれだけ『守る』と誓っても、アオバは『自分の身の危険が迫っている事』よりも『ユラとの誓いを守っている事』を、すなわち『ユラを怒らせないで済む事』を意識するわけだ」

「出たな、失せろ。神様の物」

「いの一番に言う事がそれかい?」


 それはカラカラと笑って、墨で描かれたような椿柄の着物の裾を揺らした。行儀の悪さを気にする事もなく、神様の物は机に腰を下ろし、鼻緒を白い足袋を履いた指に引っ掛け宙ぶらりん状態にして足をゆっくりとばたつかせた。


「先に己の感情を盾に約束しておいたのは、正しかったのかもしれないね。これでアオバは少なくとも、身の危険を感じれば君に縋る。君は守るだけの力が、“今は”ある」

「……自傷行為は止められない」

「誰にだって止められないさ、ソレは」

「死後に楽園で幸せに暮らせって?」

「彼を尊き者として扱う神様ならよかったのにね?」


 立てた人差し指をくるりと回し、神様の物は客室の方へと指先を向けた。


「傍にいなくていいのかい」

「……一人でいる方が、アオバは自分自身を守ろうとする。傍に誰かがいたら、その人を気にしてしまうから……」


 私が傍に居ない方がいい。小さくそう付け足して、虚しい気分になる。自身の価値を否定しているのだから、当然と言えば当然の感情だ。


「もし、この案件の担当が私ではなくミヨコだったら……もうとっくに終わらせて、次の仕事に向かっているんだろうな」


 うんうんと頷いて、神様の物は閉眼したまま楽しそうに真っ赤な口紅が引かれた唇に弧を描く。


「アオバの力を使って実体化し、アオバはその場で処分。オーディール復活の為の呪文を広めて回りながら、早急にリコルと接触し、“運命を司る者”の力を引き上げてラピエルと対峙させて、おしまいだ。勿論、この場合はリコルも心身ともに使いものにならなくなるけどね」

「……精神的負担の増加が、“運命を司る者”の力を引き上げるから、か」


 地下祭壇で精霊と相対した時、僅かだがリコルの力が上げられた事は確認している。その精霊から解放されている今は元の数値にまで戻っているが、意思を持った自然の威圧に触れてあの振れ幅なら、おそらく──


(人を殺す、己が存在した事で無関係な町が壊滅被害を受ける、故郷の壊滅、帰る家の消失、大事な人間が目の前で傷つく、もしくは失う……これらを短期間で連続して受ければ、リコルの力は完全開花する。だが、こんな精神負担をかけ続ければ間違いなく心が壊れる……いや、違うな。心を壊さないと、開花しないように抑制されているんだ。それほどにこの世界は脆くて、“運命を司る者”の力は強すぎる)


 ちらりと視線を彼らに向ける。唸るペルルをあやすリコルは、特別美しい容貌であることを除けばどこにだっている好青年だ。彼とその周囲を犠牲にすれば、この世界は救われる。……本来なら、そういう世界なのだ。


 心の内を読み取り、神様の物はニタニタと笑った。


「だけどね、ユラ。それが一番少ない犠牲で世界が救われる脚本だ。そして今、この世界は別の道を歩み始めている。本来の脚本よりもずっと少ない犠牲で済むかもしれない、そんな物語を」


 言いたくない事をズケズケと、聞きたくない事こそコイツは言う。そういうものだと知っているが、受け入れられないのも事実だ。そんなユラの嫌悪も愛しい感情の一つとして汲み取り、神様の物は告げた。


「宝石の目をくり抜き、金の皮膚は剥いで配ってやれば、本来は救われなかった者も救われるかもね? 用済みになったみすぼらしい像は台座から引きずり降ろして、また新しく素晴らしい像を建ててやるのさ。……ああ、元々この世界の人間はそうやって生きてきたのだから、転生者も郷に入れば郷に従えってヤツだね」


 選ばれた子を贄として送り出した、かつての儀式を指していると分かり、こめかみのあたりを指の腹でさする。一々不愉快な物言いをするのは、ユラの奥底にある汚い感情のせいだろうか。


「溶けず残った心臓をごみ溜めに捨てられる前に、何とかしようと足掻くのが生者の特権だよ。違うかい?」

「お前は善人にも極悪人にも同じように言うんだろう」

「全ての生命に、だよ。お気に召さない? おかしいなぁ。君達はあんなにも、“平等”が大好きなはずなのにね?」

「……私に言うか」


 蟻の観察でもしているみたいに、じっくりとユラの顔を覗き込んでいたソレは瞬きの間に消えていなくなった。姿が認識できなくなっただけで、近くにはいる。


 腕を組んで大きくため息を吐くと、丁度その時ウェルヤが別室から戻ってきた。手には図書館にやって来た時と同じく荷物が握られている。


「ああ、まだ唸っていたんですか」

「うん。何言っても納得してくれないんだ……」

「う~~~~~…………う~~~~~~~」


 息継ぎをして、ペルルはまた唸り始めた。眉を下げつつも笑顔を崩さないリコルの目配せに、ウェルヤはため息交じりに承諾してペルルに話しかけた。


「ペルルさん、三日後にある『トーマ・ココの日』って知っていますか?」

「う~~~~~~~」

「大好きな人や、大事な人に花を贈る日です。ペルルさんからアオバ君にお花を贈ってあげたら、きっと喜ぶと思いますよ」

「う……?」


 アオバが喜ぶという部分に反応したのか、ペルルがウェルヤの方を向いた。いつもと変わらない無表情に、ウェルヤはやや困惑気味だ。


「おはな……」

「はい。ペルルさんはお花、好きですか?」

「んーん。……でもあおばはおはな、すき。おはなあるとね、いつもぺるるにみせるから」


 変な勘違いが生まれている気がしなくも無かったが、わざわざ訂正する程でもないかと黙って彼らの会話を聞くことにした。


「では、きっとペルルさんからお花を貰ったら喜びますよ」

「ほんと?」

「はい。どの花がいいか、選びましょう」


 そう言って、ウェルヤは近くの本棚から植物の図鑑を抜き取り、ペルルの前で開いて見せた。真珠色の目は既に、興味が図鑑の方に移っている。


「あおばのいろがいい」

「アオバ君の色、とは」

「これ。あおばのいろ」


 もぞもぞとリコルの腕の中で動き、ペルルはポンチョの留め具を彼らに見せた。この世界の住人である二人には、それがすぐに糸切狭だと気づいたようで、『何故これを留め具に……?』と言いたげな顔をしながらも、色に言及を始めた。


「茶色か……春頃なら見た事があるが」

「そうですね。今だと、黄色か赤か……。ペルルさんが好きな色は無いんですか?」

「……あおばのいろない?」

「今の時期はあまりないですね……」

「そぉなの」


 アオバの傍にいられない不満は随分落ち着いたようで、ペルルは「むーん」とちょっと変わった唸り声をあげて、目をぱちくりとさせた。


「『わたし』は、しろいはながすき」


 私。その一人称に、思わずペルルを凝視する。


(これか。アオバが言っていた、ペルルの中で覚醒している意識というやつは)


 転生して、発狂して、精神の崩壊と共に体も溶けて……そうやって生まれるフラン・シュラの中で意識を保っている人物がいるとは。しかしどれだけ見ても、ペルルを構成する魂は粉々で、無理やりつなぎ合わせてどうにか形を作っているような、とても一個人の人格を保てているとは思えない状態だ。


(どうなっている……? どれもこれも、話せる程形があるとは思えんぞ)


 訝しむユラの事など知らず、リコルたちは一緒になって図鑑を覗き込み、白い花の中からペルルが気に入りそうなものを探し始めた。ペルルはページの端っこを摘まんでペチペチと音を立てて遊んでいる。


 ぐちゃぐちゃの生体反応の中に一つ、砕け切った魂の断片が嬉しそうに反応を見せていた。


「……キョウカ?」


 知り合いの名を、思わず呼んだ。ミヨコの跡を継ぐはずだった、たった数回顔を合わせただけの、十年前に亡くなった少女の名を。そう、十年前だ。フラン・シュラが現れるようになった年と重なる。彼女がここに連れられていても変ではない。


 声に反応して、ペルルがこちらを振り向いた。それから「しー」と、人差し指を口元に当てる動作をして、ちょこんと首を傾げた。その動作すら、彼女とよく重なるのだ。


 思わぬ人物の存在に、止まりそうな思考がこんな答えを出す。壊れ切った魂なら、出会った当初から狂っていた少女なら、自我を保っていてもおかしくない、と。

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