ドーナツ型の地球

Sanaghi

「無欲」欲

 「地球はドーナツ型だった」と、ガガーリンは言った。

 「輪っか」は、物理法則的にも形而上学的にも——最も洗練された形なのだ。タイヤ、車輪、ドーナツ、イヤリング。そういうのものは美しい。言わずもがな。


 2088年は美しい年になると、心ひそかに期待されていた。だってそうだ、0はもちろん、8はリングが二つも付いている。こんな美しい数字は他にない。


 しかし、美しい西暦とは裏腹に、社会の様相はほんの少しだけ乱れてきた。機械の発展が人間のつながりを希薄にした。機械の使い方を誤った人間が、無実の人間を殺した。それらの発展が希死念慮を育んだ。誰かが言った。


「ドーナツ型の地球は疲れている。くたびれている。

 これがミスタードーナツなら廃棄寸前だ」


 東京に住む、とある青年はそれを読んで、「なんだそりゃ」と思った。耳にはがイヤリングの様な形をした最新式の電子計算機——多くの人間は、「メンター」と親しみを込めて呼んでいた——が付いていて、それが小さくキュルキュルと音を立てて、青年にニューメディアによる記事のタイトルを認識させていた。


 この素晴らしきニューメディアは、メンターによって分析された使用者の趣味嗜好から、無限に存在するコンテンツから適切な記事だけをピックアップして提供される。しかし、いったい何故、そんな記事をお勧めされたのか、青年は首を傾げた。


「放課後自殺倶楽部」という団体がある。

 科学的な根拠はないが、この世は輪廻転生であるという死生観が、ここ三十年で——おそらく「輪」廻転生——強く根付くようになったからだ。「まるでゲームのガチャガチャみたいに、うまくいかない人生をリセットしてしまう」と有識者は発言している。青年には有識者とはいったい誰なのか、そんなことは微塵も理解できなかったが、希死念慮が回すリンカーネーションに対して「狂ってる」と感じることはできた。道端に献花されているカーネーションは倶楽部員が偉大なる先輩に捧げられたものだ。


 青年はそれを見て、「ドーナツ型の地球は疲れている。くたびれている。」というのは嘘じゃないのかもしれないと考えた。


 物質的には豊かだが、精神的には……。青年は時々そんなことを考えてしまう。おそらく、そんなネガティブに偏りがちな思考回路があんな記事をチョイスしたのかもしれない。


 

 ——やっぱり、無欲でいなければいけないんだ。



 青年はネガティブな思考回路にスイッチが入るたびに、そんなことを考えた。それは一種のトレンドでもあった。この世界の話題は二つの大きなトレンドが牛耳っていた。


「無欲」か「自殺倶楽部」


 青年は、死ぬのは怖かった。何が人を死に駆り立てるのか、未だにわからずにいた。そしてこれからも、納得することはあれど、理解することなどないと思っていた。


 ならば無欲になるしかない。しかし、その命題は矛盾を孕む。無欲とは「何も欲しない」ということなのだ——たとえ「無欲」であろうと欲してはいけない。


 無欲になりたいという『無欲』欲が青年の無欲を妨げる。しかし、無欲になろうと思わなければ、無欲になれない。


 疑問に解決策を提示すれば、別の疑問が現れ、それに解決策を提示すれば、元の疑問に立ち返ることになる。ループだ。まるで、辞書で意味を調べようとしたら、無限ループしてしまうように。


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 ループ「名」

 ・輪。輪の形をしたもの   →輪を参照


 輪 「名」

 ・ループ。もしくはそれに近いかたち

 →ループを参照

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(ドーナツ小辞典参照)


 なんてこった! 

 これじゃあまるでドーナツの上をぐるぐると歩き回っているみたいじゃないか。青年は思わず頭を抱えそうになる。——無欲になることなど、無意味なのだ。と、普段の青年なら思考を投げ出していただろう、しかし、今日のショッキングな出来事は、青年が思考放棄することを妨害した。


 山手線に乗って青年はいつも帰っていた。東京駅から上野まで。事件が起こったのは上野駅での出来事だった。


 ——たぶんあれも、自殺倶楽部の人たちなんだろう。

 青年はそう考えた。そうでなければ、世界はあまりにも残酷だからだ。少女がくるり回って、プラットフォームから線路に落ちた。

 ——そうでなければ、スケープゴートだ。


 そう考えなければいけなかった、青年なりに。そうしなければ、ドーナツ型の地球に、居た堪れないからだ。物が溢れれば溢れるほど、人は不幸になる。やはり無欲にならなければ——いずれ足を踏み外して、線路に落ちて、ひき肉みたいになってしまうぞ。


 ほんの少し前の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。

 メンター電子計算機がキュルキュルと音を立てて青年の思考を加速させる。


 馬鹿みたいだ。と青年は呆れる。一笑に付してもその思考回路のスイッチはオフにならない。連想が溢れ出す。vはその連想に追いつこうと、キュルキュルと音を立てる。


 こんなの、呪いだ。

 それは例えば片思いのまま終わった初恋のように——亡霊のような彼女に人は惑わされ続ける——もしくは、芸術や信仰に取り憑かれた人々のように。

 政府は言う。自分の気持ちを吐けば楽になると思うよ。お電話は——しかし、青年はそんな楽観的にいられなかった。「本当の気持ち吐いても楽になれない」って青年は思う。


 メンター電子計算機がキュルキュルと音だけではなく、熱を伴っている。


 グラリ、と青年の視界は歪んで、その場にどさりと倒れた。彼の最寄り駅から自宅まで帰るまでの道程の途中のことだった。道行く人たちが怪訝な顔でこちらを見つめる。


 青年にはそんな彼らが悪魔のように見えた。

 こんな世界、狂っているじゃないか。誰も何もできないのか?

 地球が丸かったらよかった。角がないから、きっとみんな優しいんだ。僕らは無限に続く螺旋階段を、無限に落ち続けている。


 思考や信仰は、トレンドや生者と死者は、地球は、夜空の星は、山手線は、青年の思考は、ドーナツ型に同じところをグルグルと廻っている。メンターの中にある小さな冷却ファンもキュルキュルと音を立てて、グルグルと廻り続ける。


 しかし、メンターだけは廻り続けられなかった。繰り返す思考と、増幅してゆく補助機能によって起こる熱の排除が追いつかなかった。


 メンター電子計算機はオーバーヒートを起こして「ボン!」と小気味の良い音を出して爆発した。加速していた思考が一気に停止した。青年は呆然としていた。メンター電子計算機の爆発によって耳からは血が流れていた。


 何が起こったかわかならくなった青年は、その本能に従って、とりあえず、帰路に向かう事にした。




「——あ」

 自宅の玄関に手をかける時に、青年はハッとした。「新しいメンター電子計算機を買わなければいけない」と思ったからだ。

 それから青年は今まで自分が無心、つまりぼうっとしていた事に気付いた。

 

 最寄駅から青年の自宅までの一五分弱。

 青年はあの時ばかりは、無欲でいられたのだ。

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