01-2 曲解する善意

◇ 01

***


 乱雑な机の上に置かれたすり鉢の中で、粉状になった青い花びらだったものを、匙で一掬いする。それを小鉢に盛られた餡にまぶすと、わずかな煌めきを残して、じわりと溶け込んだ。その人物はその光景を瞬きせずにじぃっと見届けると、また一杯、匙に青い粉を盛った。普通はこれで十分だ。二杯。致死量。……三杯。でもきっと、あの怪物にはまだ足りない。四杯。これでようやく効くかどうか。五杯。確実にやるなら、まだ。六杯。七杯。八杯……。


***


 ざくざくと、匙が何度も粉の山を刺す音が、朝の静かな空間に響く。


「成し遂げた先に、何があるのだろうね」


 我が子の骸が言う。身に覚えのない赤い口紅を引いた乾いた唇が開く。


「その八つ当たりに、意味はあるのかい?」


 これが人ならざる者だと知っている。怪物かもしれない。首を絞めた事もあったが、死ななかったから。神様かもしれない。だがもう、どうでもいい。何もしてくれぬ神など、無意味なのだから。何も成せぬ怪物など、無価値なのだから。


「……意味など求めてはいない。その先に何もなくとも、虚しくとも、どうせ変わらないのだから」

「変わるといいねぇ」

「変わらない。何も」


 能天気な子の声に、虚ろな声で返す。


「死んだ子は、帰ってこない」

「その毒では殺せないよ」

「だから──」


 匙を、青い粉に突き刺した。すり鉢の底まで到達した匙が、もうこれ以上は無意味だと、この手を止める。匙を握る手に力がこもり、ざらついた表面が削れる音がする。


「苦しめ。その寿命が尽きるまで。苦痛に悶えろ。生きながら死ね」


 子の骸が、紅を引いた唇に笑みを浮かべる。


「他人の蛇口に流したって、止める気がないなら憎悪は溢れてしまう。優しい盾から意味を剥いで、価値あるものを無価値にしてるのは、誰なのだろうね」


 九杯。十杯。


 ……もう誰の声も聞こえない。


***


 手拍子が聞こえる。


 眩しい日照りに、目を細めながら空を見上げる。誰かが、アオバの手を引いて歩いている。嫌な予感がして、足を止めると、繋いでいた手がピンと張った。


「どうしたの? 大丈夫よ。ほら、あそこ。交番が見えるでしょう?」


 すぐだからね、と。その人物は再びアオバの手を引く。体の小さなアオバは、引っ張られるようにして目の前の人物についていく。ワンピースタイプの制服のスカートの裾が視界の端で揺れる。この近辺の女子高の制服だ。栗色の柔らかそうなセミロングが、肩のあたりでふわり、ふわりと揺れている。どこか品がある女性だ。


 賑やかな街頭。どこかの自動ドアが開くたびに、店内の雑音が外に流れ込む。バイト募集や駐車場の案内をする看板に紛れて、行方不明の子供を探すチラシが貼られた壁。見覚えのあるその景色に、家から少し離れた繁華街だと気づく。


「お母さんたち、早く見つけてくれるといいね」


 穏やかな口調で、女性はアオバを励ます。


 アオバは迷子だった。小学校に入ったかどうかぐらいの頃、両親に連れられて買い物に来ていて、ちょっと目を離した隙に両親の姿が見えなくなってしまった。ぐずって道端をうろうろとしていたところを、この女子高生が声をかけてくれたのだ。


 すぐそこに見える交番に連れて行かれる途中、ランドセルを背負った子供たちが、きゃあきゃあと笑いながら横切っていく。衣替えの季節なのか、夏用の白い帽子を被っている。


「……嫌な季節」


 つなぐ手にほんのりと汗を滲ませて、彼女は言う。こちらは衣替えが済んでいないのか、長袖で暑そうだ。


 不意に、彼女の足が止まった。振り返り、その場にしゃがんでアオバを見上げる。


「ねぇ。見たくない物は、蓋しちゃっていいよね?」

「え……」

「後悔したくない。だって、黒い影が追いかけてくるから」


 視界の端に、影がちらつく。路地裏から、看板の影から、何かがこちらを見ている。


「見ちゃダメよ。大丈夫、目を閉じて。耳を塞いで」


 黒い何かが、這い出てくる。


「そこには誰もいない。何もいない。貴方が見ている幻覚は、否定しなければ、貴方を飲み込んでしまう。いい? これは幻聴。これは全部嘘」


 ゆっくりと、言い聞かせるように彼女は言う。


「これは後悔じゃない。少し、間違えただけ。それを反省しているだけ」


 手拍子が、止んだ。

 ふっと、空気が固まった。

 嘘みたいに真っ青な空に、白い帽子が舞っていて、アオバに向かって飛んでくる。


(だめだ。掴むな。手を伸ばすな)


 思考に逆らうように、幼い手が伸ばされる。


(だめだ……!)


 広い鍔に触れることすらできず、帽子は意思でもあるかのように、ふわりとアオバの手を回避する。


「あーあ……」


 僅かに、


 取れると思ったのになぁ。持ち主に返してあげたかったなぁ……その程度の、僅かな後悔。だけど、その小さな後悔を元に、傷跡は大きく広げられたのだ。


 当時のアオバに、何が出来ただろうか。他にどんな選択肢があっただろうか。人の傷みが分からない、薄情な人間に育てられていればよかっただろうか。


 ……黒い塊が、落ちてくる。


***


 目覚めた瞬間、アオバは咽た。


 目を開けて朝日に照らされた部屋にすら安堵できず、僅かな物陰に怯えて身をすくませた。急に視界に入ってきた黒い物にぎょっとして、身を守るように己を抱きしめ──顔を覗き込んできた人物がユラだと気づき、目を見開いて固まった。ユラなら警戒しなくていいのだが、脳みそが上手くそれを伝達できずに思考が止まってしまった。


「ゆっくり息を吸って」

「……ぁ、う……」

「ゆっくり息を吐く。そうそう……一回瞬きもしようか」


 言われるがままに行動し、どうにか普通に呼吸ができるようになった。触れられないはずのユラの指が、アオバの頬を撫でるような動きをした。


「大丈夫。私がいるから」

「は、っ……い」


 ベッドに手をついて起き上がる。胸を押さえて、動悸の激しい心臓を落ち着かせようとすると、下からペルルが顔を覗き込んだ。何故かアオバの指を口に咥えている。さっきから片手が重いような気がしていたのは、ペルルが重りになっていたかららしい。


「ぺるる、いる」

「う、うん。ありがと……」


 肩で息をしながら、無理やり笑顔を張り付けてペルルにお礼を言う。その時突然、部屋の扉が開けられ、大きく肩を揺らした。


「だ、大丈夫か?」


 部屋に戻ってきたアティが、ぎょっとしてアオバに駆け寄ってきた。大きな朱色の目をぱちくりさせながら、彼はアオバの様子を少し確認して、ほっとしたように息をついた。


「揺さぶっても起きないから、どうしたものかと思ってたところだったんだ。目が覚めたようで何よりだ」

「そんなに熟睡してたんだ……」

「熟睡というよりあれは……失神とか、気絶の類だと思うが」


 確かに。とユラが呟いたのが聞こえた。アティがアオバの顔を覗き込み、硬い手の平でアオバの額に触れた。


「晩飯を食べた後、部屋に戻る途中で急に倒れたんだ。覚えてないか?」

「ええと……うーん……そういえば、ご飯食べに行った前後の記憶がぼんやりしてるかも……」

「……精霊の仕業では無さそうだな」


 精霊の呪いを疑っていたのか、考え込むように彼は顔をしかめた。何も悪い事をしていないのに疑われる精霊を不憫に思い、「疲れてたんじゃないかなぁ」とぼやくように言えば、アティは肯定的に頷いた。


「昨日はあの吹雪の中で数時間過ごしたんだもんな。疲れていてもしょうがないか。それに、良く寝る子は育つとも言うからな、悪いことじゃない」

「アティはちゃんと寝た?」

「心配せずとも、一年後から『もうこれ以上はいい』ってぐらいに背は伸び出す」

「いや、背の話じゃなくて……」


 あれだけ町中を手伝って回っていたら疲れると思ったのだけど。言っている間にもテキパキと動く彼を見ていると、疲れは溜まっていなさそうだ。若いからだろうか。


「今ならまだ、朝食に間に合うぞ」

「急いで準備します……。あ、ペルルはもう食べてた?」

「いや。連れて行こうとしたんだけど、アオバの傍から離れなかったんだ。彼女も空腹なんじゃないか」


 また寝過ごしてしまった事と、ペルルに食事を待たせてしまった事に申し訳なさを感じながら、慌てて着替えを済ませる。さっきアオバの片手を咥えていたのは、お腹が空いているという意思表示だったのかもしれない。


「ペルル。先に起きたなら、先にご飯食べてよかったんだよ」

「あおば、いっしょ」

「うーん……ペルルがやりたいようにしていいんだからね」


 会話の合間に、ペルルが部屋の扉を開ける。手櫛で適当に髪のはねっ気を押さえながら扉に向かうと、普段通り大剣を背負ったアティが通り越して先に廊下に出た。


「アティはこれからどこかの手伝い?」

「食堂だ。昨日のオーディールの件で、宿泊客以外にも人が来て、若干混雑しているからな」

「そっかぁ」


 律儀にアオバが部屋を出たのを確認してから、ペルルがユラの指示に従いながら扉を閉めた。扉の開閉の仕方を練習しているらしい。


 扉を閉め終えたペルルと手を繋ぎ、階段を下りた。受付を通り過ぎ、食堂に入ると、確かに昨日の昼間より人がごった返していて、空いた席を探すのが大変だ。


「ええと……空いてる席は……」


 きょろきょろしていると、少し離れたところで、すっと手が上がった。


「ここ、空いてますよぉ」

「あ、どうも」


 女性の声がして、上がっている手の方へと人を避けて向かう。数歩近づいた段階で、ユラが「あ」と声を上げた。何事かと思ったが、二歩ほど進んだところでアオバも気づき、相手の女性も「あれっ」と声を上げた。


「あれれ、君、ラリャンザの宿屋にいた子じゃないですかぁ?」

「あの時の聖騎士さん!」


 そこにいたのは──ピンクブロンドをツインテールにした、薄紅色から水色にグラデーションがかかった秋の夕空色の目の女性──前にいた町で、フラン・シュラの討伐の報酬額について教えてくれた聖騎士だった。

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