◇ 09

 周囲の木々が、薙ぎ倒されていく。その轟音に、思わず耳を塞ぐ。


「あ、歩いている、のか……? この大きさで?」


 リコルはテルーナに庇われながらも、足手まといになるまいと纏わりついて来る霧を振り払い、呆然としながらそう呟いた。彼の言葉通り、巨大な“黒い霧”はゆっくりと移動をし始めていた。その度に大地は大きく揺れ、地割れは広がり、振動によって壁はゴゥン、ゴゥンと不気味な音を鳴り響かせている。


 地面の裂け目から、じゅう、という音がした。


(まずい! このままだと地割れを伝って、フラン・シュラが町に流れ込む……!)


 考え込むアオバの顔を、ペルルが下から見上げる。何かを待っている顔だ。小さな口が開こうとしたのを見て、慌てて手で押さえた。


「よ……呼ばなくて、いいよ」


 手の平の中で口が閉じた。それからこくりと、白い髪を揺らしてペルルは頷いた。どんな理由があれ、フラン・シュラを呼び寄せる行為をさせるわけにはいかない。『理由があればやっても良い』と判断されては困る。


 音叉の杖を拾い上げ、石突で地面を叩く。細く高い音が鳴り響き、大地の裂け目から光の粒が舞い上がる。この世に残る事を選択された命も、こんな地の底で生まれかわった所ですぐに死ぬだけだ。二週間前の、この力を手に入れたばかりの頃とはずいぶんと違う結果になってしまった。


 自ら手を下しているくせに、恐怖心が押し寄せてきて眉根を寄せる。杖を強く握ると、ようやくかさぶたが張り始めた手の平の傷が、ぷつりと切れる感触がして、その痛みごと自己中心的な吐き気を飲み込んだ。


 目の前に迫った“黒い霧”を、ユラが薙ぎ払う。突風で乱れた髪が目に入りそうになって、思わずぎゅっと目を瞑ると、小さな舌打ちが聞こえた。


「取り込まれているビッカーピスをどうにかしないと、埒が明かない!」

「どうにかって──」


 どうすると言うのか。前回は取り込まれて間もない状態で、“黒い霧”も実体を得たばかり、大きさだって人より二回り大きい程度だったから、アオバも直に取り込まれた人間を引きずり出せた。だが今目に映るそれは、動くたびに地面が揺れる十階建てのビルのような大きさで、近づくことすらままならない。


 続く予定だった言葉と、同時進行で回っていた思考は、“黒い霧”がよろめき、壁にぶつかった轟音で消し飛んだ。もうかなりの人数を天へと還したはずのフラン・シュラが、大地の僅かな隙間からも噴き出した。一体どれほどの数の人間が、この世界に理由も分からないまま連れて来られているのだろうか。


 音叉は鳴り続けているものの、噴き上げられた大量のフラン・シュラに効くには時間が足りず、蠢く黒い泥が降りかかってきた。咄嗟にペルルを庇うと、横から誰かに突き飛ばされた。


 その人物と一緒に近くの木に打ち付けられる。痛みをこらえて状況把握の為に目を開けると、アオバよりも先にその人物は腕を支えに体を起こし、こちらの無事を見て取ると、安堵の笑みを浮かべた。


「危なかった……」


 毒牙の抜ける穏やかな声でそう言ったのも束の間、リコルはアオバの肩を逆手で掴み、別の方向へと転がした。勢いよくぐるりと視界が回る中で、リコルが素早く体勢を立て直し、襲ってきた“黒い霧”に応戦する姿が見えた。


「っい……てて……ペルル、無事……?」

「ぶじ」

「よかった……」


 あちこちを木やら岩やらで打ち付け、倒れ込んでいた聖騎士にぶつかってようやく止まった。腕の中を覗くと、この状況下では驚く程真っ白で傷一つ無いペルルが、無表情のまま真珠色の目をぱちくりとさせてこちらを見つめ返していた。


 体を起こし、勢いよく衝突してしまった聖騎士に謝罪しながら、その人の容態をちらりと見る。左胸がごっそりと無かった。


「ひ……っ」


 ぞっとして思わずペルルを強く抱きしめた。体が硬直してしまい、結果的に溶けた跡を凝視する事になった。断面を覗く少し黄ばんだ骨も、こぼれ出る鮮やかな赤とピンクの内臓も、流れる血の色すら普通の人間と変わらない。脈打つ臓器と、浅く短い呼吸から、まだ生きている事が分かる。精霊の加護があるというそれだけの理由で、その男はまだ生かされている。


(な……治せる、か……?)


 手をかざして考える。ラピエルから貰った能力で、千切れた手足を繋いだ事はあるが、(その人物が隣町に拘留されてしまった為会えず)今どうなっているのか分からない。話を聞こうにも、御使いの話をするとパニック状態になってしまうという事が主題になってしまい、経過は不明のままだ。完全に溶けて消えてしまったこの人物の左胸を、見た目は元に戻せたとして、機能にも不備がないとは言い切れない。


 やるだけやってみようと、想像をした。それに伴い胸の辺りが淡く光り──突然、男は指に引っ掛けるようにしてかろうじて落とさずにいた剣を握り、振り上げた。アオバの頬を掠めた夕空色の切先が輝き、背後にいた“黒い霧”を消し飛ばした。


「あ……ありが、と──」

「俺は……い、ぃ……からっ……ビ、カ……ピス、を」


 震える手から剣が落ちた。カラン、という音が聞こえると、男は気力を失ったように、腕をだらりと下ろした。アオバは慌てて剣を拾い、握る力も残されていない彼の手元に剣を置いた。


 聖剣は聖騎士の証と誇りだと、ビッカーピスが言っていた。その手から離す事は、ただの剣を握り損ねた以上の意味を持つだろうから。


「すぐ治しに戻ります」


 決意を込めて、立ち上がる。まずは“黒い霧”に取り込まれているビッカーピスをどうにかしなくては。壁の方に視線を戻そうとした、その時。


 視界の端で夕空色の煌めきが迸った。ハッとしてそちらに顔を向けると、テルーナの前で“黒い霧”の一部が消し飛び──彼女の背後に別の“黒い霧”が迫っていた。


「テルーナ!」


 リコルの呼びかけよりも先にテルーナが背後に迫る驚異に気づいた。


 ピンクブロンドのツインテールが、振り返る動作に沿ってくるりと舞う。彼女は剣を構えたが、白け色のテルーナは連続して力を使えない。それでも構わず──避けた方が確実なのに、その後ろにリコルがいたから──彼女はレイピアのような細い剣を“黒い霧”に向かって突き出した。


 瞬間、赤い光と共に“黒い霧”が散った。


「……嗚呼、やはり白け色に聖騎士は荷が重いでしょう?」


 心底馬鹿にし切った男の声に、テルーナは一瞬呆けて、すぐに忌々しい表情を浮かべた。


「異常事態に遅れて到着する愚図に、とやかく言われたくないんですけどぉ、エディベル=ベスカ隊員?」

「ふん。さっさと引退してください。──隊長は?」


 互いに刺々しく会話をしていたが、エディベルは硬い表情に似合わず不安気な声色でそう尋ねた。テルーナはちらりとリコルの無事を視認してから、巨大な“黒い霧”に目を向けた。視線を追えば言われずとも理解したようで、彼は愕然とした顔になる。


「……アレに……?」

「私たちが到着した時点で取り込まれていました。どうします?」

「は……? どうって、いや、どう……も……何も……」


 エディベルは剣を取り落としそうになって、慌てて握り直した。


 斬るしかない。おそらく、エディベルの頭にあるのはその答えだけだ。ゲーシ・ビルで再会したテルーナがそうだったように、そういうものだと、これまでの実体験から刷り込まれている。だから、アオバは声を上げた。


「助けましょう!」

「できるのか?」


 真っ先に、リコルが反応した。嘘を知らない、透き通った青い目が、期待に満ちて煌めく。真偽を問うのではなく、可否だけを問いかける真っすぐな声に、答える。


「一度はできました! なら、もう一度だって!」


 リコルの周囲が、きらきらと輝いた。彼の感情に精霊が反応しているのか、はたまた別の理由なのかは分からないが、良い兆候のように思える。


「分かった! 助けよう!」


 誰の意見よりも先に、いつものようにリコルは決定した。それから「具体的には何をどうやって助けたのか聞かせてくれ!」という至極当然な言葉を投げて来た。


「ええと、あの時は確か……」

「アオバ君が単騎で“黒い霧”に手を突っ込んで、取り込まれた人物を引っ張り出していましたぁ」

「そうか! 同じ方法でできるか、試してくれるか! 君の邪魔になりそうなものは、こちらで排除する!」


 アオバの方に“黒い霧”が寄らないよう、振り払っていたユラがちらりとこちらを見た。道なら作る、と言いたげな彼女の視線を信頼して、ペルルをその場に降ろし、「危なくなったら逃げてね」と言い聞かせて、巨大な“黒い霧”に向かって駆け出した。


 叩いていないにも関わらず鳴り続ける音叉のせいか、周囲は常に光の粒が舞っていた。それが顔に当たるのが少し怖くてもたつくと、後ろから襟首を掴まれて体が浮き、後ろに向き直されたかと思うと急速に“黒い霧”に向かって引っ張られた。


「こっちの方が早い!」

「エディベルさん!?」


 引っ張り走ってくれたのはエディベルのようで、強い言葉の割に泣きそうな揺らいだ声で彼は言う。


「おい、本当に助けられるんだろうな? 嘘だったら処刑台に上げてやるからな!」

「か、確証は、無いですけど……」

「無くても助けろ、御使いなら!」


 障害物もあっさりと飛び越えて、あっという間にアオバは“黒い霧”の前に連れ出された。取り込まれているビッカーピスは見えないが、どこか疲弊した様子のラピエルが寄り添い立つ姿はあった。


「ラピエル……? 大丈夫?」


 片手で胸を掴み、紅色の髪が乱れるのも構わずもう片方の手で頭を抱え、苦しそうに項垂れていたラピエルを見て、ついそう声をかけた。実体を持たなくても体調が悪い、なんてことはあるのだろうか。


 ビクリと大きく肩を揺らして、ラピエルは顔を上げた。荒々しく息を吐き、少年とも少女ともつかない声で、ラピエルは苦し気に笑う。


「っワタシに構ってていいのかな……? 間に合わなくなっても、知らないよ」

「苦しいの?」


 先にラピエルの姿が目に入ってしまったからか、思わずそちらを心配して近づこうとして、エディベルに腕を掴んで引き留められた。


「何をしているんだ! 早く、隊長を!」


 そうだった。視線を一瞬ラピエルから逸らしたその隙に、ラピエルは『ほら見ろ』とでも言いたげに鼻で笑い──


「──何……!?」


 剣先と共に視線をラピエルに戻したエディベルが、ぎょっとした声を出したので顔だけそちらに向けると、もうそこにラピエルの姿は無かった。


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