◇ 10

 ラピエルがいないなら、今は目の前の事一つだけに集中できる。


 そう切り替えて、アオバは“黒い霧”に触れた。手の平を伝う感触は脈打っていて温度こそあるものの、手を離せば逆に冷えてしまいそうな温さだった。触れる手から腕へと絡んでは引きずり込もうとする“黒い霧”にも悪寒も冷や汗にも構わず、耳を寄せた。ビッカーピスの声がしないか確認するが、それらしい音は聞こえない。


「エディベルさん! 少しだけ切ってくれますか!」

「どこを!」

「この辺り! 表面だけでいいです!」


 一度腕を引き抜いて表層を叩くと、返事よりも先にエディベルは手のすぐ近くに剣を突き立てた。夕空色の目と同時に剣が輝き、部分的に“黒い霧”は消滅し──内側から漏れ出る煙のような“黒い霧”で再生を始めた。


(これ……ビッカーピスさんから出てる……?)


 てっきり、周囲にいる聖騎士たちから出た“黒い霧”が形を得て、ビッカーピスを取り込んだのだと思っていた。だが、聖騎士たちの執念が“黒い霧”を生んでいると考えてれば、誰よりも聖騎士らしくあろうとしている彼女から“黒い霧”が出るのは何もおかしなことではない。


 ──可哀想に! 誇りや教示の為に一生を賭けるなんて、馬鹿のする事だって気づきやしないッ!!


 ラピエルのあの言葉は、無理をして模範的な聖騎士であろうとするビッカーピスを馬鹿にしただけ、なのだろうか。いや違う。


(どちらかと言えば、可哀想だって、嘆いていた)


 “あやちゃん”ではない何かから戻ったあの時、ラピエルはアオバの名前を呼んでいた。『ねえ』と。同意してくれと言いたげに、呼びかけていた。


(ああ失敗した……同意できないにしても、何か反応ぐらい、しておくべきだったな)


 折角話しかけてきてくれたのに、あれでは無視したと思われたかもしれない。


 切り口が再生し切る前に、体ごと切れ目に押し込む。ほんの少しの後悔はすぐさま形になって、“黒い霧”を補強していき、切り口はあっという間に塞がっていく。そこから入り込んでいた光は徐々に狭まり、同時に体はどんどんと奥へと沈むように引きずり込まれていく。


 不意に、何かに引っかかって止まった。襟首を後ろから掴まれているようで、少し首が締まる。


「お、おい! 隊長は!? 見えたか!?」


 真っ暗闇になっていく視界の外から、エディベルの声がする。周囲に目を配り、暗闇の中でそっと手探りをしてみるが、物らしい物には当たらない。


「まだ、奥にいるのかもしれません! 見てきます!」

「行って、戻って来れるんだろうな!」


 ぐいっと引っ張り上げられて、視界が急に明るくなった。顔だけ外に出されたらしく、明暗の差でちかちかする目の前にエディベルの顔が見える。


「それは分かりませ──」

「おい!」


 顔のすぐ横から、手の形をした“黒い霧”に頭を押さえられ、そのまま引きずり込まれた。息苦しさで反射的に顔をしかめる。抵抗を辞めればずるずると奥へ連れ込まれていく。


 目が暗闇に慣れ始めようとしたその時、赤い閃光が目の前を横切った。間近で何度も見たおかげか、聖騎士の力だと瞬時に分かり、光が迸った方向に体を向け、手を伸ばす。


 肉塊をかき分けるようなぶにぶにとした感触の先で、指の先端にそれらとは違う温度の物に触れた。


「ビッカーピスさん!」


 思い切って声を上げれば、応えるように赤い光が目の前の空間を切り裂いた。急に抵抗が無くなって体勢を崩したアオバは、開けた先でたった今拘束が解けたのか倒れそうになったビッカーピスに、勢いよく抱き着く形になってしまった。バクバクと音を鳴らす心臓を落ち着かせながら、ようやく出会えたその人の背に触れた。


「よかった……早くここから、抜けて……?」


 顔を上げた拍子に背中に回していた手が、腰のあたりまで滑った。咄嗟に謝ろうとして体を離し、違和感を覚えて視線を下ろした。腹部に空いた穴の向こうに、自分の手の平が見えていた。


「い……生きて、います、か……」


 声を震わせてそう尋ね、彼女の顔を覗き込んだ。俯くビッカーピスの顔はすでに青白いを通り越して土気色になっており、喉からはヒュウ、ヒュウ、と締まったような吐息が聞こえてくる。


「こ、の……程度、で……せ、きし……が、死ぬ……か」

「! よ、よかった、意識がまだ……」

「おま、え……こんな、ところで……何、してる……」


 掠れた小さな声がする。生きているというよりは、生きている、という方が正しいのかもしれない。普通だったら死んでいるが、精霊の加護を受けた聖騎士である彼女は、先ほどの左胸を消失した男性同様、生かされている。


 そして──誰もが意識を失い、剣をその手から落としている中でただ一人──未だに力強く己の剣を握り、力を使い続けていた。


 ──あの方は誰よりも聖騎士至上主義であるからこそ、聖騎士に強さや正しさを求めています。


 その姿はまさに、テルーナのビッカーピス評を体現していた。強く、正しい者。そう信じて、そうであろうと努力して、実際に理想を表し続けている。


 ──あんなのなろうと思ってなれるわけ無いっしょ。


 その想いの強さを、一番近い十番隊の面々はきっと知っていた。誰もが思い描く聖騎士像を体現する彼女を、聖騎士至上主義者の面々が、慕わないわけがない。だからこそ、その想いが“黒い霧”になってしまう事を嫌い、意識を手放しても尚、力を使い続けたのだ。


 “黒い霧”がここまで膨れ上がったのは、“聖騎士”であろうとするビッカーピスの思いと、その彼女を慕う人々の思い。それから──いつまでも追いつけない“憧れ”への、想い。


「て……手紙、を……預かっています。ベックさんから。ええと……前の隊長の、ラドーさんから、貴方宛てに」


 その名前を聞いた途端、ビッカーピスの指先がピクリと痙攣した。


「──っふ……はは……そんな、事の為に……わざわざ……?」


 力無く笑って、咳き込まずとも口から零れる血を拭うこともせず、ビッカーピスは続けた。


「馬鹿か……取り、こ……まれ、た、時点で……私、ごと……切らないと……被害、が……」

「貴方が取り込まれた時点で、あの場の……少なくとも、貴方の部下たちには、この想いは切れません。彼らにとって貴方は、貴方にとっての前隊長なんです。憧れて、追いかける目標を、こんな形で倒せません」


 ラピエルは“黒い霧”に取り込まれたビッカーピスにこう囁いた。『彼の後釜だから、立派に振るわなくてはいけない』と。それ自体が、彼女にとっては重荷だったのだと言いたげに。実際、重荷だったのかもしれない。前任は英雄に勝るとも劣らない豪傑と呼ばれていて、ビッカーピスにとってはそれこそ憧れの聖騎士だったかもしれない。その人物が精神を病んで引退した事だってショックだろうに、継いだ自分の補佐役は誰もやりたがらない。求心力の無さを嘆き、鍛錬したところで力は精霊の加護で決まるから頭打ち。


「私が……私、が……?」


 志だけでは、どうにもならない。理想を追い求めてきた彼女だから、それを理解していた。それが今、“黒い霧”として目の前に現れてしまっている。


 初夏の眩しい夕空の色をした彼女の目が濁る。髪を揺らすように首を振り、彼女はいつものきびきびとした態度を投げ捨てて、声を絞り出す。


「……私……では、彼の、代わりに……なれ、ない……っ」


 彼の跡を継ぐべきは、私ではなかった──。そう続けられた嗚咽交じりの気弱な言葉を聞いて、穴の開いた腹の事も忘れて抱きしめた。


 前隊長が引退してから十三年間、ずっと抱えて来た思いの吐露だった。大きな役割を背負った事もない、偉大な人物から何かを受け継いだ事だってないアオバには共感できないし、正しく理解もできない。今アオバに言えるのは、慰めの言葉ではなく、ただ見て来た事実だけだ。


「皆が求めているのは、貴方です、メル・メ・リア=ビッカーピスさん」


 “黒い霧”が濃くなったのだろうか。少し息が苦しい。そんなことよりも、彼女が気づいていない(あるいは意図的に無視してきた)事実を告げなくてはと、変な使命感から口が動く。


「ラドーさんの代わりでも、聖騎士の鑑でもなくって、強くて正しい聖騎士を目指して努力する、十番隊の隊長さん。貴方自身を、そして貴方のその美しい在り方そのものを、皆が必要としています」


 美しいものは、寄って集って奪われるのだとケルダは言った。だけどきっと、見惚れて、愛でて、守ろうとする人だっているはずだ。ビッカーピスの周りには、そんな人ばかりだ。


「エディベルさんが、貴方を助けろって、聖騎士でもない僕に言ったんです。同じ聖騎士でも、力がたくさん使えないって理由であんなに不満そうだった彼が、ですよ。形振り構ってられないぐらい、貴方に生きて欲しいんです。憧れがいなくなるのは、悲しい事ですから」


 ふ、と。隣でビッカーピスが笑う気配がした。少し体を離したその瞬間、赤い輝きが周囲を包んだかと思うと、近辺の“黒い霧”が消滅した。おかげで呼吸が少し楽になった。


 少し遅れてビッカーピスの剣が光っている事に気づき、彼女が力を使ったのだろうと察した。力の反動か、腹の穴から血がドプリと零れるのを見て、ぎょっとする。


「血が……!」

「は……この程度、で……死には、しません……我々、は……聖騎士、です……っから」

「聖騎士も人です! あまり、無理は……」


 アオバの言葉に、ビッカーピスはくつくつとかみ殺したような笑い声をあげた。何事かと思うこちらを他所に、彼女はアオバの腰を抱くようにして支え、夕空色に輝く透けた刃を真正面に向けた。


「な、何をっ!?」

「そ、とに……出、ましょう……御使い、様」


 黄色がかったオレンジの、眩しい目が細められる。


「ここでは、暗くて……手紙、が……読めそうに、ありません、ので」


 返事をする前に、ビッカーピスの聖剣が輝きを増した。波打つ刃は周囲が白く霞む程強く輝き、彼女の剣を握る手もアオバを支える手にも力がこもる。


 その強い光は、形を得た“黒い霧”の表層に入った数本のひっかき傷のような痕が浮き出してみせた。


(あれ……ラピエルの爪痕……)


 あと一押しと言わんばかりに、ビッカーピスが手に力を込めた。ほんのわずかな、まだ再生し切れていなかったその傷を起点に、夕空色の輝きは外へと放出された。

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