◇ 10

***


 雨が止んだ、曇天が広がる薄暗い窓の向こうの景色を眺める。図書館の一階に降りて来ていたアティは、視線を共に降りて来ていた女性の方に向け、直視し切れずすぐに逸らした。


(いい歳こいて色恋なんぞ、馬鹿々々しい……)


 生き物である以上、そして外敵が多く人口が不安定である以上、子孫繁栄はある種の義務のようなものではあるが、聖騎士においてはそれらが免除されるのが暗黙の了解だ。聖騎士の役目は生き物らしくある事ではなく、人間を守る事、及び戦い続ける事。聖騎士から聖騎士が生まれるわけではなく、加護を与えるかどうかは精霊次第なのだから、無理に恋愛も結婚もする必要は無い。


 だから、力無き者を守り続ける為にも、色恋にかまけている暇はない──そう考えていたから実際、初恋も済まさず今の今まで生きて来たわけなのだが。


 不意に椅子が引かれる音がして、ゆっくりと足音が近づいて来る。意味も無く緊張し、間近に迫る気配と甘い匂いに背を背けるが、そんなささやかな抵抗も虚しく、背後から抱き寄せられた。聴覚が過敏になっているのか、衣擦れの音すらくすぐったい。


「な……何か、用、ですか」


 何故か敬語になってしまう程に混乱しつつ聞き返すと、少し間があって「用があるのは、そっちじゃないの?」と控えめな声量が答える。


「いや……何も」

「でも、目が合った」

「偶然、だ。顔を上げた時、丁度君が窓の方向を向いていただけ……」

「私が見ていたのはアティだけど」

「なら、用があるのは君じゃないのか」

「何も。見ていただけよ」


 首元に頬をすり寄せられて、ぎょっとして肩を跳ねあげる。鏡を見ずとも顔が真っ赤だろうと分かる程、顔周りに集まる熱と全体的な体温の上昇で汗ばむ。さすがに汗臭いのではないか、不快に思われていないか……思われたところで何だというのか! 色恋にかまけてられないと、言ったのは自分じゃなかったか!? 矛盾する思考に暴れる内心とは裏腹に、現実の身体はガチガチに固まってしまって動けない。


「そ……それ、やめてくれ」

「……どうして?」


 意を決して声を振り絞れば、心底不思議そうな声が返って来た。


「男の人は、こういうの好きでしょう」


 あまりにも自然にそう言うから、思わず頷いて流しそうになった言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。かろうじて頷きかかった首を止めて、「何?」と聞き返す。


「見返りがあるから……助けたんでしょう?  あげられるものなら、何だってあげる。平気よ。目を閉じていれば、痛くて気持ち悪い事も、いつか終わるから」


 淡々と、女性は言った。言わされているわけでもなく、心臓の不自然な跳ねも無く、自主的に事前に用意した文章を、何度となく使用されたであろう事を想起させる程当たり前のように、言った。


(……ああ、そういうことか。腑に落ちた)


 道理で、暴漢に襲われていたとはいえまだ衣服すらはぎ取られる前だったというのに、放心状態だった訳だ。防衛本能といえばそうなのだろう。自らの意志で放心状態になってしまうぐらいには、加害される事も、助けてくれた人間が牙をむく事も、彼女にとっては『よくある事』に過ぎず、当たり前のようにアティにもそれを当て嵌めているのだ。


 『助けてくれたということは、彼も見返りを求めている』と。そして自身に与えられた加護とこれまでの経験から、求められていることは一つしかない、と。


 流れた沈黙は、今までもそうだった、だからこれからもそうするのだと言いたげで、胸糞が悪い。彼女をそんな思考になるまで痛めつけた人間と、それらを疑うことなく口にする彼女自身に腹が立って、思わず険しい顔になった。


「俺はそういうのを求めていない」

「……」

「今まではそうだったのかもしれないが、はっきり言って失礼だ。俺はそんなことしない」


 ほとんど力のこもっていない、聖騎士の力ではうっかりすると折ってしまいそうな細い腕をやんわりと振り払い、振り返る。周囲の空気が輝いて見える程の過剰な加護に反して、生気が薄く儚い印象の彼女と向き合う。


 緊張が消えたわけではなかったが、それ以上に自身の流儀にケチをつけられたような気がして、むっとして口を開く。


「一緒にするな」


 空気が冷え固まった気がした。


 静けさの中で観察するようにじっとこちらを見ていた女性は、一度唇を動かそうとして、思いとどまったように閉じた。間が空くと怒りはじわじわと単なる熱に変換されていき、女性の顔を見られなくなってしまい顔を逸らした。


「ねぇ」


 雨上がりの湿り気のある冷えた空気を、囁くような声が割いた。


「神様って、いると思う?」


 話題を逸らしたような質問に訝しむ。彼女の表情は答えを待っていて、回答次第では先の侮辱を撤回することを期待して、答えを用意する。


 いつだったか、アオバと同じ話をした覚えがある。アティの答えに複雑そうな表情をしていた彼の言いたかった事が、今なら少し分かる。各々が思う“理想の神様”がアティにもあるかを問いかけたかったのだろう。知り合いとも呼べない人間に、心の支えはあるか、なんてことを気に留めてしまうあたり、人が好過ぎる。


 理解したうえで、答えは変わらない。


「いたよ。もういないだけだ」


 そんなものは、神様がいなくなったあの日とほぼ同時に、骨すら残さず溶けていなくなった。


 アオバならきっと顔をしかめただろう回答に、女性は頬を僅かに緩めた。


「……そうよね」


 少し汗が滲む首を、細い指が輪郭をなぞるように撫でた。その感触に驚いて固まるアティの事など意にも介さず、女性は背後から静かに抱きしめた。


「自分だけはそうじゃない。自分は違う。自分はそんなことしない。自分は正しい……皆、そう言うのよ」

「なら、試すか?」


 意固地になって返せば、彼女は耳元でくすくすと笑った。


「期待しないわ」


 ぞっとするほど冷たい声で吐き捨てたというのに、彼女から発されたというだけで上がってしまいそうで、生唾を飲み込んだ。もう耳まで熱い。既に負けそうである。


「ま……まず、その、ベタベタと触れるのは、やめないか」

「それじゃあ、貴方に有利じゃない」

「身体的接触なんぞなくとも、君は魅力的だ──……あ。いや、他意は無く……」


 言い切ってから、そういう目で見ているわけではないとぐだぐだ言い訳をするが、「ふーん」と一蹴されてしまい口籠った。体中が赤いのではないかと思う程体が熱い。


「耳も首も真っ赤ね」

「……からかわないでくれ」


 他の人がいなくて良かった。触れる温度から思考を逸らすように、大げさにため息を吐いて熱を逃し、ちらりと窓の外を見る。旧都に向かったリコルたちを思い、少し遅い気がして時計に視線を移す。そろそろ夜が明ける頃だ。


「リコルたち遅いな……朝日が昇っても戻らなければ、様子を見に行こうかと思っているのだけれど、君はどうする?」

「その時は……ここで待つわ。メニアコさんなら、多分大丈夫……」

「……そういえば、君はメニアコと知り合いだったか」


 メニアコは平気で自分は信用されないのか、と少しがっくりしたが、研究に熱中することこそあれ(現に今はフラン・シュラの事で頭がいっぱいのようだった)、異性に興味を示す事は滅多と無い人物だったなと納得する。……だからこそ結婚していた事よりもできた事に驚いたのだが。


 女性はこちらにややもたれ掛かるようにして、肯定的に頷いた。


「私じゃなくて、先生の知り合いだったのよ」


 それとね。静かな女性の声が、続けようとしたその時、玄関の扉が揺らされた.


「アティ! すまない、手を貸してくれ!」


 飛び込んできたリコルの声は普段の穏やかさが抜け、切羽詰まっている。自然と女性から離れていたのも幸いし、すぐさま廊下に通じる扉へと駆け付けて、ドアノブを捩じり開ける。


 血の匂いがして、表情が険しくなる。


「アオバ君を部屋に運ぶから、医者を呼んでくれるか」

「何があった? エイーユは?」


 玄関扉をくぐった面々を見やり、ウタラの姿の確認と、もう一人いなくなったはずの人物が見当たらない事に気づいて声をかければ、リコルは「後で話す!」と荒っぽく返し、借りている寝室へ向かおうとしてふらついた。


「大丈夫か、リコル。お前だって寝ていないんだから──」

「私はいいから、御使い様をッ!」


 周囲の空気がピンと張りつめた。攻撃的な気配に瞬時に反応したのは当のリコル本人で、ハッとした様子でゆっくりと深呼吸を一つすると、普段と変わらない穏やかな声で再度「医者を」と、要求した。


「うぅん、何だい。どうしたって言うんだ、こんな夜中に」


 廊下に並ぶ扉の一つが開き、寝ぼけ眼のメニアコが顔を覗かせた。彼はすぐにリコルの肩を借りてぐったりとしているアオバを見つけ、こぼれる血を見てぎょっとした顔になった。


「ややっ。一体どんなヤンチャをしたんだか!」

「メニアコ様、この辺りの医者はどちらにおられますか?」


 近くにウタラを降ろしてウェルヤがそう尋ねると、「どちらも何も……」と、メニアコは少し迷った様子で女性の方を見た。視線を追いかけたリコルは、彼女に縋るように確かめた。


「そうなのかい?」

「……高いわよ」

「構わない! すぐに見てくれ」


 とりあえず明るい所に運んで。と、言われるがままにリコルは部屋のベッドにアオバを寝転がした。そのまま一目で分かる患部を観察していた彼女は、てきぱきと手当てをしながら「何があったわけ?」と端的に尋ねた。


「旧都の精霊にやられたんだ。……その、エイーユを庇って」

「何をしたら目を抉り取られる事があるのよ」

「エイーユが、精霊が守っていた宝石に手を出したんだ。それで精霊は最初、エイーユの目を取ろうとして……」

「この子が庇って、代わりに抉られた」


 困った顔で、リコルは否定した。


「いや……自分から、差し出したんだ。『この人の代わりに、僕のをあげる』って……」

「馬鹿じゃないの」


 真っ向からにべもなくそう言われて、思わずテルーナが「やっぱそうですよねぇ」と小さな声で感想を溢す。


 女性はウェルヤが背負っていたウタラも近くで安静にするよう指示を出しつつも手を止めず、手早く止血を済ませて他の細かな傷を確認していく。腹部のあたりをちらりと見て、彼女は眉根を寄せると彼が着用している衣服のポケットを探り始めた。


「な、なんだ。どうした?」

「この子、精霊に呪われてる」

「ああ……俺が会った時にはもう呪われていたよ。薬を貰ったと聞いているが」


 リコルに視線を送れば、彼は小刻みに頷いた。


「ひと月前に、傷の手当と併せてリヴェル・クシオンの医師に診てもらっている。ユースリニッタ薬堂の解呪薬があれば、良かったんだけど……」


 リコルの言葉を聞きながら、女性はフードがついたアオバの上着のポケットを漁り、取り出した何かを一瞥するとポケットに戻した。それから大雑把にアオバを眺めて、「とりあえずは」と一言溢して手当てを終えた。


「今手元にあるものでは止血と傷の処置が精いっぱいだわ。体温を逃がさないように温めてあげて、あとは……痛み止めがいるわね。今は気を失っているからいいけれど、今のまま目を覚ましたら激痛で苦しむわよ」

「分かった。どこで手に入れられる?」

「……この近辺だと取り扱っていないのよ。即席で作るから、書き出す物を採って来て。うちの店まで効果が続けば十分よ」


 周囲を見渡してナイトテーブルの上から雑記帳を一枚拝借し、女性は俯いた際に髪が視界を遮らないように耳にかけながら、さらさらとペンを走らせた。覗き出た俯いたように咲く花の形をした耳飾りの表面が、少し剥げているのが見える。


 書き終わった紙切れを受け取り、リコルはおずおずと口を開く。


「ありがとう、ええと……いや、貴方がいて助かった」


 名を呼び損ねたリコルを見て小さくため息を吐き、面倒くさそうながらも彼女は名乗った。警戒を完全に解いたわけではなく、もういいや、という諦めのような印象だった。


「────」


 名乗ったその瞬間に、体中の熱がさっと引いて、眩暈がした。……冷や水を浴びせられたような気分だ。


***

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