たったひとつの鈍いやり方 3
地下の瘴気がこの世界を犯して以来、人々は神聖なるものへの憧憬を忘れ去ってしまった。混乱と恐怖のなかでは、力こそが神秘。英雄こそが神。愚にもつかない傭兵団は、いつしか神聖なる教団となり、竜殺しの勇者を遣わす大神院となった。
すでに人々は、真の神、すなわち女神フロールへの敬意をなくしている。女神の加護も、聖人の癒しも、はるか古い時代の世迷言と笑われるほどで、そんな時分にあっては、女神どころか、奇跡という言葉ですら、塵芥のように払われてしまう。
だが、この日のオーステンは違った。
この世に奇跡がない、などと言った者はとんだ間抜けだと思った。
見たことのないものが生まれた時。
ありえないことが起こった時。
失われたものが、よみがえった時。
身近なところで、その神意というものは度々示されてきた。
信じる者と信じない者の違いは一つ。
それを、目の当たりにするか否か、である。
そしてオーステンは、今まさにその奇跡のありがたみを噛みしめている。
「なんということだ!」
彼は言葉にならない歓喜の念に打ち震えながら、
そしてまた勇者に感謝しながら、工房中を落ち着きなく歩き回った。
奇跡、奇跡が起きたのだ。
あの『鬼の手』ライドが、ついに剣を造るのだ。
もう何年も造らなかった剣を、打つ、というのだ。
これが喜びでなくてなんだというのか。
奇跡でなくて、なんなのか。
あの勇者は、本当に女神様の使いなのかもしれない。
「勇者はもしかしたら最高の奴かもしれない!」
オーステンは今ひとたび、そう叫んだ。
が、歓喜に水を差すように、冷えた声が後ろから飛ぶ。
「オスにぃ……あの、気持ち悪い」
奇跡を目の当たりにしてなお、反応は人それぞれだ。
そして咄嗟の感情というものは、おおむねそれまでの関係性に依存している。
残念ながら、父親嫌いの少女に青年の歓喜は届かなかった。
「サニャ!君の父さんはね、本当はすごい鍛冶師なんだよ!」
「何度も聞かされたけど、私はその姿見てないから」
嫌そうな顔をする少女は、吐き捨てるようにそう言った。
ライドと勇者パーティが工房の奥に消えてから、数分が経った。そのあいだ、興奮冷めやらぬオーステンとサニャは、二人だけで放置されていたのであるが、なんということだろう。サニャ=クルーエルは己の不遇にもう六度も白目を剥いていた。
「あの酔っ払いが鍛冶師だった、ってのも私は信じてないから」
「まぁ……僕もここ何年かは疑いかけてたさ。でも、ライドさんは、どんな魔物の甲殻だって容易く斬り裂いてしまうような、本当にすごい刀剣を作っていたんだ」
「そんなの見たことないし」
オーステンはその剣にまつわる顛末を知っていた。
剣だけではない。武具、傷をつけるものそのすべてだ。
きっとライドに防具を造る才があれば、そればかり造っていただろう。
そしてそれを、あの師匠は贖罪としただろう。
「ライドさんは自分の剣を、封印したんだ」
「ふぅん」
「これはさ、いつかサニャちゃんにも話さなきゃいけないことだ」
目を伏せて青年がそう言った。
これから話されることは、家族にとって非常に重要なことであった。
が、少女はその話が面倒くさそうなのを察して、七度目の白目を剥いた。
「そう。でも今はそんなの、どうでもいいから」
「ひどいな! これめちゃくちゃ大事な話なんだけど!」
「私にとってさ、ハルトくんよりパパの話のほうが大事だと思う?」
「いや、まぁそれは、その」
オーステンが言い淀む。
彼は、クルーエル一家の推しの強さにすこぶる弱い。
その逡巡を無視して、少女は遠い目をした。
「ねぇ、ハルトくんのこと、どう思う?」
「はぁ……あえていうなら微妙」
「どの辺が?」
「性格も悪そうだけど、一番は周りに女性が多すぎること」
「私もそう思う! あれはちょっとライバルが多すぎると思う!」
「それもまた、とびきりの相手だからね」
伯爵令嬢に姫騎士に古いアールヴ。
それもみんなタイプは違うが、とびきりに美人である。
とても14歳ばかしの小娘が敵う相手ではない。
「絶対に全員とデキてると思うの」
「ちょっとサニャちゃん、そんなこと言うもんじゃないよ!」
「オブラートにしても仕方ないでしょ」
不満げにサニャが唇を尖らせる。
耳年増も困ったものだ……
とその瞬間、工房の玄関扉が叩かれた。
客ではない。閉店の看板はちゃんと掲げているはずだ。
サニャがおそるおそる扉に近づくと、猫のような声がした。
「聞き捨てならない話が聞こえてね。お邪魔させてもらいたいのだが?」
「えーと、あなたは誰?」
「ハルトくんの友人だが……おっと、おっと、もしやお取込み中だったかな?」
「違いますけど」
「そうかいそうかい、それは健全で何よりだね」
けらけらと笑い声。
扉越しに感じる魔力圧はなかなかに強い。
魔法士が一体、何の用だろう。
ここには鋼と革しかないというのに。
「では失礼」
扉が開く。それに何気なく目をやって、オーステンは飛び上がった。目深なフードをかぶった女がそこにいたからだ。いや、もちろんフードに驚いたのではない。そこからこぼれたものに驚いたのだ。ちらりと覗く、唇はきわめて整っていて、どこか見覚えがある。いや、見覚えなどというものではない、それはひどく、似ていた。
「オス兄、どうしたの」
「この人は、いや、この方は……」
オーステンはガクガクと震え、それから跪いた。
「……まさか」
「あの、よければそのフードを取っていただけますか?」
「これは失礼したね。こんにちは、宜しくどうぞ」
果たして、衣の下から出てきたのは、眼鏡をかけた女であった。濃紺の髪に透き通るような白い肌。その顔立ちは、稀代の歌姫に似ているようにみえたが、つぶさに見れば明らかに異なるものである。オーステンは、ようやく理性を取り戻した。
「……アイナ様じゃない?」
「はははっははっ。確かに少しばかし似ているかもね」
「よく似ていますけども」
「私はレイエル。これでも有名人さ」
名を聞いたオーステンは、今度こそ正しく、飛び上がって驚いた。
彼の頭のなかで、いくつかの情報が結びついていた。
レイエルといえば、この国では一人しかいない。稀代の魔法研究者にして魔導学者、そして重度のアイドルオタクで、ファンクラブの名誉会員の一人である。今ではライブのサポーターとしても活躍しており、いわゆる、公式の中の人であった。
「アイナ様をサポートする魔法学院のレイエル様ですか?」
「それってもしかして大賢者様のこと?」
「大正解だとも。こんな見た目で恐縮、だがね」
大賢者。
勇者と同格の称号であり、それを持つ者はこの国に二人しかいない。
その一人がまさか、こんな場所にいるなど誰が想像できるだろうか。
しかもそれが、恐ろしく邪気のない、アールヴの美人だなどと。
「大賢者様がどうして、勇者と一緒にいるんですか?」
「まぁ私は、学院からのお目付け役みたいなものさ」
「お目付け?」
「竜や黒蛇との闘いは過酷だからその補助だよ。無茶をしないように見張ってる。それとまぁ、その、勇者には女性の影が多いからね、私のような者がいるんだよ」
とはいえ、そういうレイエルの姿はどうみても女性である。
「レイエルさんも女性ですよね」
「うむ。だけど男を愛するわけではない。分かるかな?」
「……なるほど」
サニャが訳知り顔で頷いた。この国、この都市で同性愛はそう盛んではないが、禁じられているというわけではない。隣国では多いと聞くそうした事例の数々を、サニャ=クルーエルは知らないわけではなかった。無論、オーステンもよくよく存じており、ゆえにその脳内では、レイエルとアイナの関係についての造形が少々組み上がっていた。だが、それについて仔細を述べるのはやめておくことにしよう。
「大賢者様の仕事はよく分かりました。それで、あの勇者とはどんな旅を?」
「……ふむ。時にオーステン、君はどのようないやらしい想像をしているのかね」
ぶふっ、と噴き出しそうになるが、オーステンは真面目な顔を取り繕った。
が、その真面目さも、口から出た言葉にまで行き渡るものではない。
オーステンはずけずけと言った。
「そりゃ、ハルトくんがとっかえひっかえとか」
「ふはははっはっはは。当たらずとも遠からずだね」
「なんですかそれ」
「ははは。サニャちゃんはどうかな?」
訝しむオーステンの言葉を躱して、レイエルは少女の顎を指で撫でた。
頬を赤らめたサニャは、やんわりとその手をどける。
「あ、あたしはオス兄みたいに破廉恥じゃないですけど。まぁ、その、すこしは」
「ふぅむ。由々しき事態だねこれは。誤解を解く必要がありそうだ」
うーんと唸りながら、女は己の整った顎に手を当てた。オーステンもサニャも呆気に取られてしまっている。なにをいきなりやってきたかと思えば、勇者ハルトの女性事情について話を振ってくるなど、いくら大賢者といえども正気とは思えない。
が、いたって真面目な顔で、レイエルは二人を見つめ返した。
「まず、ハルトくんに性欲はないよ」
「ちょっとこれ何の話なんですか」
「いや、まず気になるのはそれだろう? だから教えてあげようと思ってね」
「は、はぁ……」
オーステンがぽかんと口を開ける。
あまりにも突飛な発言に、頭がフリーズしてしまったのだ。
レイエルは動じる様子もなく、話を続ける。
「彼は高潔にして完全無欠の勇者なんだ。間違いは犯さない」
「そんなことがありえるんですか?」
「ただの人間には無理だ。でも勇者にならできる」
言い切った彼女の瞳には、なにか怪しい光が輝いている。
まるで信仰に燃えているかのような目つきであった。
「ハルトは、彼は一体、どんな人間なんですか」
「ただの少年さ。類稀なる力とカリスマ性を持ち、優しくて勇敢な心を持っているだけのね。誰にでも分け隔てなく接し、それでいて、情に流されない強さがある」
「非の打ち所がないじゃないですか!」
こくり、とレイエルが頷く。
その顔はどこか誇らしげである。
「もちろん魔力と膂力は超人的だし、油断も驕りもしない高い智力を兼ね備えてはいるが、基本的にはただの少年だね。ああそれと、野蛮ではないので女は襲わない」
「そんなただの少年がいてたまりますか!?」
思わずオーステンはそう言うが、それは妬みではなくて本心だった。
レイエルの話どおりの人物ならば、彼はとても思春期の少年ではない。
その精神と能力において、勇者はまさに常人を超越している。
「あの、一体、ハルトくんって、」
「武器だよ。女神から私たち人間に与えられた、ね」
「え」
意味深な言葉を発したレイエルは、それから口を噤んで微笑んだ。そのすぐ後に幾人もの足音が響き、工房奥の扉が軋みながら開く。現れた勇者を見て、サニャが、ぱっ、と顔を赤らめると、すこし不快そうに、ハルトは片目を細めた。
「……何か下らない話をしていたか?」
「おっと。これはハルトくん。君の恋人は大変だという話さ」
「馬鹿馬鹿しい。興味もわかないな」
レイエルが軽口を叩くが、勇者の表情は変わらなかった。
彼は、その澄ました顔で唇を尖らせて、言葉を吐き捨てた。
「俺に恋人など、いるはずもない」
「そうかな。君を愛する人間はこの世にごまんといるだろうに」
「勇者だ。愛される必要はない」
なに言ってるんだこいつ、とオーステンが白目を剥きかけたとき、
赤髪の少女がいきなり、勇者の袖を掴んだ。
ララ=リオライエンだ。
彼女は真っ赤な顔で呟いた。
「え、ええと、わ、わたしはハルトがす、好きなのですよ?」
部屋の空気が凍りつく。
フィーラとエラミスタが呼吸を止め、
レイエルの口の端は吊り上がった。
「あの、ハルト、わ、わたし、その」
「――ん? 何か言ったか?」
不思議そうな勇者の言葉。
どうやら聞こえていなかったらしい。
女たちから、安堵の息が漏れる。
ララ=リオライエンは潤んだ目を見開いた。
正気に戻ったのか。いや違う。
少女は、意を決したように声を出した。
「……わ、わたしはハルトが好きですからね?」
二度目の告白だ。
がんばれ。リオライエンの女の子。
オーステンは知らずのうちに拳を硬く握りしめていた。
しかし、
「――ええと、なんだって?」
ハルトは、またしても眉間に皺をつくるだけだった。
オーステンは思わず顔をしかめた。いくらララがどもり気味で、声も小さいからといって、まさか今のが聞こえないわけがあるまい。もしや勇者ハルトは、面倒を避けるために、女性の求愛を『聞かなかった』ことにしているのだろうか。
だとすれば、最低にもほどがある。
「……ハ、ハルトはやっぱり」
そのことに勘付いたのだろうか、
少女はポロリと涙を流して、静かにその場を去った。
勇者は、ひとりでぼやくように呟いた。
「まったく、ララはたまに意味の分からないことを言うな」
「ふむ。人間の小娘は哀れでならんわ」
アールヴがそれに頷いた。
「告白なんて、ララは何を考えているのだ?」
獅子髪姫フィーラが。
「ははは。まさか本気で好き合いたいわけではないだろうがね」
大賢者レイエルが。
あまりにもひどいとオーステンは頬を膨らませる。
「なぁハルトくん、ララさんは、」
「どうでもいい」
「いや、その、そんな!」
「時間は有限だ。それよりも、これからの話をするべきだろう」
ハルトが冷ややかな声で言った。その声には微塵の優しさも思いやりも感じられず、オーステンは何も言えなくなった。代わりに、今まで黙りこくっていたライドが立ち上がる。男はいまだに刺々しく勇者を睨んでいたが、暴言は吐かれなかった。
ライドは下唇を噛んでいた。
「ライドさん、本当に剣を?」
「不愉快な連中だが、俺はこいつらと契約することにした」
「……それじゃあ誓いを破るんですね」
青年が息を呑んで答える。
ライドは、決心した顔で弟子に向かって頷いた。
誓い、とはなんであるか。それは、ライド=クルーエルがかつて己に科した呪いのことである。それは心にかけた鎖。他者を傷つける己が手業を殺しきるための約束。彼は剣が打てないのではない。打たないのだと、オーステンは知っていた。
目を細めたハルトが、うんざりといった様子で口を開く。
「……早く話を進めろ。条件のことを言え」
「条件? まさかサニャさんに近づかないことですか?」
「違う。『竜』の討伐とその素材の入手だ」
「竜の素材を使った剣を造るのですか?」
問われたライドが口の端を歪めた。
尋常ではない感情が男の胸の内にあるのを感じて、オーステンは眉根を寄せる。
「竜魂剣。囚われた英雄の魂を剣へと加工する」
「旧き西方の秘儀。赤月竜アダロに奪われたフィーラの剣も同じものであったな」
「エラミスタとやら、知っているなら話が早い」
アールヴの女は、眼光鋭く、ライドを睨みつけた。
「生半可な竜では英雄の魂が失せる。狙えるのは最高位の竜のみ」
「エラミスタ、最高位とはつまり、王族の竜か?」
「いや。類稀なる精神と肉体を持つものでなければ、真の竜には成れない」
ハルトの問いに、女がそう答えた。表情は暗く、どこか怒りすら感じられる。なぜ彼女がそのような感情を抱くのか、それはハルトにも分かっていなかった。この場で、その言葉の意味を理解できたのはライド以外にはたった一人だけだった。
「類稀なる存在。すなわち、勇者のことだね」
レイエルが心底嬉しそうにそう言った。
一方で、獅子髪の姫は血相を変える。
「バカな。勇者の竜とは、破魂の竜だぞ!」
「フィーラ、怖気づいているのかい。獅子髪は竜殺しの象徴だというのに」
「うるさい黙れ!あの竜の力を知らないわけではなかろう!」
激昂する彼女の髪がぱちぱちと音を立てる。雷光のごときその力が溢れんばかりに弾けていた。サウラに伝わる古き神の力をあますところなく受け継いだ者、それがフィーラ=ラズ=サウラである。しかしその英雄の目は、畏れに揺らいでいた。
「竜なんですよね、それは?」
オーステンがおずおずと問う。彼のような庶民にとって、勇者とは世界の要であり、救世主である。そのような存在が瘴気によって竜となることは未だに信じられなかった。それが今代の英雄たちを畏れさせるとなれば、疑問は尚更である。
「破魂竜。輪廻転生する魂に傷をつける恐るべき魔竜のことだ」
ライドは、いつもの酒精を帯びたまなこではなく、
どこかゾクリとするような視線を、勇者ハルトへと向けた。
「魂の循環を断ち切るという、かの竜の身体であれば、最強の武具の素材となる。そしてその竜の骸があれば、神性を帯びた無敵の剣をつくることもできる。俺がかつてサウラ王に献上した剣は、かつて倒された破魂竜の黒爪で作ったものだった。一体の勇者の竜から、たったひとつだけ取れる、ただひとつだけの幻の素材だ」
「そんな素材が、今の俺たちに必要だと思うか?」
「思わない。だがお前は勇者だ。いずれすべての竜とは戦うことになるだろう」
そういうライドの言葉には、しかし少々の嫌悪も含まれていた。
それを感じ取ったのか、少年は片眉をあげて、呆れたように笑った。
「ではそれが、なぜ今ではいけないのか、ということか」
ハルトは、しばらく考え込んだのちに、小さな舌打ちをする。
レイエルがひゅーひゅーと口笛を鳴らした。
「やるのかい?」
「できるのならば、やらなければならない」
「ハルト!ダメだ!できはしない!」
フィーラが少年の腕を掴むも、ハルトはその瞬間に霞のように消えた。
かと思えば、彼は獅子髪の女の真後ろに立っていた。
それは空間移動の魔法であったが、その詠唱も発動も、誰にも見えなかった。
「俺にはできる。それが俺の役目だ」
ハルトがそう言って、大きく頷いた。
「無理だ!教会で蘇生ができないんだ!そんな戦いは初めてだろう!」
「あらゆる戦いが初めてで、俺は今までに死んだことはない」
「誰だって、死ぬときはいつも初めてだ!」
フィーラがそう言ったが、ハルトは面倒くさげに首を横に振った。
「心配なら俺に手を貸せ」
くすくすとレイエルが笑った。
「もちろん私とエラミスタは手を貸すよ。なにせパーティだからね」
「ララも連れて行く。あいつの制空能力は無視できない」
「ふむ。では刻限までに紅蓮の小娘を懐柔しておくことだな」
獅子髪を弾かせながら、女が顔をしかめる。
「……ララまで巻き込もうというのか?」
「ならばここで待っていればいい」
「クッソ。分かった、なら私もついていくしかあるまい」
フィーラが根負けしてそう言うと、ハルトはそれが当然だと言わんばかりに鼻を鳴らした。少年は無量箱から巨大な地図を取り出すと、それをテーブルのうえにばさりと広げる。あちこちにびっしりと書き込みのされた年代物の地図だ。その筆跡はどれも異なっており、中には、血で書いたようなどす黒いものもあった。
「これから一週間をかけて、西方の破魂竜と呼ばれる存在を、討伐する」
「倒す勇者は決まっているのかい?」
「今のところ、破魂竜はただ一体しか残っていない」
ハルトはその地図の一点を指差して、言った。
そこにはひと際大きな傷と、大量の血痕が残っていた。
そして、その上に、輝く魔力の文字が踊っていた。
『我、竜と成り果てし。ここで勇者を待つ。 スーリア』
「なに、スーリアだと?」
「スーリア……それって前代の勇者じゃないか」
「そうだ。奴が化瘴した姿だ。縄張り意識がきわめて強く、残忍かつ狡猾な竜だ」
オーステンはぶるりと震えた。
あの勇者の名は、誰しもの胸に恐怖とともに刻みこまれている。
前代勇者スーリアは、その遠征のさなかに竜と成り果て、
370人の首をわずか一息かそこらで、飛ばしたのだという。
そしてその後、スーリアは歴史に残るほどの虐殺を行った。
ライドの右手がまたしてもぶるぶると震えはじめる。膨れ上がった血管が、はち切れそうになっていた。もちろんそれは恐怖ではない。それが、怒りだということをオーステンは知っていた。竜と、ライド自身に対する消えることなき怒りだと。
「ライドさん、あなたはあいつを、」
「本来、奴は死んでいた。奴が生き残ったのは俺のせいだ」
ライドは、不愉快そうに顔をしかめて吐き捨てた。
「奴は勇者を待っている。俺では相手にもされん」
「それでハルトくんを使おうということかい」
「そうだ。そうすれば必ず、あのクソ竜は姿を現す」
確信に近い声だった。
ライドの瞳は、すでに竜の屍が見えているかのようだった。
興味深げにレイエルが顎に手を当てた。
「ふぅむ。一体どうしてライド殿は、邪竜スーリアを憎むんだい」
「簡単なことだ」
少し疲れた男の顔に、笑みが浮かぶ。
口の端が耳までつり上がり、とても無職の酔っ払いとは思えない。
その形相は、まるで竜そのものであるかのようにすら映った。
「奴が殺した数百人のうちの一人が、俺の妻サリアだからだ」
ライドは歯ぎしりしながらそう言った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
果てしない暗闇にろうそくが灯り、男が「った」と言った。
そしてそれ以後に続く言葉は、どこにもない
どこかの街の、堅牢な城壁のなかで、その日の語りが終わった。
「そうか。それで、続きは……?」
天蓋のなかから声が漏れる。
「いえいえ。本日はこちらでおしまい。続きは明日に致しましょう」
「吟遊詩人よ、エルマンよ、なぜ語ろうとしない」
「閣下。果実は熟します。物語というものも時を経て熟するものでございましょう」
夜の紫色のなかで、エルマンはそう言って、
誰に見えるとも分からぬ一礼をした。
「必ずだ、必ず、勇者の物語を、勇者ハルトのことを、わたしに伝えよ」
「もちろんです。この後、勇者は竜と戦うことになります」
「勝つのか? それとも負けるのか?」
疲労に満ちた声がそのように囁く。
甲高い声の詩人が、けらけらと笑い声をあげた。
「それを知りたいので?」
「……いや、いい」
「そうでしょう、物語は結末でなく、過程に意味があるものです」
「分かっている」
その声に気だるさと厭世の念が籠っていることを、即座に詩人は見抜いた。
だから、すこしおどけたような声を、耳元でささやく。
「それでは、竜退治が終わったところからお話しましょうか?」
天蓋の貴人は答えた。
「一切をあますところなく、わたしに伝えよ」
満足げに、エルマンは頷いた。
もちろんその微笑みが、雇い主には決して見えないとしても。
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