◇ 11
***
御使い──もとい、アオバが町を出て、二日が経った。
フラン・シュラ被害はまだ落ち着いたとは言えないが、御使いの存在が(本人が納得するしないに関わらず)確立された今、町は活気に満ち溢れていた。
「……この調子なら来月、俺がいなくとも、町は復興できる。お前もそう思わないか」
独り言にも似た小さな声で、シャルフは目の前に呼びかける。教会の扉の前に立ち、手には玄関に溜めていた花束を持って、もうすぐ建て直しの為に一度更地になる予定の教会の中にいるその人に、語る。
「あれが御使いだと、信じているわけじゃない。お前の生まれ変わりだとも思わん。よく似た性格の、普通の人間だ」
薄い赤の絨毯に出来た黒いシミの上に、寝転がっている人物がいる。少し癖のある、焦げ茶色の長い髪を床に広げ、灰色がかった茶色の片目を床に押し付けて、こちらを見ている。
もう片方の目は、乱れた髪に隠れたその奥で、溶け落ちている。
もう無い右腕を下にして、左腕をこちらに伸ばしている。
右足は付け根から溶けて無くなり、左足はかろうじて膝上だけ残っている。
六年前の、フラン・シュラ被害に遭ったあの日のリノが、そこにいた。見えているのはシャルフだけだ。これがただの幻覚で、彼女の遺体はとっくに埋葬されていると頭でわかっていても、未だ強く否定できないでいた。
リノと共に生きるには、この幻覚に頼るしかなかった。
せめて最期に一言ぐらい、会話がしたかった。口を利かないと分かっても、そこにいるのならそれだけで良いと思っていた。それに縋ったのは他ならないシャルフだったのに、時間が経つにつれ、この幻覚に苦しめられるようになった。
教会の外でも、リノが見えるようになったからだ。
リノはこの町が大好きだった。故に、シャルフが間違った事をしていないか、監視している。住民を役人という立場から手酷く扱わないか、疑っている。カインを悪く言った時でさえ、彼のすぐ後ろに立っていた。何を言うでもなく、リノの幻はただ、シャルフを見ていた。
ただ、アオバと対峙している間は、彼女は現れなかった。リノに会えない苛立たしさと、あの目に監視されないで済む安心感とで感情は一度ぐちゃぐちゃに混ざり合い、これ以上ないぐらいに混乱した。一歩間違えていれば、シャルフはアオバを物理的に攻撃していただろう。だが──あの音が、それらを宥めた。
乱れていた精神が、アオバの持つ杖の音によって正された。
冷静さを欠いていた頭が正常になると、疲弊していたはずのリノの視線に疑問が浮かぶ。リノと似たような発言を繰り返す彼と比べて、シャルフの目に映るリノが、彼女の姿を真似する何か別のもののように思えてきたのだ。リノは、恨みがましくシャルフに執着しないはずなのだ。なら、こいつはなんだ?
「教会は残すべきだと、お前は言っていたな。これで希望通りだ。……なあ、そうだろ」
返事を期待せずに、幻覚に話しかける。もうすっかり、妻の声が思い出せない。
──嘘の希望を生きる糧として与えるのは……よくないと、思って。
現実から目を背け、嘘の希望に縋ってほしくないと、御使いにされた少年は迷いながらも言った。リノの死に向き合えと、事情も何も知らない少年に、言葉で背を押されたような気がしたのだ。
それでもまだ、リノが目の前にいるような気がしてしまう。
だが、ここに誰かいるのか?
──いえ、何も。
前を向き、一歩、教会に足を踏み入れる。寝転がるリノに近づく。震える手で花束を握り、もう一歩、近づく。御使いということにされた、ただの少年の言葉を頼りに歩き出す。
滲みの前で寝転がるリノの前に立ち、目を閉じ、問いかける。
お前はまだ、そこにいるのか?
──いいえ、誰も。
シャルフの意図を汲み取った少年の答えを胸に、目を開ける。
さあっと、後ろの入り口から風が入り込み、埃が舞った。
誰もいなかった。
リノがいたはずの場所は、薄汚れた赤い敷物の上に、シミがあるだけだった。いるはずがないのだ。だってリノは、シャルフと好きで結婚したのではない。常に人に囲まれる彼女にとって、静かな場所がシャルフの側だった。この町出身だからこそ、大好きな町を守ってくれるかもしれない役人になった人間だったから、だから選んだ。それだけの関係だ。シャルフばかりが、絆されて、一方的に感情を募らせていた。そのシャルフの前に、リノが未練がましく現れるはずがないのに。分かっていた事だ。理解していたのに、それを実感するのに、こんなにも時間がかかってしまった。
──たった一人でも、救えなかったのは私の責任です。
あの日、リノの死に立ち会った“英雄様”の言葉も、今なら素直に受け入れられる。貴方のせいではないと、今なら言えるのに。
──……申し訳ありませんでした。
英雄とはいえ、まだ二十代になったばかりの青年に、労りの言葉ぐらいかけてやるべきだったな、とようやく思えた。
もう何もいない教会の中を抜けて、教会の墓地に足を踏み入れた。すぐに見つかったリノの墓石は、やや幼さが見える文字で名が掘られていた。墓守を継いでまだ数年の頃のカインが作ったのだろう。
彼女の墓の前に屈み、墓石を撫でる。
「ごめん、遅くなった」
花束を置き、目を閉じる。教会に入ってから墓地に来るまで、ほんの数歩の事なのに、どうしてそれが今までできなかったのか。呪縛が解けるとどうにも、自分が馬鹿のように思えて鼻で笑った。
感慨深くて涙の一つでも出るかと思ったが、そんなことも無く。案外、人でなし、という周囲の批評は当たっているかもしれないな、と考える。
「……王都に異動するんだ。ここで見守ってくれるか」
返事が無いと分かっているのに、つい、返答を期待して言葉を紡ぎ、やっぱり自分は馬鹿なんじゃないかと、首をさすりながら立ち上がった。
(この町から出るまでに、もう少し仕事しないとな)
軽く頬を叩き、気合を入れる。リノが監視しているからではなく、自分の意思で最後の仕事をこなす。
墓地から続く細い踏み固められた道を通り、カインの家があった場所に向かう。ある程度撤去が進んだ瓦礫の近くに置いた木箱から、カインが何かを取り出している後ろ姿が見えた。
「カイン」
「お……っと。シャルフじゃん。あれ、なんでそっちから……」
「墓参りの帰りだ」
「……そっか」
察した様子で、カインが笑顔を浮かべ、それ以上は何も聞かなかった。両親の事や、フロワにかけられた精霊の呪いや病気の再発の可能性など、考える事が山ほどあるせいか、カインは(以前よりは疲労の色は薄くなったが)異様に大人びているように見える。
「家の建て直しなら、冬を越して、気候が安定してからの方がいいぞ」
せっせと片付けを続けるカインにそう声をかけると、浮足立った様子で、子供らしい笑顔を浮かべて彼は言った。
「分かってはいるんだけど……御使い様にさ、夏になったらこの町に来てくれ! って言っちゃったからさぁ、それまでに家直しておきたいっていうか」
夏というと……なるほど、サリャの花畑か。この町の観光資源だ。ここ数年は揃って満開とはならず、なんとも残念な咲き方をしているが、揃えば確かに美しい光景だ。
「あれを見せたくなる気持ちは分かるが、本当に見に来るのか、あいつ」
「絶対来る! そのためにも、さっき花畑に行って精霊にお願いしといたから! 御使い様の為にも、来年は揃って満開にしてくれーって! せっかく御使い様が救ってくれたんだ、この町の良いところも見てもらわないと……!」
「──」
「──……──」
意気込むカインの声に交じって、話声がどこかから聞こえてくる。周囲を窺うと、カインも気づいたのか、同じように辺りを見渡し始める。
「あ、ほら。やっぱり。こっちで合っているよ」
朗らかな男性の声と共に、木々がざわめく。精霊たちがこうも動揺するのは(御使いであるアオバが来た時すら平常だったのに)珍しい。
「合っているかどうかではなく、何故このような獣道を進まれるのですか!」
「い、いや、だって、前に通った時もこの道だったから……」
もう一つ、先ほどとは違う、生真面目そうな男の声がする。何かあった時の事を考え、カインを後ろに下げると、腰を隠すほどの高さになった草をかき分け、二人組の男性が姿を見せた。
「貴方様は、ご自身の立場をどのように考えているのですか!? こんな場所を通って、もしもの事があったら……!」
一人は四十代ぐらいだろうか。疲弊した表情で、もう一人の男性に説教染みた口調で小言を漏らす。生真面目な声の主は彼だ。
そしてもう一人は……。
「まあまあ、結果的に人のいる場所に出たのだから、いいじゃないか」
毒気の抜ける穏やかな声。視線は自然とその人物に向き──思わず三度見した。
歳の頃は、二十代前後といったところだろうか。後ろで一つにまとめた金髪が、日差しを浴びてきらきらと輝く。長い睫毛に縁取られた青い目、形の良い眉や唇。その顔は精巧な少女像と見紛う程整っている。体躯は細身ではあるものの精悍さを感じ取れる程度には引き締まっているのが見て取れた。顔の作りと均衡がとれていないようにも思えるが、凛とした所作がそれらを上手く中和している。黙っていても伝わる品の良さに加え、身に着けている衣服や剣が、明らかに平民の出ではない事を証明していた。
「ああ、どうも。この辺りの方ですよね?」
こちらに端正な顔を向けて、青年は微笑んだ。
「さっき、御使い様がどうこうって話をされていたようですけれど……詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
静かに歩み寄られたにも関わらず、緊張して動けない。カインに至っては青年を凝視したまま、瞬き一つできないでいる。そんなシャルフたちを見て、不思議そうに青年は首を傾げた。
──思わず三度見するほど、麗しいお方なんですけど。
──それでは分からん。
先日、役所に立ち寄った聖騎士の少女とのやり取りを思い出す。ああそうか、こういうことか。言葉の意味を理解して、まじまじと青年を見つめた。
***
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