◇ 07
食後、お茶を飲んで一息ついていると、窓の外が暗い事に気づいた。閉め切った窓から音は聞き取りにくいが、霧のような雨が降っているようで、外は随分と視界が悪い。
「アオバ君、アオバ君っ、見て!」
灯りが置いてあるとはいえ、さすがに室内も薄暗く感じるなとぼんやりしていると、その薄暗い室内で達成感に溢れた表情と浮かべて周囲にキラキラとした煌めきを振りまいたリコルが声をあげた。彼の手元を見ると、余計な力が入って震えてはいるものの、箸(洗浄済み)で殻のついた豆を摘まみ上げていた。
「わ、凄いですね。この短時間で……」
「だが、長時間は難しいな。アオバ君みたいに涼し気にやってみたいのだけれど……指というか、手? 手首? が、攣りそうだ──もしやアオバ君は、手が強健……」
「いやいや……」
真面目な顔で何を言い出すのか。そんなわけないでしょうと手を振って表し──じとっとしたテルーナの視線を感じてそっと目を逸らした。リコルがずっと箸に気を取られているのが気に食わないのかもしれない。
お茶を飲んで尚も続く視線から気を逸らしていると、灯りが届かない壁際の暗がりにウタラが立っているのが見えて、逃げるようにそちらに近づいた。彼女は壁に貼られた一畳ほどの大きさの地図を眺めていたようで、足音に気づいてこちらに振り返った。
「何見ていたの?」
「私が住んでいる場所はどのあたりなのかなって思って」
フードの影で隠れてしまった目元の代わりに、ウタラの口元が愛想よく笑う。それから彼女は、地図に視線を戻し──天井からするりと音も無く落ちて来た蜘蛛にぎょっとして、そそくさとアオバの背に隠れた。
「虫、苦手?」
「他のはいいんだけど、蜘蛛だけは……」
「外に出してこようか」
「遠目に見てる分には平気……触りたくはないだけ」
蜘蛛が動くたびに体を緊張状態にするウタラは、苦手だからこそソレがどこにいくかが気がかりな様子で蜘蛛を凝視している。丁度蜘蛛が這って止まった位置(地図上描かれた四国の内の一つであり北西を占める大国、シャニア王国の東部中腹)に丸がつけられていたので「あれは何?」と問いかけると、彼女はいの口にしたまま「今いる場所だね」と答えた。
「へー……あはは、丁度の位置に止まってるね。じゃあ、ここは?」
メニアコが書き足したのだろうか、ウタラの指先から少し西にずれた位置に赤いインクで囲まれた場所があった。静かにアオバの後ろから地図を覗き見ていたユラが言う。
「コラドか」
「コラド、と言うと……もしかして、コラド八区……」
「そこは二区」
ユラの声が聞こえているわけではないので、アオバの独り言に応える形でウタラは言った。それから、少し節立った指で地図を指し、それを蜘蛛のいる位置から大きく西側に動かし、同じく赤いインクが囲まれた地域を軽く指先で叩いた。
「ここが八区。フラン・シュラが初めて現れた場所」
読めないながらも文字の形から『コラド』という名前が九つある事が分かる。一区、二区、といった名称で町が区分された地域なのだろう。その中でも八区は他の町に比べても小さく見える。
「ここかぁ……今って、人は住んで……」
「無かったと思う。建物のほとんどが溶かされて、空気中も毒素が凄くて近寄れないって言われているはずだよ。だから今はコラド全体が封鎖されていて──」
言いながら、ウタラは地図上の細い道をなぞった。王都と思しき一際大きな町に通じている箇所には、町を囲うインクと同じ赤で×印が描かれている。
「昔はコレドゥ・アラからコラド経由で王都に行けたから、この辺りは王都を行き来する人向けの宿場町として栄えていたのだけど、今は大きく迂回して精霊溜まりを避けた、ボーテン・ロィーブ前を経由しないと王都に行けなくなっちゃって……」
「ああ、温泉街なんだっけ」
「そうそう。さっき話した、レ・ユリス語はボーテン・ロィーブで使われているよ」
「なるほど」
温泉街として紹介された町はここだと、ウタラはシャニア王国北部にある、大きな湖の上に浮いた小島のような場所を指さし──紙が動いたからか蜘蛛が落ちてきてしまい、彼女が毛を逆立てんばかりの勢いで──すぐさま手を引っ込めた。小島は細くまっすぐに本土と繋がっているところから推察するに、橋がかけられているようだ。
「うーんと……そうか、こっちの道から回って……うわー、かなり遠回りなんだね」
改めて道順を確認してみると、仕方が無いとはいえ大回りをしなくてはならない事が見て取れる。テルーナとアティに担いでもらうのも忍びなくて(数時間に渡って聖騎士の移動速度を経験するのは、一般人には危険だという側面もある)、徒歩や馬車といったごく普通の足取りで移動していたが、王都にたどり着くのに随分と時間がかかりそうだ。
ただでさえ物見遊山なところがあるリコルが寄り道をしがちで、予定よりも少々遅れてここまでたどり着いているのだ、更なる遅延の予想は容易である。
(まぁ、元々シャニアから離れたのは僕が原因だけど……)
それにしたって、時間がかかり過ぎていないかと不安になる。足りない知識と情報を今の内に補おうと、まじまじと地図を見ていると、ここからそう離れていない場所に点線で囲まれた地帯を見つけて、顔を少しそちらに近づけた。
「ここは何?」
「──旧都だ」
いつの間にか背後から地図を見ていたリコルが言う。
「数百年前……土贄の儀が始まる以前にあったと言われている、精霊との戦争の際に手離したかつての都だ」
「世界全土が飢饉に陥った……というものですか?」
ユラから提供された情報では、誰かの日記にそういった記述があった、程度のものだったが事実だったようで、リコルは頷いてみせた。
「シャニアは戦争する気は無かったのだけど、リヴェルと精霊の戦争に巻き込まれて……シャニア王家を庇護する精霊と、人間を全て敵視した精霊とで争うという、中々特殊な状態になっていたそうだよ。その舞台が、旧都だ」
「はぁ……精霊同士で争うとなると、確かに人が住める状態ではないでしょうね……。今は?」
「精霊の溜まり場ですよぉ」
テルーナが会話に加わり、「聖騎士でも入れない危険地帯ですよぉ」と付け足した。
「これでも、精霊溜まりの範囲は減った方ですけどねぇ……昔は今の王都と同じぐらいの範囲だったらしーですよぉ」
「国の中央にある秘境というわけだ。だからこそ、こんな噂もある」
フードで唯一隠れ切れていない口元がにんまりと弧を描く。くつくつと笑って、演者のようにウタラは続けた。
「旧都には、精霊が集めた宝がある。──……噂だよ。そう、噂……どこかで聞いただけ」
不意に声の調子が変わって、ウタラは狼狽えたように頭を振ってからため息を吐いた。咳払いをする彼女の声は、先ほどより少し低く聞こえる。風邪だろうか。
「大丈夫? 声が……」
心配になって相手の顔を覗き込む。ハリ艶がある十代の肌の上に、大人びた顔立ちの部位が配列されている。毛先にはねっ気がある髪は思っていたよりも毛量があって、俯いているせいか余計に顔半分が隠れてしまいそうだった。急に近づいて来たアオバに驚いたウタラが目を見開いた。
ぎょっとしたウタラに押し返されるまでの一瞬、彼女の瞳が光ったように見えて首をかしげる。少ない光源が、偶然にも彼女の目に映りこんだのだろうか。
「ごめん、何でもない」
「いや、こっちこそごめん。無遠慮過ぎたね」
互いに謝罪して、少し距離を取った。丁度その時隣から腰に柔らかいものが当たったので視線を下げると、ペルルが引っ付いていた。片手で構っていると、食後すぐに妻を連れて奥の部屋に籠っていたメニアコが扉を勢いよく開けて駆け寄ってきたかと思うと、アオバの肩を掴んだ。
「さあ、休憩はこのぐらいでいいだろう! 行くぞアオバ君!」
「あー……はい」
意識的に少し遠ざけていたものが全力疾走で近づいて来たので、思わず疲弊した顔をしてしまった。失礼だなと思い直し、すぐに表情を取り繕う。
「ペルルはこっちで本読んどく?」
「あおばいっしょがいい」
「じゃあ、ペルルにも教えてもらおうかな」
冗談めかしてそんな会話をしながら部屋を出る。先ほどの部屋よりも数段暗い廊下を進み、半ば軟禁されていた勉強部屋の扉を開けた。ほとんど見知らぬ洋館の暗い室内というのは、ホラー映画の探索シーンのようで否応なくどきどきとしてしまう。
「メニアコさんって……」
「うん?」
「ああいや……顔が広い、ですよね。ほとんど皆と知り合いで……」
話題を用意していなかった為、特別興味もない世間話のような切り出し方をしたアオバを、然程気にしていない様子でメニアコは手近な灯りをつけて回りながら笑う。
「偶然だよ。リコル様たちはともかく、彼女まで一緒にいるのは予想外だ。だってあの子、聖騎士を滅茶苦茶に嫌っているのにテルーナやアティと一緒に行動しているの、変だろう?」
「ああ、聖騎士を嫌ってたんだ……」
未だ名を名乗らない警戒心の強いあの女性の事だと瞬時に分かり、思わず頷いた。あの時は一時的に意識を失っていたせいでアオバたち男性陣を暴漢の仲間だと勘違いしたのかと思っていたが、よく思い返してみれば確かに、アティやテルーナを睨んでいただけで、他の面々に言及はしていなかったはずだ。
「あの子も可哀想にね。あんな加護を付けられて、己の半身を削いだ大嫌いな聖騎士に頼るしかないなんて、皮肉にしたって悪趣味だ。当人と先生が許すなら、僕のところで引き取ろうかって、何度か本気で考えたぐらいだよ」
「あの、先生っていうのは……」
「
モノクルに灯りを反射させて、メニアコは思い出し笑いをした。
「なんというか……ふふ、いやぁ、穏やかな優男なんだけどねぇ……んふふ──さあて、お喋りはこのぐらいにしておこうかな」
肩を掴まれて強制的に椅子に座らされ、目の前の机に本を開いて置かれる。数時間程前に見たうんざりとする光景に眉根が寄るが、彼は笑い声をあげながら眉間をぐりぐりと指の腹で押して無理やり和らげた。
「この天気だ、少しの距離とはいえ宿に向かうのは億劫だろう? そうだろう? 安心したまえ! なんとこの図書館には客室が用意されているのさ! 長年使っていなかったので埃っぽいが、ウェルヤが掃除してくれているところなので一時間後ぐらいには使えるだろう!」
「またウェルヤさんがこき使われている……」
「構わないさ! 彼はそういう性分でそういう仕事をしているのだから! ということで、穏やかな気持ちで集中してくれたまえ!」
その仕事はリコルの家に関するものだけではないのだろうか……と突っ込む気力も無く、もうやるしかあるまいと、頭を抱えつつアオバはペンを手に取った。
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