◇ 09
気づけば、影は眼前にまで迫っていた。何もかもを飲み込んで、塗りつぶしてしまいそうな黒が、視界を埋めるその寸前に、アオバはテルーナに蹴り飛ばされた。ペルルとレベゾンを巻き込んで扉ごと外に出される。
見たくないと蓋をしていた記憶が、無理やりずらされ、泡沫のように記憶として蘇る。
(なんで、なんで……!? こっちに来てからは、見えたりはしなかったのに、なんで……!)
恐怖ばかりが思考を占領し、痛みも何も感じ取れずに、見たくも無いのにアオバは形を得た影ばかり目に入れてしまう。あの影に捕まってはいけない。
──貴方が見ている幻覚は、否定しなければ、貴方を飲み込んでしまう。
夢で聞いたあの人の声が、別の誰かの声にかぶさって聞こえる。そうだ、この言葉はあの人から聞いた言葉じゃない。別の誰かだ。誰? 誰だった? 覚えていない。今関係あるのか。分からない。否定をしなければ。とにかく、否定を……。
思考が回って、混ざって、崩れていく。体を起こしたいのに、『何故』ばかりが思考のほとんどを埋めてしまい、力が入らない。“ソレ”を見ただけで、体温が一気に奪われたかのように、末端から冷えていく。
気配はずっとあった。以前の町で、ユラを傷つけてしまったのではないかと反省をした時にも、人形を返すべきかどうかで迷った時も、その気配はあった。だが、直接目の前に現れることはなかったのに。
「お、おい、大丈夫か!? しっかりしろっ」
レベゾンだろうか。アオバに声をかけ、両肩を支えて起こしてくれたが、その声はアオバの耳を通り抜けていく。
「こ……これ、は、嘘……」
落ち着ける為の言葉を、口にしようとしても呂律が回らない。目を強く瞑り、必死になって脳内で繰り返す。
(これは、幻覚。全部、嘘。これは後悔じゃない。少し、間違えただけ。それを反省しているだけ……!)
どくりと、脈打つ音がはっきりと耳に届いた。
見たくないのに、無意識にも目は音の根源を探る。扉が無くなった事で、よく見える部屋の中でアティが鞘のついたままの剣で応戦している“黒い影”が、数回痙攣したかと思うと、更にはっきりと形を得た。まだどこか霧を寄せ集めただけのような姿だったのが、輪郭が分かるようになった。
「あ──ああ……──あ……」
絞るようなうめき声が、影の中から聞こえる。
「……アオバ、聞くな。耳を塞いでいろ」
視界を遮るように、ユラが前に立った。
「う──す、て……い──……あ」
「あの二人は戦い慣れている。じきに終わる」
「たす──て──い……のに……」
「黒い霧が一気に実体化する程、感情をため込んでいたんだろう。子を想う強さだけで、こうなるとは思えんが……」
どこか疑い交じりに言うユラの言葉が、耳の中を素通りしていった。子を想う感情? あれが? 本当に?
(聖騎士を毒で犯す事を、子が望むのか……?)
──結局、自分のことばっかり。
独りよがりな思いを、子どもの為だと言っているだけじゃないのか。
「あおば」
真っ白な少女が、アオバの顔を覗き込んだ。
「やしゃ……やさ、やさし、しんじない?」
「ペルル……」
「みんな、ある。やさし。あおば、いった。……いった。がしぇも、ある……ちがう……?」
どこまでも純粋に、まっすぐに、言葉通りにペルルはアオバの言葉を覚えていた。体温の無い小さな手が、アオバの手に触れる。真珠色の感情を表さない目が、アオバを見つめた。
聞き取れないほど小さくても、見つけられない程小さくても、“在る”なら見つけなければならない。誰にだって、優しいところがあるから。
耳を塞ぐな。聞き逃してしまう。
──助けてやるって、言ったのに。
目を閉じるな。見逃すな。
──救われたいんだね。
──キミも、そうなんでしょう?
後悔したくないのなら。
「ペルル、ありがとう。そうだよね。皆、優しい人だよ。その方向が、ちょっと違うだけなんだ」
思考がすとんと整理された。今やる事は、ガシェンを“黒い霧”から助け出す事だ。そうはっきり決まると、腕に力が入った。体を支えられる。立ち上がった足はまだ震えていたけれど、動く。
「アオバ……大丈夫か?」
「だい、じょうぶ……です、はい。平気ですから」
ユラが心配そうに声をかけてきた。喉元にまで垂れて来た汗を手の甲で拭って、笑顔を作って返せば、不思議とユラの表情は暗くなった。
完全に形を得た“黒い霧”を視界に入れる。それだけでぞっとして、歩き出す力が根こそぎ奪われそうだった。よたついたアオバを、ペルルが並び立って支えた。
「ありがと……」
「ぺるるもぉ、いこーと、おもてた。ちょーどね。ちょーど」
どこかで聞いた気がしたその台詞に、思わず笑みがこぼれた。やはり、ペルルはアオバをよく見ている。
(この子の為にも、間違った事はできないな)
嫌な事からは逃げて、見ないフリをして、無かったことにすればよいなどと、思わせてはいけない。人に戻った時に、真っ当に生きていくためにも、正しい姿を見せなくては。
震えを抑えられないながらも、数歩、黒い影となった“黒い霧”に近づいた。にゅう、と、影がアオバに向かって伸びる。怯みながらも、目は閉じずに迫る影を視界に入れ続けた。間もなく触れる、まさにその瞬間。
横から入った薙刀の柄が、阻んだ。ユラだ。
「……うん、そうだった。私と貴方とでは、考えが違うのは当たり前か。あれだけ苦し気な声を、聞くなと言う方がアオバには無理があった」
こちらを見たツリ目がちな灰色の目が、困ったように笑った。
「邪魔するものは全て私が阻止するから、貴方は貴方がやりたいようにしなさい。その代わり、後で『勝手に私の傍から離れて騒動に巻き込まれた事』について小言があるから覚悟しろ」
「……はい!」
少しだけ、足に力が入った。ペルルの支えを、すぐに引っ張って行くぐらいにまで立ち直り、小走りで影に近づく。
「! アオバ!? 近づいたら駄目だ!」
壁にぶつけられたのか、ひび割れた壁の傍で短剣を手に片膝をついていたグランが叫ぶ。その声で気づいたのか、テルーナが目を見開いてこちらを見た。先ほどよりも顔色が悪くなっている。
「何してるんですか、二人とも! さっさと周辺住民の避難誘導に行きなさい! ここは私と……ああもう! そこの子供! なんで剣を抜かないんですか! 相手は“黒い霧”ですよ!?」
「悪い、信条的に今は無理だ」
「捨てなさい、その信条!」
テルーナは顔色こそ悪いが、体力にはまだ余裕があるようだ。レイピアのような、テルーナの目と同じ色の細い刀身の剣を握り、暴れまわる影の髪らしき部分を切り払っている。共闘しているアティも、剣を抜かずに涼しい顔で押さえ込んでいるあたり、こちらもまだ平気なのだろう。
「すみません! ガシェンさんは、無事ですか!」
「多分まだ生きてますけど、そろそろ迂闊に名前を呼べなくなりそうですね!」
「分かりました!」
返事を聞いて、影の目の前まで駆け寄った。
「ガシェンさん! 聞こえますか!」
「さっきから何度も呼びかけているけど、反応が無いんだ! もう俺たちの声が届かない状態かもしれない」
グランが言いながら、飛んできた斬られた影の破片を避けた。
(ラピエルが言った通りになって来てる……。助けられないのか? でも、うん、そうだ)
あの時ラピエルは、ガシェンの死を望んではいなかった。むしろ、憐れんでいたように見えた。『荷が重いなら、下ろしてしまえばいい』と、そう言っていたのだ。
(ラピエルはガシェンを助けたがっていた。それに、僕の声が届くなら、救ってほしいって……言って、た……かな……? 言ってたよね?)
ちょっと違うかもしれないが、意味合いはそう変わらないだろう。アオバなら救えるかもしれないと、期待を込めてくれたのなら、頑張らなくては。
(何もかもラピエルの言葉通りに事が進んでいるなら、ラピエルの言葉に助ける手がかりがあるはずだ。ラピエルはここにいたんだから)
思い出せ。誰にだって優しさがあると言ったのなら、ラピエルの優しさを信じろ。
「ガシェンさん! もういいんです!」
届かないかもしれない。
でも、届くかもしれない。その僅かな可能性がある限り、呼びかけ続ける。
「助けてやるって言ったのは、お子さんを愛していたからでしょう! 捻じ曲げないでください!」
子を守りたいという気持ちを盾に、誰かを傷つけていいはずがない。その想いを、憎しみに変えて暴走させては……。
──子を想う強さだけで、こうなるとは思えんが……。
──うっそぉ……実体化するの早すぎません?
(……違う……?)
何か、思い違いをしているような気がした。
この黒い霧は、ガシェンが死者の名前を呼んだから現れた。それを、周囲には見えていないだろうが、ラピエルが何かをして実体化が早まった、ように見えた。
(違う……違った! 実体化が早まったのは、ラピエルが何かをする前だ!)
“黒い霧”が死者の名前に反応してしまうのは、残された者の悲しみや憎しみが原因ではないとしたら? ドライオの子のように、その場に留まり続けている死者の想いが、原因だったとしたら……?
ドライオの家と同様に、この家にもラピエルの反応があった。きっと誰かがいたのだ。後悔を抱えた死者が。
──助けてやるって、言ったのに。結局、自分のことばっかり。
あの言葉の意味が、ガシェンではなく、別の誰かに向けられていたとしたら。
だとしたら……ガシェンに呼びかけても“黒い霧”は止まらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます