◇ 08

 ペンが紙の表面を引っ掻く音が止まる。集中するとどうにも、利便性に特化した現代的なペンに慣れきったアオバはインクを付けるという動作がおざなりになってしまい、ペンのインク含有量が切れて、ようやく顔を上げた。書きかけの文字は半分程にインクが乗らず、ひっかき傷のような溝を紙に残している。


「う~……」

「うー?」


 自室で一人、英語の課題でも解いている気分になって軽く呻きながら伸びをした瞬間、舌足らずな子供の声が返って来て、思わずぎょっとする。反動で座っていた椅子がガタガタと音を立てると、少し離れた床に真っ白な長い髪を垂らして座り込んだペルルが、こてんと首を傾げた。メニアコが持ってきたのか、タオルケットのような布を肩から羽織っていた。


「ごめん、ちょっとビックリした……」

「どして~」

「随分集中していたからな。少しは読めるようになった?」


 無表情のままちょっとふざけたような態度で、ペルルが左右にゆっくりと揺れる。その隣で立ったまま本棚を背もたれにして腕を組んでいたユラが、俯いていた顔をあげてこちらを見やった。その表情は少し硬い。


「少しだけ……難しい単語でなければ、何となく本の内容は分かる感じがします」

「飲み込みが早くて良い」

「ぺるるはよめるよ」

「ああ、ペルルは言葉の意味を知ろうな」

「うー」


 生返事のような唸り声をあげてペルルは膝の上に乗せた、小柄な体躯のせいか大きく見える分厚い表紙の本のページを捲った。


 その間に周囲に目を配る。『この本が読めたら呼んで』と言い残して自身のやりたい事をやっていた講師役のメニアコは、一人掛けのソファに座り、背もたれの上部に頭を乗せて口を開け寝ているようだった。起こさないように声を潜め、ユラに話しかける。


「ユラさん、暇してました?」

「ん?」

「いえ、雰囲気というか、難しい顔してたので……?」


 理由としては弱いかな。と口の中でぼやくと、ユラは思い当たる節があったのか「あー」と納得したように小さく声を漏らした。


「同業者と連絡が取れないか小細工をしていたから、表情にまで気が回らなかった。多分それのせいでしょう」

「そうでしたか。連絡取れましたか?」


 そういえばこの世界そのものが隔離された状態で、複数ある世界を好きに移動できる様子のユラの同業者と連絡が出来ない……と言った事を初めて会った頃にユラが話してくれていた記憶がある。ユラとしてもできれば仕事仲間に手伝ってもらった方が気も楽だろうと思って聞くと、彼女は曖昧な表情をした。


「ふむ……一応、こちらから発信することは出来たようだが」

「あ、返事がまだとか?」

「そんな感じだな。少々無理をして送ったので、届いていたとしても文章が破損してしまっていて、解読に時間がかかるかもしれない──ん、来た」


 返信があったとやや表情が緩んだユラだったが、自身の手前あたりを泳いだ視線が次第に険しくなっていった。


「ど……どうでしたか?」

「要約すると、『無事でよかった。ただ、そちらに行く体力が無いので応援には行けない』」

「あー……残念ですね」

「うーむ……しかしまぁ、彼女は老齢で、そろそろ退き時かと話しもあったしな……」


 返信者は高齢女性らしい。ユラが持つ薙刀と同じようなものが他にもあって、それに『適合』さえすれば年齢などは関係なく就く事ができるのだろうか。ユラがため息交じりに目を伏せ、何かに気づいたようにその目を持ち上げた。


「『行けたら行く』……来る気無いな」

「二人目……あと何人ぐらいいますか」

「後はミヨコだけだ」

「三……ユラさんも入れて四人だけですか?」


 頷くユラを見て、世界はたくさんあるらしいのに回り切れるのだろうか、などと素朴な疑問が浮かぶ。するとユラは言葉を選びながら、立てた指を時々ぐるぐると回して説明を加えた。


「私たちは基本的に、世界に干渉しすぎないようにして、各世界にあるものを使って仕組みづくりをするのが主で……この世界で言えば“黒い霧”に対抗機構であるオーディールが常に表立って行動できるよう、呪文を広めて回るとかだな。今回のように直接原因を叩きに来る場合も無くは無いが、推奨されていない」

「どうしてですか?」

「我々には特別な力を付与されている。我々がその場を立ち去った後、同じような危機が迫った時に、似たような……しかし世界基準でみれば普遍的な能力の誰かに、縋るだけ縋って、結局力が足りずに世界が崩壊した、という事があったからだ。実際、この世界でも聖女周りで似たような状態になっているでしょう」


 具体的な例に、確かに、と頷く。“黒い霧”を晴らし、対人戦に置いても強く、死なず、地位も名誉も人も金も集めた聖女に夢を見て、多くの人が『普通の人間』である後世の聖女に縋って頼りっきりになってしまっていた。


「オーディールの復活を願い、呪文である眠る前の祈りを広げる為に必要だったとはいえ……超人的な人物が関わると後が大変、と……」

「そういうこと。聖女と呼ばれるまでに動いたのは……資金繰りの為に人集めの手段として信仰を選んだものの、この世界には精霊という超常現象そのものみたいなものが存在していたものだから、それなりに派手に動かなければ耳目が集まらなかった、といったところか」


 そうやって苦労して、オーディールが動けるようになったにも関わらず、結局この世界の人々は再び祈りを手離してしまったのはかなり痛手と言える。信仰を作れば後は基本的にその世界の住人に任せるという考え方であるユラたちが、こうしてわざわざ足を運ぶ状況になっているというのは、この世界は相当危ないのかもしれない。


「……ふむ。ミヨコからの返事はまだだが、あまり期待できないな。あの人が一番忙しいし……あの人もそろそろ、潮時だろうしな」


 そう呟いて、ユラは大きくため息を吐いた。部屋の空気が少し重くなった気がして、椅子を引く音を立てないようにアオバはそっと席を立った。


「ちょっと休憩しましょうか、喉乾いちゃいました。ペルルも休憩しよう?」

「あい」


 ペルルのすぐ近くまで近づいてそう声をかけると、潔く本を閉じて、ペルルは近くに積まれた本の山の上に、読みかけの本を積み上げた。立った拍子にペルルの肩を滑って落ちそうになったタオルケットを掴み取り、静かに眠るメニアコにかけておく。


 真冬ではないにしても、さすがに少し肌寒い季節だ。はみ出てしまった手が冷えないように布団を少し引っ張り、その手の甲にひっかき傷があるのを見つけて(何度か猫に引っかかれていたので、それが原因だろう)、ユラの目を盗んで能力を使って治し、布団で包んでおいた。


「ねんね」

「静かにね」


 人差し指を口元に寄せて静寂を促す手振りをすると、なんとなくのニュアンスは伝わったようで、ペルルは手振りを真似しながら黙って頷いた。


 足音を立てないように廊下に出て、食事をした部屋を覗こうとしたその時、扉が独りでに開き──こちらに背中を向けた形でウェルヤが出て来た。彼から見て後ろにいる人物と会話しながら扉を開けたようで、背中にアオバの鼻先を掠めてようやく気付いたウェルヤは、驚いた顔でこちらに向き直った。


「っわ、すみません!」

「い、いえ、こちらこそ……」


 互いに頭を下げ合っている内に、リコルがウェルヤの肩越しに覗き込んできた。


「休憩かい? メニアコは?」

「転寝されていたので、そっと出て来ました」


 苦笑いしつつ返答し、まだ寝ていなかったのかという思いと、そういえば何時なのだろうかという疑問が同時に浮かぶ。それが顔に出ていたのか、リコルは愛想の良い表情を浮かべて、友人とよく似た穏やかな声を紡いだ。


「私たちはそろそろ寝ようかと思っていたところだ。アオバ君も根を詰め過ぎず、適当な所で休んでくれ」

「はい」


 そのまま部屋を出て行くのかと思われたリコルだったが、「水ならこっちだよ」と言いながら台所付近まで引き返し、近くに伏せられていたコップに水瓶から掬った水を注ぎ、渡してきた。


「ありがとうございます。……あの?」

「うん?」

「寝るんじゃなかったんですか、リコル様」


 扉を押さえたままウェルヤがそう声をかけると、彼はハッとしたような顔になった。


「あ。ああ、すまない。アオバ君を見ていると世話を焼きたくなるというか……ほら、こんな弟がいたらいいなぁって」


 よく分からないが親近感のようなものを抱かれていたらしい。リコルには兄がいるから、弟や妹という存在に憧れがあるだけかもしれないが。


 室内にはあの女性とアティがおらず(メニアコの妻の姿も無かった。奥の部屋で休んでいるのだろう)、ウタラと、ウタラを監視するように彼女の近くにテルーナがいた。


「アティたちは、もう休んでいるんですか?」

「うん。あの女性がどうも、賑やかな空間が苦手みたいで。アティを連れて部屋で休んでいるみたいだよ」

「……それはなんというか、アティは大丈夫なんでしょうか……?」


 ペルルの分も水を入れて、小さな手がそれを受け取る様子を視界に入れつつそう返すと、リコルは相変わらず周囲をキラキラとさせながら首を傾げた。『何が?』と言いたげな彼に、『なんでもないです』と手を軽くひらひらとしてみせた。彼はあまり、浮いた話が得意ではないのかもしれない。


「今って何時ぐらいですか?」

「そろそろ日を跨ぐ頃だよ」


 リコルは二つの砂時計が十字に重なったような、不思議な置物をちらりと見てそう言った。十一時の四、五十分といったところか。その置物のどこをどう見て判断したのだろうかと聞いてみようかと口を開いた時だった。


 ガタン、と扉に物がぶつかったような音が遠くでした。部屋の扉を開けていたウェルヤの方を見ると、彼は玄関の方に顔を向けている。少し間があって、今度は人の声とガタガタと扉が揺らされているような音が聞こえて来た。


「お客さんですか?」

「こんな時間にですかぁ?」


 街灯や自動販売機が当たり前にある元いた世界ならともかく、家々から漏れる灯り以外無いような、それも窓越しにも雨音が激しい事が分かる悪天候の時に来客なんて、怪しいと言いたげな顔をしながら腰に携えた剣に手をやるテルーナを「まあまあ」と宥め、コップを近くの台に置いてアオバは廊下に出た。


「こんな天気ですし、入れてあげましょう」

「また甘い事言ってぇ……」


 君の家じゃないんですよぉ。と言われてしまうと返す言葉も無く、アオバは玄関の鍵を外した。


「はい、どなたで──」

「ちょっと素泊まりさせてくれない? この時間だと宿がどこも閉まっちゃってて……」


 言いながら転がり込んできた女性は、水浸しになった黒い外套を脱いで袖口で顔を拭い、こちらを見て固まった。


 髪は青色のショートカット、目はツリ目がちの黒色。ノースリーブの白いブラウスにカーキ色のショートパンツというラフな格好で、どこか自発的な印象の女性は思わずと言った様子で僅かに後ずさった。


「あ……」

「あれ? もしかして、ロゼさん?」


 彼女は間違いなく、ラリャンザという町を出た時、ベディベまで同行を頼んだ旅人の女性だった。

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